第24話 名を告げぬ客
朝の冷え込みが、傷口にまで染み込んでくるようだった。
朔は、薄く目を開けた。
板壁の隙間から差し込む光は弱く、部屋の中には囲炉裏の煙の匂いが残っていた。身体を起こそうとすれば、右肩が痛む。昨日よりも意識ははっきりしていたが、傷が治ったわけではない。
むしろ、熱が引いたぶん、全身の痛みがはっきりと分かるようになっていた。
「起きたか」
戸口から源蔵が顔を出した。
「まだ寝ておれ。顔色が悪い」
「……もう、どれほど眠っていた」
「丸一日というところだな。途中で何度か目を覚ましたが、すぐに眠ってしまった」
朔は眉を寄せた。
一日。
戦場にいたなら、その間に何が起きていたか分からない。仲間たちは撤退できたのか。自分が落ちたあと、敵は追ってきたのか。部隊はどうなったのか。
考え始めれば、次々と疑問が浮かんでくる。
「戦況は……」
「わしに聞かれても分からんよ」
源蔵は、湯気の立つ椀を枕元に置いた。
「ここは街道から外れた村だ。兵が通ることはあるが、戦の詳しいことまでは知らん」
「俺を捜している者がいたと聞いた」
源蔵の手が、わずかに止まった。
「聞いていたのか」
「眠っていたわけではない」
「そうか」
源蔵は朔の顔を見た。
「昨日、男が一人訪ねてきた。肩を撃たれた若い武士を捜していると言っていた」
「どんな男だった」
「刀を差していた。身なりは粗末だったが、村の者という感じではなかったな」
「名は?」
「名乗らなかった」
朔は黙った。
味方の捜索隊かもしれない。
だが、そうと決めつけることもできなかった。
戦場で自分を襲った者たちが、まだ近くにいる可能性もある。あるいは、戦とは別の理由で自分を捜している者がいるのかもしれない。
宗玄の家で出会った、あの黒衣の男。
父の家紋を知り、過去を知っているような口ぶりだった男の姿が脳裏をよぎる。
あの男が、今も自分を追っているのだろうか。
それとも、別の誰かが。
「……俺のことは、誰にも話さないでほしい」
朔は言った。
「軍の者であってもか」
「今は、誰であっても」
源蔵は、しばらく考えるように黙っていた。
「何か事情があるのだな」
「ある」
「人に言えぬ事情か」
「……そうだ」
源蔵は、それ以上問い詰めなかった。
「分かった。だが、ここに長く隠しておけるとは限らん。わしらにも暮らしがある。村の者にまで危険が及ぶようなら、考えなければならんぞ」
「承知している」
「ならば、まずは傷を治せ。話はそれからだ」
源蔵は立ち上がり、部屋を出ていった。
朔は椀の中を見つめた。
薄い粥だった。
戦場では、腹を満たすことすら難しい日があった。冷えた握り飯を水で流し込み、次の命令が来るまで休む。食べることも眠ることも、生き延びるための作業にすぎなかった。
だが、この村では違う。
源蔵は、朔が食べ終えるまで待つ。
新吉は、薪を割り、火を絶やさない。
誰も、朔に戦うことを求めない。
それが、かえって落ち着かなかった。
何もしなくてよい時間など、朔にはほとんどなかったからだ。
彼は左手で椀を持ち、ゆっくりと粥を口に運んだ。
温かかった。
その温かさが、胸の奥に沈んでいた何かを、少しだけ揺らした。
*
昼前、新吉が部屋へ入ってきた。
手には、濡らした布と新しい包帯を持っている。
「傷を替える。爺さまに教わったんだ」
「源蔵殿は医者なのか」
「違うよ。昔、婆さまが病気になったときに、近くの町医者から手当ての仕方を教わったらしい。それから、村で怪我人が出るたびに手伝っている」
新吉は朔のそばに腰を下ろした。
「痛むぞ」
「構わん」
「そういうところが、もう少し普通になればいいのにな」
新吉が小さくつぶやいた。
「何だ」
「いや、何でもない」
新吉は傷を覆っていた布を慎重に外した。
乾きかけた血が布に張りついている。無理に剥がせば傷口を痛めるため、少しずつ湯で湿らせながら取り除いていった。
朔は歯を食いしばった。
痛みには慣れている。
刀傷も、打ち身も、骨に響くような衝撃も経験してきた。
それでも、傷を手当てされることには慣れていなかった。
「……慣れた手つきだな」
「爺さまが、失敗すると怒るからね」
新吉は苦笑した。
「昔、村の子どもが鎌で手を切ったことがあったんだ。俺が慌てて布を巻いたら、爺さまにひどく叱られた。傷口を洗わずに巻くなって」
「正しい」
「分かってるよ。だから今は、ちゃんとやってる」
新吉は新しい布を当てた。
「ところで、あんたは本当に武士なのか」
「……なぜ、そう思う」
「言葉遣いもそうだけど、傷を見たときに分かった。普通の怪我人は、痛ければ痛いと言う。でも、あんたは声を出さない。痛みを我慢することが当たり前になっている」
朔は返事をしなかった。
「戦場にいたんだろう?」
「……ああ」
「人を斬ったこともある?」
朔の視線が、新吉へ向いた。
新吉は包帯を結ぶ手を止めた。
「答えたくないなら、答えなくていい。ただ、知っておきたかった」
部屋に静けさが落ちた。
朔は、これまで斬ってきた者たちの顔を思い出そうとした。
だが、すべてを思い出すことはできなかった。
覚えている顔もある。
声も、倒れたときの音も。
忘れようとしても忘れられない者がいる一方で、名前さえ知らぬまま斬った者もいた。
