第26話 残された手掛かり
黒田が去ったあとも、源蔵の家には重苦しい空気が残っていた。
戸口から差し込む夕暮れの光が、土間の床を赤く染めている。外では新吉が薪を割る音がしていたが、いつもよりもその音は小さく、遠くに聞こえた。
朔は布団の上で、右肩を押さえていた。
無理に身体を動かしたせいで、傷の痛みがぶり返している。源蔵に巻き直してもらった包帯には、また血が滲み始めていた。
「まったく……。死にかけて運び込まれた男が、今度は自分から死ににいくとはな」
源蔵は薬箱を片付けながら、呆れたように言った。
「すみません」
「謝るくらいなら、最初から動くな」
返す言葉もなかった。
朔は天井を見つめた。
黒田という男は、なぜ自分を探しているのか。
ただ戦場で名を知られた兵を捕らえたいというだけではない。あの男の目には、朔個人に向けられた執着があった。
榊原朔。
その名を口にしたとき、黒田は確かに反応した。
父の名も、家紋も、影月流も。
すべてが、一本の糸でつながり始めている。
だが、その先に何があるのかは分からない。
「源蔵さん」
「何だ」
「あの男は、また来ると思いますか」
「来るだろうな」
源蔵は迷いなく答えた。
「お前を連れていくまでは、諦めん顔だった」
「……そうですか」
「だからといって、今すぐ出ていこうなどと考えるなよ。歩くことも満足にできん男が、どこへ行くつもりだ」
朔は黙った。
源蔵の言う通りだった。
刀もない。身体も動かない。黒田が何者なのかも分からない。
今の自分にできることは、ほとんどなかった。
それでも、村の人々を巻き込むわけにはいかなかった。
「俺がここにいるせいで、皆さんに迷惑がかかる」
「迷惑かどうかは、こちらが決める」
源蔵の声は、思いのほか強かった。
「お前は、まだ何も話しておらん。事情も分からん相手に、村の者を脅すような男の言いなりになる必要はない」
「ですが……」
「ただし、お前が何を背負っているのか、それだけは話してもらう」
源蔵は朔の目を見た。
「すべてを話せとは言わん。だが、あの男がお前を追う理由を知らねば、こちらも守りようがない」
朔は視線を落とした。
自分の過去を語ることは、簡単ではなかった。
父と母を失った夜。
血に濡れた家紋。
宗玄のもとで学んだ剣。
復讐のために刀を振るい、何人もの命を奪ってきた日々。
口にすれば、今まで押し込めてきたものが一気にあふれ出してしまいそうだった。
それでも、源蔵や新吉に危険が迫っている以上、何も語らずにいるわけにはいかない。
「……俺の家は、昔、何者かに襲われました」
朔はゆっくりと話し始めた。
「父と母は殺されました。俺だけが生き残り、宗玄という老人に拾われたんです」
「宗玄……」
源蔵が小さく繰り返した。
その名に覚えがあるのかと朔は顔を上げたが、源蔵はすぐに首を横に振った。
「いや、知らん名だ。続けてくれ」
「宗玄は、俺に剣を教えました。俺は……親を殺した者を見つけるために、刀を握ってきました」
そこで言葉が途切れた。
自分の口から語られる過去は、まるで他人の人生のようだった。
復讐だけを目的に生きていた頃には、疑問に思うことさえなかった。
誰を斬るのか。
なぜ斬るのか。
その先に何が残るのか。
そんなことを考える余裕も、考えるつもりもなかった。
「その男が、黒田なのか」
「分かりません。ですが、俺の家のことを知っているのは確かです」
「ならば、そいつはお前の過去に関わる人間なのだろう」
「はい」
朔はうなずいた。
「俺は、真実を知らなければなりません」
「真実を知って、その先はどうする」
源蔵の問いに、朔は答えられなかった。
以前なら、迷わずに言えただろう。
親の仇を討つ。
そのためだけに生きる。
だが今は、違う。
脳裏に浮かんだのは、千代の姿だった。
薬草を刻む手。
湯呑みを差し出す仕草。
そして、別れ際に自分を見つめていた瞳。
帰ると約束したわけではない。それでも、あの場所には自分を待ってくれている人がいる。
「……まだ、分かりません」
朔は正直に答えた。
「以前なら、仇を討つことだけを考えていました。でも今は、それだけではいけない気がするんです」
源蔵は何も言わなかった。
ただ、朔の言葉を静かに聞いていた。
