第29話 父が遺したもの
朝の空気は、肌に触れると痛いほど冷たかった。
朔は縁側に座り、右肩をかばいながら、庭の向こうを眺めていた。
木々の葉は色を失い始め、風が吹くたび、乾いた音を立てて地面に落ちていく。
この村で目を覚ましてから、どれほどの日が過ぎただろう。
傷は少しずつ癒えている。短い距離なら歩けるようになったが、刀を振るうどころか、腕を高く上げることさえ難しい。
焦りはあった。
黒田は再び来るだろう。父の過去を知るという名も告げぬ男も、まだ戻ってきていない。
そして、千代のいる町は遠い。
生きていると伝えることさえできない自分が、ひどく情けなかった。
「また難しい顔をしてるね」
新吉が、薪を抱えてやってきた。
「そう見えるか」
「うん。昨日も一昨日も同じ顔」
「お前は人の顔をよく見ているな」
「じいちゃんが、相手の顔を見ろって言うんだ。口で嘘をつく人も、顔までは全部隠せないからって」
朔は思わず新吉を見た。
「源蔵さんらしい教えだな」
「でも、じいちゃんは自分の顔には気をつけてないんだよ。怒るとすぐ分かるから」
「聞こえているぞ!」
家の中から源蔵の声が飛んできた。
新吉は肩をすくめ、笑いながら逃げていった。
朔はその後ろ姿を見送り、静かに息を吐いた。
この村には、守るべき暮らしがある。
誰かの冗談に笑い、食事を囲み、明日も同じ朝が来ると信じて眠る。
自分が生きてきた世界とは、ずいぶん違っていた。
だからこそ、黒田の脅威をこのまま放置するわけにはいかなかった。
朔は懐に手を入れた。
千代が持たせてくれた薬の包みは、何度も手に取ったせいで、端が擦り切れている。
「……必ず帰る」
誰に聞かせるでもなく、そうつぶやいた。
そのとき、家の外で足音がした。
源蔵が戸口に現れ、朔に目配せをする。
「お前に客だ」
朔の表情が引き締まった。
「黒田ですか」
「違う。先日来た、名を明かさなかった男だ」
朔は立ち上がろうとした。
肩に痛みが走る。それでも、今度は座ったまま話を聞くわけにはいかなかった。
源蔵が手を貸そうとしたが、朔は首を横に振った。
「自分で行きます」
時間をかけ、朔はゆっくりと足を運んだ。
男は土間の近くで待っていた。
前に会ったときと同じ旅装束だったが、今日は顔色が悪い。ほとんど眠れていないようにも見えた。
「傷はどうだ」
「少しは歩けるようになりました」
「それはよかった」
男はそう言ったものの、安堵した様子はなかった。
「話がある。今度こそ、伝えておかなければならないことがある」
朔は男の目を見つめた。
「父のことですね」
「ああ」
男は懐から、細長い布包みを取り出した。
「これは、私が長い間、預かっていたものだ」
布をほどくと、中から一枚の古い紙が現れた。
紙は黄ばんでおり、端は擦り切れている。何度も折り畳まれた跡があり、墨の一部は薄くなっていた。
そこには、見覚えのある家紋が描かれていた。
そして、その下には短い言葉が記されていた。
――影月流、秘伝巻。
朔の息が止まった。
「これは……」
「お前の父が、私に託したものだ」
「父が?」
「そうだ」
男は紙を朔に差し出した。
「だが、これは巻物そのものではない。巻物の所在と、そこに記された内容を守るための手掛かりだ」
朔は紙を受け取ろうとしたが、男はすぐには手を離さなかった。
「一つ、約束してほしい」
「何ですか」
「これを手にしたからといって、すぐに黒田を追うな。お前はまだ傷を負っている。何より、相手が何を知っているのか、こちらにも分からないことが多い」
「……分かっています」
朔は答えた。
分かっている。
身体が動かない今、無理に動けば命を落としかねない。
それでも、父が遺したものを前にして、胸の奥が熱くなっていた。
父は何を守ろうとしたのか。
影月流の秘伝巻とは、いったい何なのか。
なぜ黒田は、それを取り戻そうとしているのか。
「この紙に、何が書かれているんですか」
「巻物の隠し場所につながる言葉だ。だが、私には最後まで読み解けなかった」
男は紙の一部を指で示した。
そこには、かすれた文字が並んでいた。
――水の絶えるところ。
――月の影が重なるとき。
――師の名を忘れるな。
朔は文字を何度も読み返した。
意味は分からない。
だが、最後の一文に目が止まった。
師の名を忘れるな。
宗玄。
父の過去を知り、影月流を教えた男。
その名が、巻物の所在を探る鍵なのだろうか。
「宗玄なら、これが何を意味するのか分かるかもしれません」
「おそらくな」
男はうなずいた。
「だが、宗玄に会う前に、もう一つ知っておいてほしいことがある」
朔は顔を上げた。
