第21話 届いた知らせ
銃声が、夜明けの空を切り裂いた。
榊原朔は、泥に膝をつきながら顔を上げた。
目の前には、煙に霞む林が広がっている。木々の向こうでは銃撃が続き、誰かの怒号と負傷兵の呻きが重なっていた。
「退け! 街道を塞がれるぞ!」
味方の兵が叫んだ。
朔たちが応援に向かった部隊は、すでに敵と交戦していた。
街道の先にある小さな集落。その周辺を押さえていた味方は、敵の予想以上の攻勢を受け、分断されかけていた。
朔は土手の陰から周囲を見渡した。
敵は銃を持ち、林と家屋を利用して射撃を繰り返している。こちらも応戦しているが、遮蔽物の少ない道へ出れば、たちまち銃弾の餌食になるだろう。
「左手の用水路へ回れ! 正面から押し返そうとするな!」
朔は声を張った。
近くにいた兵が頷き、二人の仲間を連れて低い姿勢で走り出す。
その直後、銃声が響いた。
一人が倒れ、もう一人が振り返る。
「止まるな!」
朔は叫んだ。
倒れた兵のそばへ駆け寄りたい気持ちを押し殺す。今、全員が足を止めれば、敵の射撃をまともに受けることになる。
まずは退路を確保する。
生き残った者を連れて戻る。
それが今、できることだった。
朔は土手を滑り降り、用水路へ飛び込んだ。
水は冷たく、泥が足にまとわりつく。刀の鞘が水面に触れたが、構ってはいられなかった。
用水路を進んだ先で、味方の兵が二人、倒れた仲間を支えていた。
「動けるか」
「なんとか……」
「ここから先は林の陰を通れ。街道へ出るな」
朔は負傷兵の腕を肩に回し、仲間とともに身を低くして進んだ。
背後から、また銃声が聞こえる。
その音を聞くたび、朔の脳裏には、別の光景が浮かんだ。
血に染まった家。
倒れた父と母。
幼い自分の手に残った、何もできなかった感触。
あの日から、朔は強くなることだけを考えてきた。
誰にも負けない剣を身につければ、二度と何も奪われないと思っていた。
だが、戦場では違う。
どれほど剣の腕を磨いても、銃弾は容赦なく命を奪う。目の前の仲間を救おうとすれば、別の場所で誰かが倒れる。
守りたいと思うだけでは、守れないものがある。
それでも。
朔は負傷兵を支える腕に力を込めた。
せめて、今、手の届く命だけは。
*
昼を過ぎても、戦闘は収まらなかった。
味方の部隊は少しずつ後退し、林の外れにある小さな寺へ負傷者を運び込んでいた。
寺の本堂には、藁や布が敷かれ、傷を負った兵たちが横たわっている。水を求める声、家族の名を呼ぶ声、痛みに耐える呻き。
朔はその間を歩き、まだ動ける者に水を配っていた。
「朔さん」
声をかけてきたのは、以前から同じ隊にいた若い兵だった。
「隊長がお呼びです」
「分かった」
朔は水桶を置き、寺の外へ出た。
隊長は境内の隅で、数人の兵と地図を囲んでいた。顔には疲労の色が濃く、頬には乾いた泥がこびりついている。
「敵が西から回り込んでいる。ここも長くは持たん」
「退くのですか」
「全員をまとめて下がらせたいところだが、街道の一部が押さえられている。別の道を探す必要がある」
隊長は地図の上を指でなぞった。
「この先に川がある。浅瀬を渡れば林へ抜けられるはずだ。だが、川沿いは見通しが悪い。敵が待ち伏せしている可能性もある」
朔は地図を見つめた。
「俺が先に様子を見ます」
「一人でか」
「少人数で動いた方が見つかりにくいでしょう。川を渡れる場所があれば、目印を残して戻ります」
隊長はすぐには答えなかった。
朔の顔を見つめ、それから地図へ視線を戻す。
「分かった。三人で行け。敵を見つけたら交戦するな。戻ることを優先しろ」
「承知しました」
