↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
25/29

第25話 守るための選択



 朝の光が、障子の隙間から差し込んでいた。


 朔は、物音で目を覚ました。


 人の話し声がする。


 低く抑えられた声だった。何を話しているのかまでは聞き取れないが、穏やかな朝の気配とは違っていた。


 朔は身を起こそうとした。


 右肩が痛む。


 歯を食いしばり、左腕で身体を支える。視界が揺れたが、昨日よりは動けた。


 戸口に目を向ける。


 外では、源蔵と新吉が誰かと話していた。


「……約束はできん」


 源蔵の声だった。


「ならば、どうなっても知らんぞ」


 聞き覚えのない男の声が続く。


「わしらは、何も知らぬと言っておる」


「昨日も聞いた。だが、あんたの孫は何かを隠しているようだった」


 朔の目が細くなった。


 自分を捜している男だ。


 昨日、新吉に何かを言ったのだろう。


 朔は布団を押しのけ、左手を床についた。


 立ち上がろうとした瞬間、傷口が引きつるように痛んだ。


「……っ」


 身体が傾き、柱に肩をぶつけそうになる。


 何とか踏みとどまったが、額に汗が浮かんだ。


 今の自分では、まともに戦えない。


 それでも、外へ出なければならないと思った。


 自分のせいで、源蔵たちが危険にさらされている。


 それだけは、見過ごせなかった。


 朔は壁に手をつき、一歩ずつ戸口へ向かった。


     *


「もう一度だけ言う。負傷した武士を引き渡せ」


 男は、源蔵の前に立っていた。


 年は四十前後だろうか。顔には深い皺が刻まれ、腰の刀は手入れが行き届いている。身なりは粗末だが、立ち姿には隙がなかった。


 ただの通りすがりではない。


 源蔵にも、それは分かっていた。


「その男が何をしたというのだ」


「それを、あんたが知る必要はない」


「ならば、知らぬ者を引き渡す理由もない」


 男の表情が険しくなった。


「老人。あんたは、戦がどれほど人を変えるか知らんわけではあるまい」


「知っておるとも」


 源蔵は静かに答えた。


「だからこそ、目の前で傷ついている者を見捨てたくはない」


「その情けが、村の者を危険にさらすこともある」


「それでも、決めるのはわしだ」


 二人の間に、張りつめた沈黙が落ちた。


 新吉は源蔵の背後で拳を握っていた。


 男が一歩近づく。


「その男は、ただの負傷兵ではない。あれをかくまえば、あんたたちも無関係ではいられなくなる」


「なぜ、そこまでして捜す」


 源蔵の問いに、男は答えなかった。


 その沈黙こそが、源蔵の疑念を深めた。


「軍の命令か。それとも、個人的な恨みか」


「余計な詮索はするな」


「ならば、わしもこれ以上は話せん」


 男は源蔵を見据えた。


 やがて、腰の刀に手を添えた。


 新吉が息を呑む。


 そのときだった。


「……やめろ」


 かすれた声が、背後から響いた。


 三人が振り返った。


 戸口に、朔が立っていた。


 顔色は悪く、額には汗が浮かんでいる。右肩には包帯が巻かれ、左手で柱をつかんでいた。


 立っているだけで、精いっぱいの様子だった。


「朔!」


 新吉が駆け寄ろうとした。


「来るな」


 朔は短く制した。


「お前は動くな。傷が開くぞ」


「……俺のせいで、あんたたちに迷惑をかけている」


 朔は男を見た。


「俺を捜しているのだろう」


 男の目が細くなる。


「そうだ。榊原朔だな」


「そうだ」


「ならば、こちらへ来い」


 男は手を差し出すように、朔へ告げた。


「そうすれば、この村には手を出さない」


 朔は男の顔を見つめた。


「お前は何者だ」


「答える必要はない」


「俺をどこへ連れていく」


「それも、お前が知ることではない」


「……ならば、行くわけにはいかない」


 男の眉が動いた。


「村を巻き込むつもりか」


「違う」


 朔は、息を整えながら言った。


「俺は、ここの人たちに助けられた。だから、これ以上迷惑をかけたくない。だが、お前が何者かも分からず、どこへ連れていかれるかも分からないまま従うことはできない」


「口だけは達者だな」


「そう思うなら、名を名乗れ」


 男は答えなかった。


 朔は、左手をゆっくりと腰へ伸ばした。


 そこには、何もない。


 刀はない。


 小刀もない。


 男は、その動きを見て薄く笑った。


