第25話 守るための選択
朝の光が、障子の隙間から差し込んでいた。
朔は、物音で目を覚ました。
人の話し声がする。
低く抑えられた声だった。何を話しているのかまでは聞き取れないが、穏やかな朝の気配とは違っていた。
朔は身を起こそうとした。
右肩が痛む。
歯を食いしばり、左腕で身体を支える。視界が揺れたが、昨日よりは動けた。
戸口に目を向ける。
外では、源蔵と新吉が誰かと話していた。
「……約束はできん」
源蔵の声だった。
「ならば、どうなっても知らんぞ」
聞き覚えのない男の声が続く。
「わしらは、何も知らぬと言っておる」
「昨日も聞いた。だが、あんたの孫は何かを隠しているようだった」
朔の目が細くなった。
自分を捜している男だ。
昨日、新吉に何かを言ったのだろう。
朔は布団を押しのけ、左手を床についた。
立ち上がろうとした瞬間、傷口が引きつるように痛んだ。
「……っ」
身体が傾き、柱に肩をぶつけそうになる。
何とか踏みとどまったが、額に汗が浮かんだ。
今の自分では、まともに戦えない。
それでも、外へ出なければならないと思った。
自分のせいで、源蔵たちが危険にさらされている。
それだけは、見過ごせなかった。
朔は壁に手をつき、一歩ずつ戸口へ向かった。
*
「もう一度だけ言う。負傷した武士を引き渡せ」
男は、源蔵の前に立っていた。
年は四十前後だろうか。顔には深い皺が刻まれ、腰の刀は手入れが行き届いている。身なりは粗末だが、立ち姿には隙がなかった。
ただの通りすがりではない。
源蔵にも、それは分かっていた。
「その男が何をしたというのだ」
「それを、あんたが知る必要はない」
「ならば、知らぬ者を引き渡す理由もない」
男の表情が険しくなった。
「老人。あんたは、戦がどれほど人を変えるか知らんわけではあるまい」
「知っておるとも」
源蔵は静かに答えた。
「だからこそ、目の前で傷ついている者を見捨てたくはない」
「その情けが、村の者を危険にさらすこともある」
「それでも、決めるのはわしだ」
二人の間に、張りつめた沈黙が落ちた。
新吉は源蔵の背後で拳を握っていた。
男が一歩近づく。
「その男は、ただの負傷兵ではない。あれをかくまえば、あんたたちも無関係ではいられなくなる」
「なぜ、そこまでして捜す」
源蔵の問いに、男は答えなかった。
その沈黙こそが、源蔵の疑念を深めた。
「軍の命令か。それとも、個人的な恨みか」
「余計な詮索はするな」
「ならば、わしもこれ以上は話せん」
男は源蔵を見据えた。
やがて、腰の刀に手を添えた。
新吉が息を呑む。
そのときだった。
「……やめろ」
かすれた声が、背後から響いた。
三人が振り返った。
戸口に、朔が立っていた。
顔色は悪く、額には汗が浮かんでいる。右肩には包帯が巻かれ、左手で柱をつかんでいた。
立っているだけで、精いっぱいの様子だった。
「朔!」
新吉が駆け寄ろうとした。
「来るな」
朔は短く制した。
「お前は動くな。傷が開くぞ」
「……俺のせいで、あんたたちに迷惑をかけている」
朔は男を見た。
「俺を捜しているのだろう」
男の目が細くなる。
「そうだ。榊原朔だな」
「そうだ」
「ならば、こちらへ来い」
男は手を差し出すように、朔へ告げた。
「そうすれば、この村には手を出さない」
朔は男の顔を見つめた。
「お前は何者だ」
「答える必要はない」
「俺をどこへ連れていく」
「それも、お前が知ることではない」
「……ならば、行くわけにはいかない」
男の眉が動いた。
「村を巻き込むつもりか」
「違う」
朔は、息を整えながら言った。
「俺は、ここの人たちに助けられた。だから、これ以上迷惑をかけたくない。だが、お前が何者かも分からず、どこへ連れていかれるかも分からないまま従うことはできない」
「口だけは達者だな」
「そう思うなら、名を名乗れ」
男は答えなかった。
朔は、左手をゆっくりと腰へ伸ばした。
そこには、何もない。
刀はない。
小刀もない。