朔は同行する兵を選び、必要な道具を確かめた。
出発の直前、懐に手を入れる。
布包みが指に触れた。
千代が持たせてくれた薬包だった。
水に濡れないよう、何度も包み直していたため、布の端は少し擦り切れている。
朔はその感触を確かめると、再び懐へしまった。
帰ったら、千代に話そう。
戦場で見たものを、どこまで話せるかは分からない。
だが、今度こそ言葉を途中で終わらせたくなかった。
彼女に伝えたいことがある。
自分が何を考え、何を恐れ、何を望むようになったのか。
まだ自分でも、うまく言葉にできない。
それでも、伝えたいと思った。
「行くぞ」
朔は二人の兵を促し、寺を離れた。
*
川へ向かう道は、思った以上に荒れていた。
ぬかるんだ地面には、馬の蹄の跡と無数の草鞋の跡が交差している。折れた枝が散らばり、ところどころに血の跡が残っていた。
朔は歩みを止め、耳を澄ませた。
風の音。
川の流れる音。
そして、その奥にかすかな人の声があった。
「……いるな」
朔は二人の兵に手で合図を送り、木々の陰へ身を寄せた。
川の向こう岸に、敵兵の姿が見えた。
数は少なくとも十人。
銃を持つ者が数人、残りは刀や槍を携えている。彼らは川沿いに散らばり、こちらへ続く道を警戒していた。
正面から渡ることはできない。
朔は周囲を見渡した。
上流へ進めば、川幅が狭くなる場所があるかもしれない。だが、そこにも敵がいる可能性はある。
「一度戻ろう」
朔が小声で言った、そのときだった。
背後で、乾いた枝が折れる音がした。
三人が一斉に振り返る。
林の奥に、人影が立っていた。
「誰だ!」
同行の兵が刀を抜く。
人影は答えず、銃を構えた。
「伏せろ!」
朔が叫ぶと同時に、銃声が轟いた。
弾丸が木の幹を砕き、木片が飛び散る。
朔たちは地面に身を投げた。
続けて、川向こうからも銃声が響いた。
待ち伏せだった。
敵は川沿いだけではない。こちらが偵察に来ることを見越して、林にも兵を潜ませていたのだ。
「戻れ! 寺へ戻るぞ!」
朔は叫び、斜面を駆け下りた。
同行の兵の一人が足を滑らせ、地面に倒れる。
「立て!」
朔が腕をつかんだ瞬間、再び銃声が響いた。
兵の体が、大きく揺れた。
「……あ」
短い声が漏れた。
朔は兵を抱き留めた。
腹のあたりから、じわりと血が広がっていく。
「しっかりしろ!」
朔は傷口を押さえた。
兵は何かを言おうとしたが、言葉にならない息が漏れるだけだった。
もう一人の兵が駆け寄り、二人を支えようとする。
その頭上を銃弾がかすめた。
「朔さん! ここにいたら全員やられます!」
分かっていた。
分かっているのに、手を離せなかった。
この男にも、帰る場所がある。
帰って会いたい人がいるかもしれない。
まだ言えていない言葉があるかもしれない。
そう考えた瞬間、朔は自分の胸にあるものを思い出した。
千代の薬包。
あの日、彼女が見せた表情。
――できれば、戻ってきてからにしてください。
あの言葉に込められていた思いを、朔は今なら少しだけ分かる気がした。
生きていてほしい。
それだけだったのだ。
朔は負傷した兵をもう一人に預けた。
「先に行け。俺が追いつく」
「ですが!」
「行け!」
兵は歯を食いしばり、負傷者を支えて斜面を下り始めた。
朔は刀を抜いた。
林の中から敵兵が姿を現す。
一人、二人。
銃を持つ者は、距離を取ってこちらを狙っている。
朔は木々を遮蔽物に使いながら後退した。
飛び込んできた敵兵の刀を受け、刃を流す。踏み込んできた相手の手首を打ち、体勢を崩したところで肩を押し倒す。
だが、敵は次々と現れた。
