第23話 刀のない朝
目を覚ましたとき、朔は天井を見ていた。
煤けた梁。
隙間風の入る板壁。
どこかで、薪のはぜる音がしている。
戦場ではない。
そう気づくまでに、しばらく時間がかかった。
朔はゆっくりと目を動かした。障子の向こうから、淡い朝の光が差し込んでいる。枕元には水の入った椀が置かれ、身体には見覚えのない粗末な布団が掛けられていた。
起き上がろうとした。
「ぐっ……!」
右肩に激痛が走った。
思わず身体を丸める。傷口を覆う布が、胸元まで巻かれていた。額にも手当ての跡がある。
「起きるんじゃない」
戸口から声がした。
顔を向けると、崖下で自分を見つけた老人が立っていた。手には湯気の立つ椀を持っている。
「銃で撃たれたうえに、あの斜面を落ちたんだ。骨まで無事かどうかも分からん。無理をすれば、助かるものも助からなくなる」
「……ここは」
「わしらの村だ。大きな街道から外れた、小さな集落だよ」
老人は椀を枕元に置いた。
「名は?」
「榊原……朔」
名乗ってから、朔はわずかに口を閉ざした。
戦場で自分の名を問われることなど、そう多くはなかった。敵に知られれば厄介なこともある。味方に名乗るときでさえ、必要以上のことは話さないようにしてきた。
だが、今は隠す意味もなかった。
「わしは源蔵という。こっちは孫の新吉だ」
老人が戸口の向こうへ目をやる。
そこには、薪を抱えた若い男がいた。朔が崖下で見た、もう一人の村人だった。
「新吉、湯を足してやれ」
「はい、爺さま」
新吉は薪を置き、囲炉裏のそばへ向かった。
源蔵は朔の顔を見た。
「何か食べられそうか」
「……水を」
「水だけでは身体がもたん。少しでも食べろ。腹に入らなければ、傷も治らん」
源蔵は椀を手に取り、朔の背中を支えながら口元へ運んだ。
中身は薄い粥だった。
朔は何とか数口を飲み込んだ。胃が受けつけないのか、喉を通るだけで身体が重くなる。それでも、源蔵は急かさなかった。
「ゆっくりでいい」
その言葉に、朔は目を伏せた。
戦場では、誰も待ってはくれなかった。
歩けぬ者は置いていかれる。動けぬ者は敵に捕らえられる。命令に遅れれば、仲間の命まで危うくなる。
だから、倒れるわけにはいかなかった。
痛みを押し殺し、傷を隠し、動けるふりをする。
それが当たり前になっていた。
だが、この老人は違った。
朔が何者なのか、どこの陣営に属しているのかさえ、まだ詳しく知らないはずだ。
それでも、食べるまで待っている。
「……なぜ、助けた」
朔は尋ねた。
源蔵は一瞬、手を止めた。
「なぜ、とは?」
「俺が何者かも分からなかったはずだ。敵兵だったかもしれない」
「そうだな」
源蔵はあっさりとうなずいた。
「敵兵かもしれん。追われている者かもしれん。あるいは、わしらが関わってはいけない事情を抱えているのかもしれん」
「ならば……」
「それでも、目の前で死にかけている者を見捨てる理由にはならん」
源蔵は椀を置いた。
「わしは医者ではない。お前さんを完全に治せるとも言えん。だが、傷を洗い、血を止め、食べ物を与えるくらいはできる」
その声に、気負いはなかった。
「助けたからといって、何かを返せとも言わん。まずは生きろ。それだけだ」
朔は何も答えられなかった。
生きろ。
その言葉を、こんなふうに向けられたことがあっただろうか。
復讐を果たすために生きろ。
強くなるために生きろ。
敵を倒すために生きろ。
これまで、朔が耳にしてきた言葉には、必ず何かの目的があった。
だが、源蔵の言葉には、それがなかった。
ただ、生きろと言っている。
朔は椀の中に目を落とした。
「……世話になる」
「礼は、動けるようになってから考えればいい」
源蔵はそう言って立ち上がった。
「今は寝ていろ。傷の具合を見に、また来る」
老人が部屋を出ていく。
朔は天井を見つめたまま、静かに息を吐いた。
右肩が脈打つように痛んだ。
刀を握ろうとした。
いつもの癖だった。
だが、そこには何もない。
腰に差していたはずの刀は、崖下に置き去りにしたのか、どこかへ流されたのか。
手元にあるのは、小刀だけだった。
朔は左手を伸ばし、枕元を探った。
小刀もない。
思わず身体を起こしかけ、再び肩の痛みに顔をしかめた。
「……どこだ」
その声を聞きつけたのか、新吉が部屋へ戻ってきた。
「刀なら、持ってきていない」
朔の視線が鋭くなる。
「なぜだ」
「血だらけのあんたを見つけたとき、刀はなかったよ。小刀もな。落ちた場所には、ほかにも何か落ちていたかもしれないが、崖の下は危なくて全部は探せなかった」
「……そうか」
朔は唇を引き結んだ。
刀を失った。
それは、単に武器がなくなったということではなかった。
