第27話 父の名を知る者
夜明け前、朔は戸を叩く音で目を覚ました。
「朔さん、起きてる?」
新吉の声だった。
朔は痛む肩をかばいながら、ゆっくりと身を起こした。
「どうした」
「じいちゃんが呼んでる。村の入口に、知らない男が来てるんだ」
その言葉に、朔の表情が変わった。
黒田か。
昨夜、林の中で何かを話していた男たち。あれから一晩も経っていない。再び姿を現したのだとしても、不思議ではなかった。
「分かった。すぐ行く」
「駄目だよ!」
新吉が思わず声を張り上げた。
「まだ歩くのだって大変なのに。じいちゃんが、朔さんは寝かせておけって」
「……そうだな」
朔は一度、目を閉じた。
焦っても身体は動かない。今、無理をすれば、また傷を開くだけだ。
「新吉。どんな男だった?」
「黒田って人じゃないよ。年はじいちゃんより若いくらいかな。旅の人みたいな格好で、じいちゃんに何か渡してた」
「何かを?」
「うん。じいちゃん、見た途端に顔色が変わったんだ」
朔は新吉を見つめた。
黒田ではない男が、源蔵に何かを渡した。
偶然なのか。それとも、自分を探す者たちとつながっているのか。
「新吉。源蔵さんに、俺も話を聞きたいと伝えてくれ」
「でも……」
「頼む」
新吉は不満そうに眉を寄せたが、やがて小さくうなずいた。
「分かった。でも、絶対に無理しないでよ」
新吉が出ていくと、朔は枕元に置かれた着物へ目を向けた。
その袖には、千代が用意してくれた薬の包みがある。
帰らなければならない。
けれど、帰るためには、ここで何が起きているのかを知らなければならなかった。
*
しばらくして、源蔵が部屋に入ってきた。
その手には、古びた紙が握られていた。
「起きていたか」
「はい。新吉から聞きました。何があったんですか」
源蔵はすぐには答えなかった。
朔の前に腰を下ろすと、手にしていた紙をそっと広げた。
そこには、短い文が記されていた。
『榊原朔がこの村にいると聞いた。本人に確かめたいことがある。無理に連れ出すつもりはない。話す機会を与えてほしい』
差出人の名はなかった。
「黒田とは違う人間ですか」
「ああ。昨夜の男とは別人だ。村の入口で、お前の名を出した」
「何者なんでしょう」
「それを聞きたいのは、わしも同じだ」
源蔵は紙をたたんだ。
「ただ、一つ気になることがある」
「何ですか」
「その男は、お前の父親の名を知っていた」
朔の胸が強く打った。
「……父の?」
「榊原という姓だけではない。お前の父親の名を、はっきりと口にした」
朔は息をのんだ。
父の名を知る者。
それは、黒田だけではなかった。
宗玄が隠していた巻物。父の名が記された紙。家紋を見て態度を変えた者たち。
そして、あの夜に現れた黒衣の男。
自分の知らないところで、父の過去を知る者たちが動いている。
「その人は、今どこに?」
「村の外れで待っている。お前が会える状態なら、話をしたいそうだ」
「会います」
朔は即座に答えた。
「駄目だ」
源蔵の声が、部屋に響いた。
「今のお前が外へ出れば、途中で倒れる。話を聞くどころではない」
「ですが、父のことを知っているなら……」
「分かっておる。だからこそ、焦るなと言っている」
源蔵は、朔の肩に巻かれた包帯を見た。
「お前は、ようやく命をつないだばかりだ。生きていることを忘れるな」
朔は唇をかんだ。
知りたい。
父が何をしていたのか。
なぜ家が襲われ、自分だけが生き残ったのか。
宗玄は何を知り、なぜ長いあいだ口を閉ざしていたのか。
その答えに近づけるかもしれない機会が、目の前にある。
それでも、今は立ち上がることさえ難しい。
「……分かりました。ここで話を聞きます」
源蔵はうなずき、男を呼びに行った。
*
やがて、部屋に一人の男が入ってきた。
年の頃は四十をいくつか過ぎたあたりだろうか。旅装束は質素で、腰には刀を差している。顔には深い疲れが刻まれていたが、その目には鋭さがあった。
男は朔を見ると、静かに頭を下げた。
「突然の訪問、失礼した」
「あなたは、誰ですか」
朔は相手の目を見た。
「父の名を知っていると聞きました」
「知っている。お前の父、榊原宗一郎をな」
その名を聞いた瞬間、朔の脳裏に幼い日の記憶がよみがえった。
父の大きな手。
稽古のあと、頭をなでてくれた感触。
そして、血に染まった畳の上に倒れていた姿。
朔は無意識に拳を握った。
「父は、何者だったんですか」
男はすぐには答えなかった。
まるで、どこから話すべきかを探しているようだった。
「お前は、父親がただの武士だったと思っているか」
「……違うんですか」
「腕の立つ武士だったことは間違いない。だが、それだけではない」
男は懐から、小さな布包みを取り出した。
中に入っていたのは、古びた金具だった。
朔の目が見開かれる。
そこに刻まれていたのは、見覚えのある家紋だった。
自分の着物に残されていたものと、同じ紋。
「これは……」
「お前の父が持っていたものと同じだ」