「その身体で、何ができる」


「……何もできんかもしれない」


 朔は正直に答えた。


「だが、何も分からぬまま、お前についていくつもりもない」


 男の笑みが消えた。


「ならば、力ずくで連れていくまでだ」


 男が一歩踏み出した。


 新吉が源蔵の前に立つ。


「待ってくれ!」


 声が震えていた。


「その人は、まだ動けないんだ。連れていくにしても、せめて傷が治ってからにしてくれ!」


「お前には関係ない」


「関係ある!」


 新吉は叫んだ。


「俺たちが助けたんだ。目の前で死にかけていたから、助けたんだ。それだけだ。誰かに命令されたからでも、何かをもらうためでもない!」


 男は新吉を見た。


 その顔に、わずかな苛立ちが浮かんだ。


「……青二才が」


 男の手が、刀の柄を握った。


 朔は反射的に身体を動かした。


 男と新吉の間へ入ろうとする。


 だが、一歩踏み出した瞬間、右肩に激痛が走った。


 視界が揺れ、膝が崩れかける。


 朔は歯を食いしばり、どうにか立っていた。


 刀があれば。


 そう思った。


 いつもなら、相手の動きを読み、最初の一撃で勝負を決められる。


 だが、今は違う。


 傷を負い、武器を失い、身体すら思うように動かない。


 剣の技だけでは、何も守れない。


 その現実が、目の前にあった。


「……頼む」


 朔は男に言った。


 男が眉をひそめる。


「何だと」


「この人たちには、手を出すな」


 朔は深く息を吸った。


「俺を捜しているのなら、俺と話せばいい。村の者を脅す必要はない」


「お前が従わぬからだ」


「ならば、俺が責任を負う」


 源蔵が声を上げた。


「朔、やめろ! そんな身体で何ができる!」


 朔は振り返らなかった。


「……もう、十分に助けてもらった」


 声は弱かった。


 だが、その言葉には迷いがなかった。


「これ以上、誰かを巻き込むわけにはいかない」


 男はしばらく朔を見つめていた。


 やがて、刀の柄から手を離した。


「……話にならんな」


 男は踵を返した。


「今日のところは引く。だが、いつまでも待つつもりはない」


「待て」


 朔が呼び止める。


 男は足を止めた。


「せめて、名を聞かせろ」


 長い沈黙のあと、男はわずかに顔を向けた。


「……黒田」


 それだけ告げると、男は歩き去った。


 朔は、その背中を見送った。


 男の足取りに乱れはない。


 ただの使い走りではないだろう。


 そして、自分を捜している理由も、単なる戦場での救助ではなさそうだった。


 朔は何かを考えようとした。


 だが、身体が限界を迎えていた。


 視界が暗くなる。


「朔!」


 新吉の声が聞こえた。


 倒れ込む寸前、源蔵が身体を支えた。


「まったく……。無茶をするにもほどがある」


 朔は、かすかに笑った。


「……すまない」


「謝るくらいなら、次からは寝ていろ」


 源蔵はそう言いながら、朔を部屋へ運んだ。


     *


 再び目を覚ましたのは、日が傾き始めたころだった。


 朔は布団の中で、ゆっくりと呼吸を整えた。


 肩の痛みは、朝よりも強くなっている。


 傷が開いたのかもしれない。


 源蔵が包帯を確かめ、険しい顔をした。


「無理をしたな。しばらくは起き上がるな」


「……あの男は」


「帰ったよ」


「そうか」


 朔は目を閉じた。


 黒田。


 その名だけでは、何も分からない。


 それでも、あの男が再び来ることは間違いないだろう。


「なぜ、あんなことをした」


 源蔵が尋ねた。


「自分の身を守るだけなら、あの男についていくという選択もあったはずだ」


 朔は、すぐには答えなかった。


 あの男についていけば、村は守られるかもしれない。


 自分が何者かを明かし、相手の要求に従えば、少なくとも源蔵たちを脅す理由はなくなる。


 そう考えなかったわけではない。


 だが、あの男の目を見たとき、朔は思った。


 この男に従えば、二度と自分の意思で戻れなくなるかもしれない。


 千代のもとへ帰るという、たった一つの願いさえ。


「……俺は、帰らなければならない」


 朔は静かに言った。


「帰る場所があるんだ」


 源蔵は何も言わなかった。


「ここで死ぬわけにはいかない。だから、あの男の言いなりになるわけにもいかない」


「それだけか」


「……それだけだ」


 源蔵は、朔の顔を見つめた。


 やがて、小さく息を吐く。


