第22話 生きている男
水の音が、聞こえていた。
絶え間なく流れる音だった。
近いのか、遠いのか。それすら、榊原朔には分からなかった。
目を開けようとした。
だが、まぶたは鉛のように重く、わずかに持ち上げるだけで頭の奥に鋭い痛みが走った。
「……っ」
声にならない息が漏れた。
身体を動かそうとした瞬間、右肩に焼けつくような痛みが走る。
そこで、朔はようやく自分が負傷していることを思い出した。
銃声。
仲間たちの叫び。
斜面を崩れる土の感触。
そして、身体が宙に投げ出された瞬間。
記憶は、そこで途切れていた。
朔はもう一度、目を開けた。
薄暗い空が見えた。
木々の枝が幾重にも重なり、その隙間から朝とも夕ともつかない光が差し込んでいる。
顔のすぐ横を、細い水の流れが通っていた。
崖の下だった。
どうやら、斜面を転がり落ちた末に、沢の脇へ流れ着いたらしい。
身体のあちこちが痛んだ。額には乾いた血がこびりつき、着物は泥と水にまみれている。
右肩の傷からは、まだ血が滲んでいた。
朔は左手を動かし、傷口を押さえた。
指先に、ぬるりとした感触が広がる。
出血は続いている。
このままでは、遠からず動けなくなる。
そう判断したところで、朔は小さく息を吐いた。
戦場なら、何度も似たような傷を見てきた。
傷を負った者がどうなっていくのかも、嫌というほど知っている。
身体が冷え、意識が遠のき、やがて何も感じなくなる。
それだけのことだ。
これまでなら、そう考えただろう。
だが、今は違った。
脳裏に浮かんだのは、戦場で倒れた弥助の顔ではなかった。
湯気の立つ茶碗。
薬草の匂い。
そして、縁側に座り、こちらを見上げた千代の姿だった。
『お帰りなさい』
あの声が、耳の奥によみがえった。
朔は目を閉じた。
帰らなければならない。
そう思った。
だが、身体は動かなかった。
左腕を地面につき、上半身を起こそうとする。
激痛が走り、視界が白く弾けた。
朔は再び、泥の上へ崩れ落ちた。
「……くそ」
かすれた声が漏れる。
剣を握れば、どんな相手でも斬り伏せてきた。
敵に囲まれても、殺意を読み、わずかな隙を見つけて生き延びてきた。
それなのに。
今は、目の前の斜面を上ることすらできない。
自分の命を、自分の力だけではどうにもできない。
その事実が、朔の胸を冷たく締めつけた。
彼は歯を食いしばり、再び身体を起こそうとした。
そのときだった。
遠くで、枝の折れる音がした。
朔の目が開く。
人の足音。
一人ではない。
落ち葉を踏む音が、ゆっくりと近づいてくる。
朔は反射的に左手を腰へ伸ばした。
だが、そこに刀はなかった。
崖を落ちたときに失ったのか、それとも、どこかに置き去りにしてきたのか。
分からない。
手元にあるのは、泥に汚れた短い小刀だけだった。
朔はそれを握りしめた。
敵か。
味方か。
判断しようにも、足音の主が放つ気配を探るだけの力が残っていない。
やがて、頭上から声が降ってきた。
「おい。こっちだ」
男の声だった。
「血の跡が続いている。まだ近くにいるはずだ」
朔は息を潜めた。
追っ手かもしれない。
戦場で自分を捜している敵が、ここまで来たのか。
男たちの足音が近づく。
朔は小刀を握る手に力を込めた。
だが、指先にはほとんど力が入らなかった。
「……いたぞ!」
声が上がった。
朔は最後の力を振り絞り、顔を上げた。
斜面の上に、二つの人影が見えた。
一人は年老いた男。もう一人は、背に薪を負った若い男だった。
二人とも武士の装いではない。
年老いた男は斜面を慎重に下り、朔の傍らに膝をついた。
「おい、聞こえるか」
朔は答えなかった。
「しっかりしろ。どこを撃たれた?」
男が肩の傷を見た。
その表情が険しくなる。
「銃傷か……。こんなところで、何をしておった」
朔は男の顔を見つめた。
敵意は感じられない。
だが、それを確かめる余裕もなかった。
「……水」
ようやく、それだけを口にした。
「水か。待っておれ」
若い男が腰の竹筒を差し出した。
年老いた男は朔の頭を支え、少しずつ水を飲ませた。
冷たい水が喉を通る。
それだけで、身体の奥にわずかな感覚が戻ってきた。
「村の者か……」
朔が尋ねると、老人は短くうなずいた。
「この先の小さな集落に住んでおる。戦が始まってからは、ここらにも兵が入り込むようになった。お前さんは、どこの兵だ」