「黒田は、影月流そのものを欲しているわけではない」
「……どういうことです」
「私が知る限り、あの男が求めているのは、剣の技ではない。巻物に記された、ある記録だ」
「記録?」
「誰が何を命じ、誰がそれに従い、何が起きたのか。その記録が残っているのなら、黒田にとって都合の悪い事実が記されているのかもしれない」
朔は紙を見つめた。
父は剣の技だけを守ろうとしたのではない。
誰かの罪を明らかにするため、あるいは、誰かを守るために、この記録を残そうとしたのか。
まだ分からない。
しかし、父がただの武士として生きていたのではないことだけは、少しずつ明らかになっていた。
「あなたは、なぜ父からこれを預かったんですか」
男の顔が曇った。
「私は、父上に借りがある」
「どんな借りですか」
「命を救われた」
男は短く答えた。
「その恩を返すつもりだった。だが、私は守りきれなかった。お前の父も、母も……」
そこで言葉が途切れた。
朔は男の手を見た。
その指は、かすかに震えていた。
嘘をついているようには見えない。
しかし、それだけで信じることもできなかった。
「あなたは、父が殺された夜に何があったのか、知っているんですか」
男は長い沈黙のあと、首を横に振った。
「すべては知らない。私が到着したときには、すでに家は襲われたあとだった」
「……そうですか」
「だが、ひとつだけ確かなことがある」
男は朔をまっすぐに見た。
「お前の父は、最期まで何かを守ろうとしていた。そして、お前を逃がすために時間を稼いだ者がいた可能性がある」
朔の胸が強く締めつけられた。
自分は、なぜ生き残ったのか。
幼い日の記憶は断片的だ。
怒号。血の匂い。倒れた母。
そして、誰かに抱えられて運ばれたような感覚。
あの夜、自分を救ったのは誰だったのか。
宗玄だったのか。
それとも、別の誰かがいたのか。
「……もっと早く、あなたに会いたかった」
朔の声は、自分でも驚くほどかすれていた。
男は目を伏せた。
「私も、そう思っている」
それ以上、二人は何も言わなかった。
*
男が帰ったあと、朔は源蔵に頼み、紙をもう一度見せてもらった。
男は、朔が読み終えたら返してほしいと言い残していた。
朔は文字を一つずつ追った。
水の絶えるところ。
月の影が重なるとき。
師の名を忘れるな。
まるで、誰かに宛てた暗号のようだった。
水の絶えるところ。
山の奥にある枯れ沢だろうか。それとも、川が地下へ消える場所か。
月の影が重なるとき。
特定の季節、特定の時間にだけ現れる何かを指しているのかもしれない。
そして、師の名。
宗玄以外に思い当たる人物はいなかった。
「源蔵さん。俺は、宗玄のもとへ戻らなければなりません」
源蔵は腕を組んだ。
「傷が治ってからだ」
「分かっています」
「分かっている顔には見えんがな」
朔は苦笑した。
「急ぐつもりはありません。ただ、戻ったら聞きたいことが増えました」
「ならば、なおさら身体を治せ。倒れたままでは、話も聞けん」
その言葉に、朔は素直にうなずいた。
今は、焦っても何も変わらない。
生きて帰ること。
そのために身体を治し、真相を知り、黒田が何を企んでいるのかを見極める。
そして、すべてが終わったら。
千代のもとへ帰る。
その願いだけは、何があっても手放したくなかった。
*
その夜。
村から離れた小屋の中で、黒田は一人の男と向かい合っていた。
「紙は見つかったのか」
黒田が尋ねた。
「まだです。ただ、榊原朔が何かを受け取った可能性があります」
「誰からだ」
「名は分かりません。旅装束の男が村を訪れたという話は確認しています」
黒田の目が細くなった。
「そうか。やはり、あの男も動き始めたか」
「どうします」
「急ぐ必要はない」
黒田は机の上に置かれた小さな金具を手に取った。
そこには、榊原家の家紋が刻まれていた。
「朔が生きていると分かった以上、いずれ巻物の手掛かりも見つかる。問題は、その前に誰が真実にたどり着くかだ」
「もし、宗玄が先に見つけたら?」
黒田は金具を握りしめた。
「そのときは、宗玄も黙ってはいられなくなる」
男は黙って頭を下げた。
黒田は窓の外を見た。
夜の闇は深く、遠くの山影さえ見えない。
「榊原宗一郎……。死んでもなお、厄介なものを残してくれた」
低い声が、小屋の中に落ちた。
「だが、今度こそ終わらせる」
黒田の手の中で、家紋の金具が鈍く光った。
朔はまだ知らない。
父が残した記録が、ひとりの男の罪だけでなく、幾人もの人生を変えることになるということを。
そして、その記録を追う道の先には、千代のもとへ帰ることさえ危うくする選択が待っているのだった。




