↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
29/29

第29話 父が遺したもの



 朝の空気は、肌に触れると痛いほど冷たかった。


 朔は縁側に座り、右肩をかばいながら、庭の向こうを眺めていた。


 木々の葉は色を失い始め、風が吹くたび、乾いた音を立てて地面に落ちていく。


 この村で目を覚ましてから、どれほどの日が過ぎただろう。


 傷は少しずつ癒えている。短い距離なら歩けるようになったが、刀を振るうどころか、腕を高く上げることさえ難しい。


 焦りはあった。


 黒田は再び来るだろう。父の過去を知るという名も告げぬ男も、まだ戻ってきていない。


 そして、千代のいる町は遠い。


 生きていると伝えることさえできない自分が、ひどく情けなかった。


「また難しい顔をしてるね」


 新吉が、薪を抱えてやってきた。


「そう見えるか」


「うん。昨日も一昨日も同じ顔」


「お前は人の顔をよく見ているな」


「じいちゃんが、相手の顔を見ろって言うんだ。口で嘘をつく人も、顔までは全部隠せないからって」


 朔は思わず新吉を見た。


「源蔵さんらしい教えだな」


「でも、じいちゃんは自分の顔には気をつけてないんだよ。怒るとすぐ分かるから」


「聞こえているぞ!」


 家の中から源蔵の声が飛んできた。


 新吉は肩をすくめ、笑いながら逃げていった。


 朔はその後ろ姿を見送り、静かに息を吐いた。


 この村には、守るべき暮らしがある。


 誰かの冗談に笑い、食事を囲み、明日も同じ朝が来ると信じて眠る。


 自分が生きてきた世界とは、ずいぶん違っていた。


 だからこそ、黒田の脅威をこのまま放置するわけにはいかなかった。


 朔は懐に手を入れた。


 千代が持たせてくれた薬の包みは、何度も手に取ったせいで、端が擦り切れている。


「……必ず帰る」


 誰に聞かせるでもなく、そうつぶやいた。


 そのとき、家の外で足音がした。


 源蔵が戸口に現れ、朔に目配せをする。


「お前に客だ」


 朔の表情が引き締まった。


「黒田ですか」


「違う。先日来た、名を明かさなかった男だ」


 朔は立ち上がろうとした。


 肩に痛みが走る。それでも、今度は座ったまま話を聞くわけにはいかなかった。


 源蔵が手を貸そうとしたが、朔は首を横に振った。


「自分で行きます」


 時間をかけ、朔はゆっくりと足を運んだ。


 男は土間の近くで待っていた。


 前に会ったときと同じ旅装束だったが、今日は顔色が悪い。ほとんど眠れていないようにも見えた。


「傷はどうだ」


「少しは歩けるようになりました」


「それはよかった」


 男はそう言ったものの、安堵した様子はなかった。


「話がある。今度こそ、伝えておかなければならないことがある」


 朔は男の目を見つめた。


「父のことですね」


「ああ」


 男は懐から、細長い布包みを取り出した。


「これは、私が長い間、預かっていたものだ」


 布をほどくと、中から一枚の古い紙が現れた。


 紙は黄ばんでおり、端は擦り切れている。何度も折り畳まれた跡があり、墨の一部は薄くなっていた。


 そこには、見覚えのある家紋が描かれていた。


 そして、その下には短い言葉が記されていた。


 ――影月流、秘伝巻。


 朔の息が止まった。


「これは……」


「お前の父が、私に託したものだ」


「父が?」


「そうだ」


 男は紙を朔に差し出した。


「だが、これは巻物そのものではない。巻物の所在と、そこに記された内容を守るための手掛かりだ」


 朔は紙を受け取ろうとしたが、男はすぐには手を離さなかった。


「一つ、約束してほしい」


「何ですか」


「これを手にしたからといって、すぐに黒田を追うな。お前はまだ傷を負っている。何より、相手が何を知っているのか、こちらにも分からないことが多い」


「……分かっています」


 朔は答えた。


 分かっている。


 身体が動かない今、無理に動けば命を落としかねない。


 それでも、父が遺したものを前にして、胸の奥が熱くなっていた。


 父は何を守ろうとしたのか。


 影月流の秘伝巻とは、いったい何なのか。


 なぜ黒田は、それを取り戻そうとしているのか。


「この紙に、何が書かれているんですか」


「巻物の隠し場所につながる言葉だ。だが、私には最後まで読み解けなかった」


 男は紙の一部を指で示した。


 そこには、かすれた文字が並んでいた。


 ――水の絶えるところ。


 ――月の影が重なるとき。


 ――師の名を忘れるな。


 朔は文字を何度も読み返した。


 意味は分からない。


 だが、最後の一文に目が止まった。


 師の名を忘れるな。


 宗玄。


 父の過去を知り、影月流を教えた男。


 その名が、巻物の所在を探る鍵なのだろうか。


「宗玄なら、これが何を意味するのか分かるかもしれません」


「おそらくな」


 男はうなずいた。


「だが、宗玄に会う前に、もう一つ知っておいてほしいことがある」


 朔は顔を上げた。


