第28話 守られた約束
男が村を去ってから、三日が過ぎた。
朔の傷は、わずかずつではあるが回復していた。右肩を動かせばまだ鋭い痛みが走り、立ち上がるにも壁や柱に手を添えなければならない。それでも、寝床から起き上がり、自分の足で部屋の中を歩けるようにはなっていた。
以前なら、これほど長く刀を握れない日々に耐えられなかっただろう。
目を覚ませば剣を振り、身体を鍛え、いつか仇を討つために力を蓄える。それが朔の日常だった。
今は違う。
朝になれば新吉が水を運んでくる。源蔵は薬を煎じ、傷の具合を確かめる。食事のたびに、朔が十分に食べたかどうかまで気にしてくる。
何も特別なことはない。
けれど、その当たり前が、朔には妙に落ち着かなかった。
「朔さん、また考え事?」
縁側から声をかけてきたのは新吉だった。手には、洗ったばかりの布がある。
「そんな顔してると、傷が治るのも遅くなるよ」
「傷と考え事に、何の関係がある」
「知らないよ。でも、じいちゃんはよく言ってる。心配事ばかり抱えていると、飯がまずくなるって」
「それは源蔵さんが飯を作るからじゃないのか」
思いがけず口をついて出た言葉に、新吉は目を丸くした。
それから、声を上げて笑った。
「朔さんって、そんなこと言うんだ!」
「……忘れろ」
「嫌だね。じいちゃんに教えてやろう」
新吉は布を抱えて走っていった。
その背中を見送りながら、朔は小さく息を吐いた。
笑ったのは、いつ以来だろう。
戦場では、笑う余裕などなかった。誰かが倒れ、誰かが叫び、銃声が響く。その中で生き残ることだけを考えてきた。
だが、今は少年の他愛ない冗談に、ほんの少し心が緩んでいる。
それを弱さだとは思わなかった。
むしろ、こんな時間を守るためにこそ、刀を納める必要があるのかもしれない。
そう考えたとき、ふと千代の顔が浮かんだ。
彼女も、今頃は診療所で患者を診ているだろうか。
自分が帰らないまま、どれほどの日が過ぎただろう。
生きていると伝えたい。
待たせていることを謝りたい。
けれど、今の朔には手紙を届ける伝手さえなかった。
焦りを押し込めるように、朔は右肩に手を添えた。
まずは、この身体を治す。
帰るために、今できることはそれしかなかった。
*
その日の昼過ぎ、源蔵が険しい顔で戻ってきた。
「朔、少し話がある」
その声に、朔はすぐに姿勢を正した。
「何かありましたか」
「村の外で、妙な動きがある」
源蔵は戸を閉め、声を落とした。
「昨日まで見なかった男が、道の先に立っていたそうだ。村へ入るでもなく、誰かを待つように、こちらを見ていたらしい」
「黒田ですか」
「顔までは分からん。ただ、村の者に、お前のことを尋ねた者もいたそうだ」
朔の表情が硬くなる。
黒田は、まだ諦めていない。
それどころか、村の周囲を探り始めている。
「俺がここにいると分かっているんでしょう」
「その可能性は高い」
「なら、俺が出ていけば……」
「その話はするな」
源蔵は即座に言った。
「お前が出ていけば、相手が手を引くという保証はない。そもそも、あの男が何を考えているのかも分からん」
「ですが、皆さんに危険が及びます」
「危険を承知で、わしらはお前を助けた。今になって、その選択を後悔しているわけではない」
源蔵の言葉に、朔は口を閉ざした。
「ただし、何も知らずに守り続けることもできん。黒田がまた来たら、今度こそ村の者にも事情を話す必要がある」
「……分かりました」
朔はうなずいた。
自分一人で背負えば済むと思っていた。
だが、その考えこそが、周囲の人々を何も知らないまま危険にさらしているのかもしれない。
父を失ったあの夜から、朔は誰にも頼らずに生きようとしてきた。
人を信じれば、失ったときに苦しむ。
誰かを大切にすれば、その者が傷つくことを恐れる。
だから、最初から誰も近づけなければいい。
そう思っていたはずなのに。