「なぜ、あなたがそれを?」
「私が預かったからだ。あの家が襲われる少し前にな」
朔は言葉を失った。
父が殺される前。
この男は、父と接触していたというのか。
「父は、誰かに追われていたんですか」
「その可能性はある。だが、私が知っていることだけで、すべてを語ることはできない」
「なぜです!」
思わず声が強くなった。
肩に痛みが走ったが、朔は構わなかった。
「父は殺されたんです。母も……俺の目の前で。あなたが何かを知っているなら、教えてください!」
男は、苦しげに目を伏せた。
「すまない」
その言葉は、あまりにも静かだった。
「もっと早く、お前に会うべきだったのかもしれない」
「なら、なぜ今まで来なかったんですか」
「お前が生きていると、確信できなかったからだ」
朔は男をにらんだ。
「……どういう意味です」
「榊原の家が襲われたあと、生き残りはいないと聞かされた。私も、それを信じていた」
男は金具を布に戻した。
「だが、最近になって、影月流の使い手が越後の戦場にいるという話を聞いた。さらに、榊原の家紋を身につけた若い男がいたという報せも届いた」
「それで、俺を探していたんですか」
「ああ」
「黒田という男も?」
男の表情がわずかにこわばった。
「黒田……。その男が、お前のところへ来たのか」
「俺を引き渡せと言ってきました」
男は、しばらく黙っていた。
やがて、深く息を吐く。
「そうか。まだ、追っているのか」
「黒田は何者なんですか」
「今は、すべてを話せない」
「また、それですか」
朔の声に怒りが混じった。
「宗玄も、あなたも。俺の父のことを知っているのに、肝心なことを話さない。俺は、いつまで何も知らずにいればいいんですか」
男は朔をまっすぐに見つめた。
「お前には、知る権利がある。だが、知ったあとに何をするかも、考えなければならない」
「俺が何をするかは、俺が決めます」
「そうだな」
男は静かにうなずいた。
「だからこそ、今は一つだけ伝えておく」
部屋の空気が張り詰めた。
「お前の父は、あるものを守ろうとしていた。それが何だったのかを知れば、なぜあの家が襲われたのか、その理由にも近づけるはずだ」
「あるもの……?」
「それ以上は、まだ言えない」
男は立ち上がった。
「お前が自分の足で歩けるようになったら、もう一度会おう。そのときには、私が知っていることを話す」
「待ってください。あなたの名を、まだ聞いていません」
男は戸口で振り返った。
「……今は、名を明かせない。だが、私はお前の敵ではない」
「そんな言葉だけで、信じられると思いますか」
「思わない」
男は、わずかに苦笑した。
「信じるかどうかは、お前が決めればいい」
そう言い残し、男は部屋を出ていった。
朔は、しばらく動けなかった。
父が何かを守ろうとしていた。
そのために、家が襲われたのかもしれない。
しかし、何を守ろうとしたのか。そして、それを奪おうとしていたのは誰なのか。
答えは、まだ遠い。
*
男が村を去ると、源蔵が部屋に戻ってきた。
「話は聞けたか」
「……少しだけ」
「少しでも、何も分からんよりはいいだろう」
源蔵はそう言って、朔のそばに湯呑みを置いた。
朔は両手で湯呑みを包んだ。
温かさが、指先からゆっくりと伝わってくる。
「源蔵さん。俺は、ここを出なければならないかもしれません」
「傷が治ったら、好きにすればいい」
「黒田がまた来たら、皆さんが危険です」
「それを決めるのは、お前ではない」
源蔵は朔を見た。
「お前は、自分が関わった者をすべて遠ざければ、その者たちを守れると思っているのか」
朔は答えられなかった。
「人はな、一人では生きていけん。助けた者もいれば、助けられる者もいる。お前だけが誰かを守らねばならんわけではない」
その言葉に、朔は千代を思い出した。
千代もまた、いつも人を助けようとしていた。
傷ついた者を診て、苦しむ者のそばに座り、何も言わずに手を差し伸べる。
自分が傷を負ったときも、彼女は恐れることなく手当てをしてくれた。
あのとき、自分は何を感じていたのだろう。
ただ傷が癒えることを願っていたのではない。
彼女のいる場所に、もう一度戻りたいと思っていた。
「……俺は、帰らなければなりません」
朔は静かに言った。
「待っている人がいるんです」
源蔵は、それ以上何も尋ねなかった。
ただ、湯呑みを持つ朔の手を見て、穏やかにうなずいた。
「ならば、まずは身体を治せ。それが今のお前にできることだ」
朔はうなずいた。
焦る気持ちは消えない。
それでも、今は生きることから逃げない。
父の過去を知るためにも。
黒田の狙いを突き止めるためにも。
そして、千代のもとへ帰るためにも。
朔は、もう一度湯呑みを口元へ運んだ。
温かい茶が、冷え切っていた身体をわずかに満たしていく。
その温もりを忘れないように、朔はゆっくりと目を閉じた。
まだ、帰るには遠い。
だが、帰るべき場所は、確かにそこにあった。