朔は答えなかった。
どこの兵なのか。
その問いに、今の自分は何と答えればいいのだろう。
藩のためか。
命令のためか。
それとも、誰かを斬るためか。
かつてなら、迷わず答えられたはずだった。
「……今は、どうでもいい」
朔は目を伏せた。
老人はしばらく彼を見ていたが、やがて小さく息を吐いた。
「そうか。なら、まずは生きることを考えろ」
その言葉に、朔の胸がわずかに動いた。
生きること。
これまで、彼は死なないために戦ってきた。
復讐を果たすまでは死ねない。
その一念だけが、朔を前へ進ませていた。
だが、今は違う。
復讐の相手も、家族を殺した者たちの正体も、まだ分からない。
それでも、帰りたい場所ができた。
帰りを待つ人がいる。
それだけの理由で、生きたいと思っていた。
「……俺は」
朔は唇を動かした。
「帰らなければ、ならない」
「どこへだ」
老人が尋ねた。
朔は、すぐには答えられなかった。
千代の家。
あの町。
茶の香りがする、小さな診療所。
そして、千代の声。
「……帰る場所がある」
老人はそれ以上、何も尋ねなかった。
「なら、死ぬわけにはいかんな」
そう言って、若い男に目を向けた。
「手を貸せ。村まで運ぶぞ。この傷では、医者に診せねばならん」
「でも、兵隊をかくまったと知られたら……」
若い男の声には、不安がにじんでいた。
老人は斜面の上を見上げた。
「この男をここへ置いていけば、今夜を越せるかも分からん。それに、見捨てた者が目の前で死ぬのを、わしはもう見たくない」
若い男は黙った。
やがて、小さくうなずいた。
二人は朔の身体を慎重に持ち上げた。
肩に触れた瞬間、激痛が走る。
朔は声を押し殺した。
意識が遠のきかける。
それでも、彼は目を閉じまいとした。
ここで眠れば、もう目を覚ませないかもしれない。
そう思った。
視界の端で、木々の隙間から空が見えた。
千代は、今ごろどうしているだろう。
自分が戻らなければ、彼女はどんな顔をするのだろう。
あのとき、もっと何かを伝えておけばよかったのか。
いや。
約束したのだ。
戻ってから、続きを話すと。
「……千代」
かすかな声が、唇からこぼれた。
老人が顔を向ける。
「誰かの名か」
朔は答えなかった。
答える代わりに、かすかにうなずいた。
やがて、身体を運ばれる振動が遠のいていく。
水の音も、風の音も、少しずつ聞こえなくなった。
意識が沈む直前、朔は胸の内で繰り返した。
帰る。
必ず、帰る。
その言葉だけを握りしめ、朔は再び深い闇へ落ちていった。
*
同じころ。
千代の暮らす町では、いつもと変わらない朝が始まっていた。
井戸端では女たちが水を汲み、通りには荷を運ぶ人々の声が響いている。
診療所にも、朝から患者が訪れていた。
咳の止まらない老人。
指を切った職人。
熱を出した子ども。
千代は一人ひとりに声をかけ、父の手伝いを続けた。
けれど、ふとした瞬間に手が止まる。
戸口に人影が差すたび、顔を上げてしまう。
足音が聞こえるたび、胸が小さく跳ねる。
そのたびに、そこに朔はいないと知る。
「千代、薬を取ってくれ」
父の声に、千代は我に返った。
「はい」
薬棚から包みを取り出し、父に手渡す。
その手元に、もう一つの包みがあった。
朔に渡したものと同じ薬を、自分用にも用意していたのだ。
必要のないものだと分かっている。
それでも、作らずにはいられなかった。
もし帰ってきたら。
傷を負っていたら。
また、何も言わずに無理をするかもしれない。
そう考えると、千代は少しだけ唇を引き結んだ。
「……まったく」
誰に向けたものでもない言葉が漏れた。
叱りたいことは、いくらでもある。
危ないことをしないでほしい。
無茶をしないでほしい。
帰ると約束したなら、その約束を守ってほしい。
けれど、今はそのどれも伝えられない。
千代は薬包をそっと引き出しにしまった。
そして、診療所の戸口へ目を向けた。
風が吹き、暖簾が揺れる。
そこには、誰も立っていなかった。
「……朔さん」
小さく名を呼んでも、返事はない。
それでも千代は、いつもの場所に湯を沸かし、茶を用意した。
帰ってきたとき、すぐに飲めるように。
その一杯が冷めてしまうことを、今はまだ考えないようにしていた。