やがて、戸口から新吉が顔をのぞかせた。
「じいちゃん、薪を運んできたよ……って、何の話?」
「お前にはまだ早い話だ」
「またそれかよ」
新吉は不満そうに頬を膨らませた。
その様子に、朔の口元がほんのわずかに緩んだ。
戦場では、誰かが笑うことさえ、ひどく遠い出来事のように感じられた。
けれど、この家では違う。
傷ついた男が横になり、老人が小言を言い、少年がそれに口答えをする。
そんな当たり前の光景が、今の朔には不思議なほど眩しかった。
*
その夜、朔はなかなか眠れなかった。
傷の痛みもあったが、それ以上に、黒田の言葉が頭から離れなかった。
――榊原朔を引き渡せ。
あの男は、自分を連れ戻すような口ぶりだった。
まるで、朔が本来いるべき場所を知っているかのように。
枕元に置かれた着物の袖を、朔はそっと握った。
そこには、千代が用意してくれた薬の包みが入っていた。
戦場で傷を負ったときも、谷底で意識を失いかけたときも、それを手放さずにいた。
包みは少し汚れ、端も擦り切れていた。
それでも、千代が自分のために用意してくれたものだと思うと、捨てる気にはなれなかった。
「……千代」
声に出した途端、胸の奥が締めつけられた。
今、彼女は何をしているだろう。
自分が谷底に落ちたことを知ったのなら、きっと心配している。
生きていると伝えたい。
必ず戻ると、そう告げたい。
だが、ここがどこなのかさえ、まだ正確には分からない。身体が回復するまでには時間がかかるだろう。黒田の追跡を振り切れる保証もなかった。
焦りだけが募っていく。
それでも、朔は目を閉じた。
生きて戻らなければ、何も始まらない。
そのとき、外でかすかな物音がした。
朔は目を開いた。
風が戸を揺らしたのか。それとも、誰かが庭を歩いたのか。
耳を澄ます。
音はもう聞こえなかった。
朔は起き上がろうとしたが、肩の痛みが走り、身体が動かなかった。
今の自分では、確かめに行くこともできない。
しばらくして、戸口の向こうから源蔵の声がした。
「起きているのか」
「……はい」
「外に人影があった。新吉と見てきたが、もう誰もおらん」
「黒田でしょうか」
「分からん。足跡は残っていたが、暗くて詳しくは見えなかった」
源蔵は一度言葉を切った。
「今夜は戸を開けるな。何かあれば、すぐに呼べ」
「分かりました」
足音が遠ざかる。
朔は暗闇の中で、拳を握りしめた。
黒田は去ったのではない。
ただ、こちらの出方をうかがっているのかもしれない。
そして、彼が探しているのは朔だけではない可能性もあった。
父が残したもの。
宗玄が隠してきたこと。
あの家紋を知る者たち。
ばらばらだった手掛かりが、少しずつ形を持ち始めている。
朔は、薬の包みを胸元にしまった。
自分の過去から逃げるつもりはない。
だが、そのために、今ここで手を差し伸べてくれた人々を危険にさらすわけにもいかなかった。
夜明けまで、あとどれほどあるのか。
朔は暗い天井を見つめながら、初めて、自分のためだけではない生き方を考えていた。
*
村から離れた林の中。
月明かりの届かない場所に、一人の男が立っていた。
黒田だった。
彼は懐から小さな金具を取り出した。
月明かりが雲の切れ間から差し込むと、金具に刻まれた家紋が一瞬だけ浮かび上がる。
「……間違いない」
黒田は低くつぶやいた。
「生き残りは、確かにここにいる」
金具を握り込む。
彼の背後で、別の男が木立の間から姿を現した。
「どうします。今夜のうちに連れ出しますか」
「いや。今はまだ動くな」
「ですが、村人がかばい続ければ、面倒なことになります」
「だからこそ、手荒な真似は避ける」
黒田は、源蔵の家がある方角を見つめた。
「榊原朔を連れていく。それが先だ。あの男が何を知っているかは、そのあとで確かめればいい」
「本人は、何も知らないかもしれません」
「それでも構わん」
黒田の声が冷たく響いた。
「知らぬまま生きていてもらっては困る者がいる。……それだけのことだ」
男は、それ以上尋ねなかった。
二人の影が林の奥へと消えていく。
村には再び、静けさが戻った。
だが、朔の知らないところで、過去をめぐる動きは確実に進んでいた。
そして黒田が恐れているものは、朔自身がまだ知り得ない、父の過去に深く結びついていた。