千代と出会い、戦場で仲間を失い、源蔵と新吉に助けられた今、その生き方が正しいとは思えなくなっていた。
「源蔵さん」
「何だ」
「俺が知っていることを、話します。黒田が何者なのかは分かりませんが、俺の過去と関係しているのは間違いないと思います」
源蔵は静かにうなずいた。
「それでいい」
そのとき、外から新吉の声が響いた。
「じいちゃん! 大変だ!」
二人は同時に戸口を振り返った。
新吉が息を切らして立っていた。
「村の入口に、あの黒い着物の男がいる!」
朔の顔から、血の気が引いた。
黒田が来た。
*
村の入口には、黒田が一人で立っていた。
その後ろには、少し離れて数人の男たちが控えている。いずれも旅人のような格好をしていたが、腰の刀や周囲をうかがう目つきから、ただの旅人ではないことが分かった。
源蔵が前へ出た。
「何の用だ」
「榊原朔を引き渡してもらう」
黒田は、以前と変わらぬ冷たい声で言った。
「断ったはずだ」
「考えは変わったかと思ってな」
「変わらん」
源蔵は一歩も引かなかった。
黒田は村の家々を見渡した。
「老人一人の意地で、村全体を危険にさらすつもりか」
「村を危険にさらしているのは、お前だ」
「口の減らない老人だ」
黒田は小さく笑った。
「ならば、仕方がない。本人に聞くとしよう」
彼が視線を動かした先に、朔が立っていた。
肩には包帯が巻かれ、顔色もまだ悪い。自力で歩いてきただけでも、傷に負担がかかっているのは明らかだった。
「朔!」
源蔵が振り返った。
「なぜ出てきた!」
「これ以上、皆さんに隠れていてもらうわけにはいきません」
朔は黒田を見据えた。
「黒田。俺を連れていきたいのなら、理由を話せ」
「お前に説明する必要はない」
「なら、行くつもりもない」
黒田の目が細くなった。
「その身体で、何ができる」
「何もできないかもしれない。だが、何も知らないまま、お前の言いなりになるつもりもない」
黒田はしばらく朔を見つめていた。
やがて、懐から一枚の紙を取り出した。
「ならば、これを見ろ」
紙には、見覚えのある家紋が描かれていた。
朔の父が身につけていたものと同じ紋だった。
「……どこで手に入れた」
「お前の父親が残したものだ」
「父は何を残した」
「それを知りたいのは、こちらも同じだ」
黒田は紙を折りたたんだ。
「お前の父、榊原宗一郎は、あるものを持ち出した。それを取り戻さなければならない」
「あるものとは何だ」
「お前が知っているなら、今ここで話せ」
「知らない」
朔は即座に答えた。
「父が何を持ち出したのかも、何を守ろうとしていたのかも、俺は知らない」
黒田の顔から、わずかに笑みが消えた。
「本当に何も知らないのか」
「知っていることがあるなら、最初からお前に尋ねたりはしない」
黒田は黙った。
その沈黙が、朔には妙に気になった。
黒田は、自分が何かを知っていると考えていたのだろうか。
それとも、知らないことを確かめるために、ここまで追ってきたのか。
「お前の父親は、死ぬ前に何かを隠したはずだ」
黒田は低く言った。
「その手掛かりが、お前の家に残されていた可能性がある。宗玄という老人も、それを知っているはずだ」
朔の胸が強く打った。
黒田は、宗玄の名まで知っている。
やはり父と宗玄の過去は、つながっているのだ。
「宗玄に何をするつもりだ」
「質問しているのはこちらだ」
黒田が一歩近づいた。
「お前が知らぬと言うなら、宗玄に聞くしかない」
「待て!」
朔は思わず声を上げた。
黒田は足を止めた。
「宗玄には手を出すな」
「ならば、知っていることを話せ」
朔は歯を食いしばった。
何も知らない。
その事実を、今ほど悔しく思ったことはなかった。
父が何を守ったのか。
なぜ殺されたのか。
宗玄が何を知っているのか。
どれも、答えられない。
黒田は朔の表情を見て、口元をわずかに歪めた。