刀は、朔が生きてきた時間そのものだった。
父を殺された日から、復讐だけを支えにしてきた。
宗玄に拾われ、剣を学び、強くなることだけを考えた。
斬ることでしか、自分の存在を確かめられなかった。
その刀が、今は手元にない。
胸の奥に、落ち着かない感情が広がった。
「探しに行く」
「無理だ」
新吉は即座に言った。
「立つこともできないのに、どうやって探すんだ」
「俺の刀だ」
「だから何だよ」
思いがけない強い声に、朔は顔を上げた。
新吉は、まっすぐ朔を見ていた。
「刀が大事なのは分かる。でも、あんたが死んだら、探すこともできないだろ」
朔は黙った。
「爺さまが言っていた。あんたは、崖の下でほとんど息をしていなかったって。あと少し見つかるのが遅れていたら、どうなっていたか分からないんだ」
新吉は言葉を切った。
「それなのに、目を覚ました途端に刀の心配かよ」
若者の声には、怒りよりも、戸惑いがあった。
「……俺には、必要なものだ」
朔はそう答えるのが精いっぱいだった。
新吉はしばらく黙っていた。
やがて、ふっと視線を外した。
「なら、治してから探せばいい。少なくとも、今はそうするしかないだろ」
それだけ言うと、新吉は部屋を出ていった。
残された朔は、動かない右肩を見つめた。
反論はできなかった。
刀を探しに行けば、傷が悪化する。
そんなことは分かっている。
分かっているのに、刀がないという事実を受け入れられなかった。
まるで、自分の一部を失ったようだった。
そのとき、不意に宗玄の声がよみがえった。
『人を斬る技を教えることはできる。だが、その刀をいつ納めるかは、誰にも教えられぬ』
あの言葉を、朔は何度も聞いてきた。
けれど、その意味を本当に考えたことはなかった。
刀を納める。
それは、戦いが終わったときのことだと思っていた。
敵がいなくなったとき。
復讐が終わったとき。
自分の目的を果たしたとき。
その先に何があるのか、考えたこともなかった。
今、朔は刀を持っていない。
戦うこともできない。
それでも、まだ生きている。
生きて、何かをしなければならない。
千代のもとへ帰るために。
朔は、ゆっくりと目を閉じた。
*
昼を過ぎたころ、村に一人の男が訪ねてきた。
粗末な羽織をまとい、腰には刀を差している。
新吉が戸口から様子をうかがうと、男は周囲を気にするようにして、源蔵へ声をかけた。
「この辺りで、兵を見かけなかったか」
「兵なら、街道のほうにいくらでもおりますよ」
「そうではない。傷を負った男だ。若い武士で、右肩を撃たれている」
源蔵の表情は変わらなかった。
「さあ、知りませんな」
「本当に?」
男の目が細くなる。
「戦場から落ちた男がいる。仲間が捜しているそうだ。もし見つけたなら、近づかないほうがいい。面倒に巻き込まれるぞ」
「ご忠告、痛み入ります」
源蔵は頭を下げた。
男は納得していない様子だったが、それ以上は追及しなかった。
「何か聞いたら、街道沿いの詰所へ知らせてくれ」
そう言い残し、男は去っていった。
新吉は、男の姿が見えなくなるまで戸口から動かなかった。
「爺さま……」
「声を落とせ」
源蔵は静かに言った。
「今の男が何者かは分からん。だが、あの負傷した若者を捜している者がいるのは確かだ」
「軍の人間かな」
「そうかもしれん。別の者かもしれん」
源蔵は、朔が眠る部屋へ目を向けた。
「どちらにしても、あの若者が目を覚ましたら、話を聞かねばならんな」
「追い出すの?」
「いや」
源蔵は首を横に振った。
「傷が治るまでは、ここに置く。ただし、何も知らずにかくまうわけにもいかん」
新吉は不安そうにうなずいた。
その会話を、朔は聞いていた。
眠っているふりをしていたのだ。
男が何者なのかは分からない。
自分を捜しているのが味方なのか、敵なのかも。
ただ一つ、確かなことがあった。
戦場から離れたこの村にも、戦の影は届いている。
そして、自分がここにいると知られれば、源蔵たちまで危険に巻き込むかもしれない。
朔は、布団の中で左手を握りしめた。
早く傷を治さなければならない。
この人たちに迷惑をかけるわけにはいかない。
そして、何より。
千代のもとへ帰らなければならない。
そのためには、今は耐えるしかなかった。
刀を持たぬまま。
剣を振るえぬまま。
自分の力では何一つできない、この時間を。
朔は天井を見上げた。
窓の外では、風が木々を揺らしていた。
その音は、遠い戦場の銃声とは違っていた。
静かで、穏やかで。
だからこそ、朔は初めて、自分が本当に戦場から離れたのだと感じた。
それが救いなのか。
それとも、新たな危険の始まりなのか。
まだ、分からなかった。