「……ある」
短く答えた。
新吉は、何も言わなかった。
「何人も斬った」
朔は続けた。
「それが、俺の役目だった」
言葉にしてみると、ひどく簡単だった。
何人も斬った。
それだけのことなのに、その一言の中には、いくつもの命が押し込められている。
新吉は包帯を結び終えた。
「そうか」
それだけだった。
責めもしなければ、許しもしない。
朔には、その反応が不思議だった。
「怖くないのか」
「何が?」
「俺が」
新吉はしばらく朔を見つめ、それから首を横に振った。
「怖くないと言えば嘘になる。あんたが本気で俺たちに刃を向けたら、俺にはどうしようもないから」
新吉は自分の手を見た。
「でも、今のあんたは怪我人だ。俺たちの家で寝ていて、粥を食べている。それだけだよ」
「……それだけ?」
「そう。それだけ」
新吉は立ち上がった。
「過去に何をしたかは、俺には分からない。でも、今ここで何をするかは、あんた自身が決められるんじゃないか」
その言葉を残し、新吉は部屋を出ていった。
朔は、しばらく動かなかった。
過去に何をしたか。
今、何をするか。
宗玄も、似たようなことを言っていた気がする。
だが、朔はこれまで、過去から逃げることも、過去を変えることもできないと思っていた。
だからこそ、復讐を果たすしかないと考えてきた。
自分の両親を殺した者を見つけ、斬る。
それが終われば、すべてが終わる。
そう信じていた。
けれど、本当にそうなのだろうか。
復讐を果たした先に、自分は何をするのか。
その問いは、今も答えを持たないまま、朔の中に残っていた。
*
その日の夕刻。
村の外れに、一人の男が立っていた。
昨日、源蔵の家を訪ねてきた男だった。
男は集落を見渡し、家々の様子を確かめていた。
やがて、村の入口から戻ってきた新吉の姿を見つけると、静かに近づいた。
「少し、尋ねたいことがある」
新吉は足を止めた。
「何ですか」
「この村に、最近、よそ者が来なかったか」
「旅人なら、ときどき来ますよ」
「若い男だ。右肩に傷を負っている」
新吉の表情が、わずかに強張った。
男はそれを見逃さなかった。
「……いるのか」
「知りません」
「そうか」
男は、腰の刀に手をかけることもなく、淡々と言った。
「もし見つけているなら、隠さないほうがいい。その男は、ただの負傷兵ではないかもしれない」
「どういう意味ですか」
「それを知りたければ、男を引き渡すことだ」
新吉の顔から血の気が引いた。
「引き渡す?」
「そうすれば、村に迷惑はかけない」
男の声は穏やかだった。
だが、その穏やかさが、かえって新吉の不安を煽った。
「……あんたは、誰なんです」
「名を知る必要はない」
「その人を、どうするつもりですか」
男は答えなかった。
ただ、新吉をじっと見つめた。
やがて、懐から小さな紙片を取り出し、新吉へ差し出した。
「これを、源蔵という老人に渡してくれ」
「爺さまに?」
「明日の朝までに返事がほしい。男を引き渡すのか、それとも、村ごと厄介事を抱えるのか」
新吉は紙片を受け取らなかった。
男はそれを近くの木箱の上に置いた。
「よく考えることだ」
そう言い残し、男は村を離れていった。
新吉は、その背中を見送った。
紙片には、何が書かれているのだろう。
男は何者なのか。
そして、朔は本当に、ただ戦場で負傷しただけの武士なのだろうか。
新吉はしばらく動けなかった。
やがて、紙片を拾い、源蔵のもとへ急いだ。
*
夜。
源蔵は、囲炉裏の明かりの下で紙片を広げていた。
そこには、短い文が記されていた。
――榊原朔を引き渡せ。拒めば、村の者にも責任を問う。
源蔵は、紙片を握りしめた。
「……榊原、朔か」
名を口にしたのは、これが初めてだった。
部屋の向こうでは、朔が眠っている。
まだ傷は深く、立ち上がることもできない。
そんな男を引き渡せば、村に危険が及ぶことは避けられるのかもしれない。
だが、相手が約束を守る保証などない。
そもそも、なぜこの男は朔を捜しているのか。
源蔵には、分からなかった。
「爺さま……どうするの」
新吉が不安そうに尋ねた。
源蔵は、しばらく黙っていた。
「まずは、本人に聞く」
「でも、あの傷じゃ……」
「それでもだ。わしらが何も知らぬまま、決めるわけにはいかん」
源蔵は紙片を畳んだ。
「明日の朝、話をする」
その声は静かだったが、迷いはなかった。
そのころ、朔は夢を見ていた。
燃える家。
倒れた父。
母の声。
そして、血に濡れた刀。
夢の中で、朔は何度も手を伸ばした。
けれど、届かない。
目の前にいるはずの人々は、炎の向こうへ消えていく。
やがて、景色が変わった。
小さな診療所。
縁側に座る千代。
彼女は何も言わず、朔を見ていた。
その手には、湯気の立つ茶碗がある。
朔は近づこうとした。
だが、足が動かない。
「……千代」
声を上げた瞬間、千代の姿が遠ざかった。
朔は目を覚ました。
暗い部屋。
痛む肩。
囲炉裏の残り火。
夢だった。
朔は荒い息を整え、天井を見上げた。
戻らなければならない。
何があろうと。
その決意だけは、変わらなかった。
しかし、翌朝。
朔は、自分が置かれた状況の厳しさを知ることになる。
自分を助けた村人たちにまで、危険が迫っていることを。