「黒田は、影月流そのものを欲しているわけではない」


「……どういうことです」


「私が知る限り、あの男が求めているのは、剣の技ではない。巻物に記された、ある記録だ」


「記録?」


「誰が何を命じ、誰がそれに従い、何が起きたのか。その記録が残っているのなら、黒田にとって都合の悪い事実が記されているのかもしれない」


 朔は紙を見つめた。


 父は剣の技だけを守ろうとしたのではない。


 誰かの罪を明らかにするため、あるいは、誰かを守るために、この記録を残そうとしたのか。


 まだ分からない。


 しかし、父がただの武士として生きていたのではないことだけは、少しずつ明らかになっていた。


「あなたは、なぜ父からこれを預かったんですか」


 男の顔が曇った。


「私は、父上に借りがある」


「どんな借りですか」


「命を救われた」


 男は短く答えた。


「その恩を返すつもりだった。だが、私は守りきれなかった。お前の父も、母も……」


 そこで言葉が途切れた。


 朔は男の手を見た。


 その指は、かすかに震えていた。


 嘘をついているようには見えない。


 しかし、それだけで信じることもできなかった。


「あなたは、父が殺された夜に何があったのか、知っているんですか」


 男は長い沈黙のあと、首を横に振った。


「すべては知らない。私が到着したときには、すでに家は襲われたあとだった」


「……そうですか」


「だが、ひとつだけ確かなことがある」


 男は朔をまっすぐに見た。


「お前の父は、最期まで何かを守ろうとしていた。そして、お前を逃がすために時間を稼いだ者がいた可能性がある」


 朔の胸が強く締めつけられた。


 自分は、なぜ生き残ったのか。


 幼い日の記憶は断片的だ。


 怒号。血の匂い。倒れた母。


 そして、誰かに抱えられて運ばれたような感覚。


 あの夜、自分を救ったのは誰だったのか。


 宗玄だったのか。


 それとも、別の誰かがいたのか。


「……もっと早く、あなたに会いたかった」


 朔の声は、自分でも驚くほどかすれていた。


 男は目を伏せた。


「私も、そう思っている」


 それ以上、二人は何も言わなかった。


     *


 男が帰ったあと、朔は源蔵に頼み、紙をもう一度見せてもらった。


 男は、朔が読み終えたら返してほしいと言い残していた。


 朔は文字を一つずつ追った。


 水の絶えるところ。


 月の影が重なるとき。


 師の名を忘れるな。


 まるで、誰かに宛てた暗号のようだった。


 水の絶えるところ。


 山の奥にある枯れ沢だろうか。それとも、川が地下へ消える場所か。


 月の影が重なるとき。


 特定の季節、特定の時間にだけ現れる何かを指しているのかもしれない。


 そして、師の名。


 宗玄以外に思い当たる人物はいなかった。


「源蔵さん。俺は、宗玄のもとへ戻らなければなりません」


 源蔵は腕を組んだ。


「傷が治ってからだ」


「分かっています」


「分かっている顔には見えんがな」


 朔は苦笑した。


「急ぐつもりはありません。ただ、戻ったら聞きたいことが増えました」


「ならば、なおさら身体を治せ。倒れたままでは、話も聞けん」


 その言葉に、朔は素直にうなずいた。


 今は、焦っても何も変わらない。


 生きて帰ること。


 そのために身体を治し、真相を知り、黒田が何を企んでいるのかを見極める。


 そして、すべてが終わったら。


 千代のもとへ帰る。


 その願いだけは、何があっても手放したくなかった。


     *


 その夜。


 村から離れた小屋の中で、黒田は一人の男と向かい合っていた。


「紙は見つかったのか」


 黒田が尋ねた。


「まだです。ただ、榊原朔が何かを受け取った可能性があります」


「誰からだ」


「名は分かりません。旅装束の男が村を訪れたという話は確認しています」


 黒田の目が細くなった。


「そうか。やはり、あの男も動き始めたか」


「どうします」


「急ぐ必要はない」


 黒田は机の上に置かれた小さな金具を手に取った。


 そこには、榊原家の家紋が刻まれていた。


「朔が生きていると分かった以上、いずれ巻物の手掛かりも見つかる。問題は、その前に誰が真実にたどり着くかだ」


「もし、宗玄が先に見つけたら?」


 黒田は金具を握りしめた。


「そのときは、宗玄も黙ってはいられなくなる」


 男は黙って頭を下げた。


 黒田は窓の外を見た。


 夜の闇は深く、遠くの山影さえ見えない。


「榊原宗一郎……。死んでもなお、厄介なものを残してくれた」


 低い声が、小屋の中に落ちた。


「だが、今度こそ終わらせる」


 黒田の手の中で、家紋の金具が鈍く光った。


 朔はまだ知らない。


 父が残した記録が、ひとりの男の罪だけでなく、幾人もの人生を変えることになるということを。


 そして、その記録を追う道の先には、千代のもとへ帰ることさえ危うくする選択が待っているのだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。