男は、その動きを見て薄く笑った。
「その身体で、何ができる」
「……何もできんかもしれない」
朔は正直に答えた。
「だが、何も分からぬまま、お前についていくつもりもない」
男の笑みが消えた。
「ならば、力ずくで連れていくまでだ」
男が一歩踏み出した。
新吉が源蔵の前に立つ。
「待ってくれ!」
声が震えていた。
「その人は、まだ動けないんだ。連れていくにしても、せめて傷が治ってからにしてくれ!」
「お前には関係ない」
「関係ある!」
新吉は叫んだ。
「俺たちが助けたんだ。目の前で死にかけていたから、助けたんだ。それだけだ。誰かに命令されたからでも、何かをもらうためでもない!」
男は新吉を見た。
その顔に、わずかな苛立ちが浮かんだ。
「……青二才が」
男の手が、刀の柄を握った。
朔は反射的に身体を動かした。
男と新吉の間へ入ろうとする。
だが、一歩踏み出した瞬間、右肩に激痛が走った。
視界が揺れ、膝が崩れかける。
朔は歯を食いしばり、どうにか立っていた。
刀があれば。
そう思った。
いつもなら、相手の動きを読み、最初の一撃で勝負を決められる。
だが、今は違う。
傷を負い、武器を失い、身体すら思うように動かない。
剣の技だけでは、何も守れない。
その現実が、目の前にあった。
「……頼む」
朔は男に言った。
男が眉をひそめる。
「何だと」
「この人たちには、手を出すな」
朔は深く息を吸った。
「俺を捜しているのなら、俺と話せばいい。村の者を脅す必要はない」
「お前が従わぬからだ」
「ならば、俺が責任を負う」
源蔵が声を上げた。
「朔、やめろ! そんな身体で何ができる!」
朔は振り返らなかった。
「……もう、十分に助けてもらった」
声は弱かった。
だが、その言葉には迷いがなかった。
「これ以上、誰かを巻き込むわけにはいかない」
男はしばらく朔を見つめていた。
やがて、刀の柄から手を離した。
「……話にならんな」
男は踵を返した。
「今日のところは引く。だが、いつまでも待つつもりはない」
「待て」
朔が呼び止める。
男は足を止めた。
「せめて、名を聞かせろ」
長い沈黙のあと、男はわずかに顔を向けた。
「……黒田」
それだけ告げると、男は歩き去った。
朔は、その背中を見送った。
男の足取りに乱れはない。
ただの使い走りではないだろう。
そして、自分を捜している理由も、単なる戦場での救助ではなさそうだった。
朔は何かを考えようとした。
だが、身体が限界を迎えていた。
視界が暗くなる。
「朔!」
新吉の声が聞こえた。
倒れ込む寸前、源蔵が身体を支えた。
「まったく……。無茶をするにもほどがある」
朔は、かすかに笑った。
「……すまない」
「謝るくらいなら、次からは寝ていろ」
源蔵はそう言いながら、朔を部屋へ運んだ。
*
再び目を覚ましたのは、日が傾き始めたころだった。
朔は布団の中で、ゆっくりと呼吸を整えた。
肩の痛みは、朝よりも強くなっている。
傷が開いたのかもしれない。
源蔵が包帯を確かめ、険しい顔をした。
「無理をしたな。しばらくは起き上がるな」
「……あの男は」
「帰ったよ」
「そうか」
朔は目を閉じた。
黒田。
その名だけでは、何も分からない。
それでも、あの男が再び来ることは間違いないだろう。
「なぜ、あんなことをした」
源蔵が尋ねた。
「自分の身を守るだけなら、あの男についていくという選択もあったはずだ」
朔は、すぐには答えなかった。
あの男についていけば、村は守られるかもしれない。
自分が何者かを明かし、相手の要求に従えば、少なくとも源蔵たちを脅す理由はなくなる。
そう考えなかったわけではない。
だが、あの男の目を見たとき、朔は思った。
この男に従えば、二度と自分の意思で戻れなくなるかもしれない。
千代のもとへ帰るという、たった一つの願いさえ。
「……俺は、帰らなければならない」
朔は静かに言った。
「帰る場所があるんだ」
源蔵は何も言わなかった。