「ならば、まずは傷を治せ。帰るにしても、歩けぬままではどうにもならん」


「……ああ」


「それから、わしらにも事情を話してもらう。何も知らずに、いつまでもかくまうわけにはいかんからな」


「分かった」


 朔は、ゆっくりとうなずいた。


 源蔵は立ち上がり、部屋を出ていった。


 朔は天井を見つめた。


 剣を振るえない自分。


 誰かに守られなければ、生きることさえできない自分。


 そんな姿を、これまでの朔なら許せなかっただろう。


 強くなければならない。


 誰よりも強く。


 そうでなければ、大切なものを守れない。


 ずっと、そう信じてきた。


 だが、今の自分はどうだ。


 傷を負い、刀を失い、源蔵たちの助けがなければ、すでに死んでいたかもしれない。


 それでも、彼らは自分を見捨てなかった。


 強いからではない。


 剣が使えるからでもない。


 ただ、目の前に倒れていたからだ。


 朔は左手を見つめた。


 この手で、何人もの命を奪ってきた。


 けれど今は、この手で誰かを守ることすらできなかった。


 悔しかった。


 情けなかった。


 それでも。


 生きなければならない。


 千代のもとへ帰るために。


 そして、今度こそ。


 自分が何を守りたいのか、見失わないために。


     *


 その夜、遠く離れた町では、千代が診療所の戸を閉めていた。


 最後の患者を送り出し、父の手伝いを終える。


 いつもなら、これで一日が終わる。


 だが、今夜も千代は、すぐに部屋へ戻ることができなかった。


 診療所の隅に置かれた茶碗。


 朔が使っていたものだった。


 出立してから、何度も片づけようと思った。


 けれど、手に取るたびに、彼が戻ってきたときのことを考えてしまう。


 茶を出せば、彼はきっと何も言わずに飲むだろう。


 それから、少し困ったような顔で、こちらを見る。


 そんな姿を思い浮かべると、片づけることができなかった。


「千代」


 父の声がした。


「……はい」


「いつまで、そうしているつもりだ」


 千代は茶碗から目を離した。


「何のことでしょう」


「朔という男のことだ」


 千代の胸が、小さく跳ねた。


 父は、娘の隣に腰を下ろした。


「戻ってくると信じているのだな」


 千代は、すぐには答えられなかった。


 信じている。


 そう言い切るには、あまりにも不安が大きかった。


 戦場から届いた知らせ。


 生死は分からないという言葉。


 あの兵士の、申し訳なさそうな顔。


 どれも、千代の心から消えてくれなかった。


「……信じたいのです」


 ようやく、そう答えた。


「でも、怖いのです。待っていても、戻ってこなかったら……」


 言葉が途切れた。


 父は、静かに娘を見つめた。


「待つことは、簡単ではない」


「はい」


「だが、待つと決めたのなら、自分の暮らしまで止めてしまうな。お前が倒れれば、朔が戻ってきたときに、誰があの男の傷を診るのだ」


 千代は、目を見開いた。


 父は少しだけ笑った。


「帰ってくると信じることと、何もできずに待ち続けることは違う」


 千代は、ゆっくりとうなずいた。


 そうだ。


 自分には、できることがある。


 人を治すこと。


 傷ついた者のそばにいること。


 朔が帰ってきたとき、今までと同じように迎えられる自分でいること。


 千代は茶碗をそっと持ち上げた。


「……明日も、いつもどおりにします」


「ああ。それでいい」


 父は立ち上がり、奥へ戻っていった。


 千代は茶碗を丁寧に拭き、元の場所へ戻した。


 そして、小さくつぶやいた。


「朔さん。私は、ここにいます」


 その声は、夜の静けさに溶けていった。


 返事はない。


 それでも千代は、明日の朝も湯を沸かそうと思った。


 いつか、その茶を飲む男が帰ってくると信じて。


 そのころ朔は、村の粗末な布団の中で、眠れぬ夜を過ごしていた。


 二人の間には、まだ遠い距離があった。


 そして、その距離を広げようとする何者かの影が、確かに動き始めていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
毎日更新を楽しみにしてます。朔の秘密って何なんだろ……と気になります(*´꒳`*)千代の元に帰れるのはいつになるか、、、 読むの楽しみにしてます*
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。