「どうやら、本当に何も知らないらしいな」
その言葉には、失望とも苛立ちともつかない響きがあった。
「今日は引き上げる。だが、これで終わりではない」
黒田は背後の男たちに目配せした。
「次に来るときまでに、考えておけ。お前が知らなくとも、周りの者が知っていることはあるかもしれん」
そう言い残し、黒田は村を去った。
朔はその背中を見つめていた。
黒田は、父が何かを持ち出したと言った。
それは、宗玄が隠していた巻物なのか。
それとも、別の何かなのか。
確かなことは一つだけだった。
父の死は、朔が考えていた以上に深い闇と結びついている。
*
黒田たちが去ったあと、村人たちは不安げに集まっていた。
源蔵は事情を説明し、朔が何者かに追われていることを隠さずに話した。
誰もが、すぐには言葉を出せなかった。
やがて、一人の老人が口を開いた。
「わしらにできることがあるなら、言ってくれ」
その言葉に、朔は顔を上げた。
「ですが、皆さんまで危険に……」
「それは分かっておる」
老人は朔を見た。
「だが、助けを求めている人間を見捨ててよい理由にはならん」
朔は何も言えなかった。
自分は、こんな言葉をかけられるような人間ではない。
多くの命を奪ってきた。
守るべきものを知らず、復讐だけを追い続けた。
それなのに、この村の人々は、過去をすべて知っているわけでもない自分を助けようとしている。
源蔵が朔の肩に手を置いた。
「今は休め。お前がすべきことは、無理をして倒れることではない」
「……はい」
朔はうなずいた。
自分一人で決着をつけることはできない。
だからといって、すべてを他人に任せることもできない。
身体を治し、動けるようになったら、宗玄のもとへ戻ろう。
父が守ろうとしたものを知るために。
黒田が何を求めているのかを突き止めるために。
そして、千代のもとへ帰るために。
朔は、胸元にしまった薬の包みをそっと握った。
その夜、朔は久しぶりに、千代の夢を見た。
診療所の縁側に座り、千代が湯呑みを差し出している。
彼女は何も尋ねず、ただ、そこにいてくれた。
目が覚めたとき、朔の頬には涙が一筋流れていた。
泣いた理由を、朔自身にも説明することはできなかった。
ただ、帰りたかった。
もう一度、あの場所で茶を飲みたかった。
何事もない一日を、千代と過ごしてみたかった。
その願いが、今の朔を生かしていた。
*
同じ頃、遠く離れた町では、千代が診療所の戸を閉めていた。
夜風が吹き、軒先に吊るした薬草がかすかに揺れる。
朔がいなくなってから、千代は毎日、診療所の仕事を続けていた。
患者を診て、薬を調え、父を手伝う。
待っているだけではいけない。
父にそう言われた日から、千代は自分にできることを一つずつ続けていた。
それでも、夜になると考えてしまう。
朔は生きているのだろうか。
傷は癒えているだろうか。
どこかで、寒さに震えてはいないだろうか。
答えはない。
それでも千代は、朔のために用意した薬の材料を、今日も丁寧にそろえていた。
「千代」
父の声に、千代は振り返った。
「そろそろ休みなさい」
「はい。もう少しだけ片付けたら」
父は娘の手元を見た。
そこには、以前、朔に持たせたものと同じ薬を調えるための材料が並んでいた。
「まだ、あの人のためか」
千代は少しだけ迷い、それからうなずいた。
「……はい」
父は何も責めなかった。
「そうか」
それだけ言って、奥へ戻っていった。
千代は薬草を包みながら、小さくつぶやいた。
「朔さん。どうか、生きていてください」
その願いが、遠く離れた村に届くことはない。
けれど、朔が帰る場所を失わないように、千代は今日も自分の暮らしを続けていた。
そして、朔の父が残した秘密は、黒田の手によって再び動き始めていた。
父が守ろうとしたもの。
それを奪おうとする者たち。
その中心に、自分がいることを、朔はまだ知らなかった。