「ここで死ぬわけにはいかない。だから、あの男の言いなりになるわけにもいかない」
「それだけか」
「……それだけだ」
源蔵は、朔の顔を見つめた。
やがて、小さく息を吐く。
「ならば、まずは傷を治せ。帰るにしても、歩けぬままではどうにもならん」
「……ああ」
「それから、わしらにも事情を話してもらう。何も知らずに、いつまでもかくまうわけにはいかんからな」
「分かった」
朔は、ゆっくりとうなずいた。
源蔵は立ち上がり、部屋を出ていった。
朔は天井を見つめた。
剣を振るえない自分。
誰かに守られなければ、生きることさえできない自分。
そんな姿を、これまでの朔なら許せなかっただろう。
強くなければならない。
誰よりも強く。
そうでなければ、大切なものを守れない。
ずっと、そう信じてきた。
だが、今の自分はどうだ。
傷を負い、刀を失い、源蔵たちの助けがなければ、すでに死んでいたかもしれない。
それでも、彼らは自分を見捨てなかった。
強いからではない。
剣が使えるからでもない。
ただ、目の前に倒れていたからだ。
朔は左手を見つめた。
この手で、何人もの命を奪ってきた。
けれど今は、この手で誰かを守ることすらできなかった。
悔しかった。
情けなかった。
それでも。
生きなければならない。
千代のもとへ帰るために。
そして、今度こそ。
自分が何を守りたいのか、見失わないために。
*
その夜、遠く離れた町では、千代が診療所の戸を閉めていた。
最後の患者を送り出し、父の手伝いを終える。
いつもなら、これで一日が終わる。
だが、今夜も千代は、すぐに部屋へ戻ることができなかった。
診療所の隅に置かれた茶碗。
朔が使っていたものだった。
出立してから、何度も片づけようと思った。
けれど、手に取るたびに、彼が戻ってきたときのことを考えてしまう。
茶を出せば、彼はきっと何も言わずに飲むだろう。
それから、少し困ったような顔で、こちらを見る。
そんな姿を思い浮かべると、片づけることができなかった。
「千代」
父の声がした。
「……はい」
「いつまで、そうしているつもりだ」
千代は茶碗から目を離した。
「何のことでしょう」
「朔という男のことだ」
千代の胸が、小さく跳ねた。
父は、娘の隣に腰を下ろした。
「戻ってくると信じているのだな」
千代は、すぐには答えられなかった。
信じている。
そう言い切るには、あまりにも不安が大きかった。
戦場から届いた知らせ。
生死は分からないという言葉。
あの兵士の、申し訳なさそうな顔。
どれも、千代の心から消えてくれなかった。
「……信じたいのです」
ようやく、そう答えた。
「でも、怖いのです。待っていても、戻ってこなかったら……」
言葉が途切れた。
父は、静かに娘を見つめた。
「待つことは、簡単ではない」
「はい」
「だが、待つと決めたのなら、自分の暮らしまで止めてしまうな。お前が倒れれば、朔が戻ってきたときに、誰があの男の傷を診るのだ」
千代は、目を見開いた。
父は少しだけ笑った。
「帰ってくると信じることと、何もできずに待ち続けることは違う」
千代は、ゆっくりとうなずいた。
そうだ。
自分には、できることがある。
人を治すこと。
傷ついた者のそばにいること。
朔が帰ってきたとき、今までと同じように迎えられる自分でいること。
千代は茶碗をそっと持ち上げた。
「……明日も、いつもどおりにします」
「ああ。それでいい」
父は立ち上がり、奥へ戻っていった。
千代は茶碗を丁寧に拭き、元の場所へ戻した。
そして、小さくつぶやいた。
「朔さん。私は、ここにいます」
その声は、夜の静けさに溶けていった。
返事はない。
それでも千代は、明日の朝も湯を沸かそうと思った。
いつか、その茶を飲む男が帰ってくると信じて。
そのころ朔は、村の粗末な布団の中で、眠れぬ夜を過ごしていた。
二人の間には、まだ遠い距離があった。
そして、その距離を広げようとする何者かの影が、確かに動き始めていた。