数で押し切るつもりなのだろう。
朔は深追いせず、隙を見つけて林の奥へ走った。
そのとき、右肩に鋭い衝撃が走った。
銃弾だった。
朔はよろめき、木の幹に手をついた。
痛みが遅れて押し寄せる。
肩から腕にかけて、熱いものが流れていく。
それでも、足は止めなかった。
ここで倒れれば、千代との約束を果たせない。
あの町へ帰ることもできない。
朔は歯を食いしばり、林を抜けようとした。
しかし、目の前に現れたのは、深い谷へ続く斜面だった。
足元の土は雨で緩み、踏み出すたびに崩れていく。
背後から、敵兵の声が迫る。
「いたぞ! 逃がすな!」
朔は刀を構え直した。
もう、退く道はない。
ならば、突破するしかなかった。
最初の敵が斬りかかってくる。
朔は刃を受け流し、相手の懐へ踏み込んだ。柄で顎を打ち、倒れた男の脇を抜ける。
二人目の刃が迫る。
身をひねってかわしたが、肩の傷が開き、視界が一瞬揺れた。
膝が崩れそうになる。
それでも、朔は刀を離さなかった。
生きる。
今は、それだけを考えた。
千代の顔が浮かぶ。
あの診療所で、彼女が茶を淹れてくれた日のこと。
何も話さなくても、ただ同じ部屋にいるだけで、心が静かになったこと。
もう一度、あの場所へ帰りたい。
その思いが、朔の足を前へ進めた。
しかし、背後から放たれた銃弾が、再び彼の体をかすめた。
足元の土が崩れた。
朔は斜面を踏み外し、谷へと転がり落ちた。
枝が体を打ち、石に肩をぶつける。
最後に見えたのは、曇った空だった。
その向こうに、千代の顔が浮かんだ。
「……千代」
声は、風にかき消された。
朔の体は、谷底の茂みへと消えた。
*
夕刻、寺へ戻った兵たちは、ひどく疲れた様子で境内に座り込んでいた。
負傷者は手当てを受け、隊長は戻ってきた兵から報告を聞いていた。
「川沿いには敵がいました。林にも伏兵が……」
「榊原はどうした」
その問いに、兵は唇を噛んだ。
「俺たちを逃がすために、敵を引きつけました。自分たちは、その隙に戻ってきましたが……」
「戻っていないのか」
「はい」
隊長の顔が険しくなる。
「捜索隊を出す。まだ遠くへは行っていないはずだ」
しかし、夜が近づいていた。
敵の位置も分からない。負傷者は多く、動ける兵も限られている。
すぐに大人数を送り出すことはできなかった。
それでも、隊長は数人の兵を集めた。
「榊原を捜せ。見つからなければ、明朝、もう一度出す」
「承知しました」
兵たちは松明を手に、林へ向かった。
だが、夜の山道は危険だった。
崩れた斜面。深い藪。敵の残党が潜んでいる可能性。
声を張り上げて名を呼んでも、返事はなかった。
「榊原!」
「朔さん!」
何度呼んでも、返ってくるのは風の音だけだった。
やがて、兵たちは谷の近くまでたどり着いた。
そこには、崩れた土と折れた枝が残っていた。
血の跡もある。
だが、その先は深い藪に覆われ、松明の光だけでは何も見えなかった。
「……ここから落ちたのか」
一人が呟いた。
別の兵が、谷底を覗き込む。
底は暗く、川の流れる音だけが聞こえた。
「隊長へ報告しよう」
兵たちはしばらくその場に立ち尽くしたあと、来た道を戻った。
その夜、榊原朔の姿を見つけた者はいなかった。
*
数日後。
町に、一人の兵がたどり着いた。
衣服は泥に汚れ、顔には疲労が刻まれていた。
診療所の前を通りかかった彼は、戸口に立つ千代の姿を見て足を止めた。
「……失礼します」
千代は手を止めた。
「はい。どうなさいましたか」
兵は、何かを言おうとして口を開いた。
しかし、すぐには言葉が出てこなかった。
千代はその様子に、胸騒ぎを覚えた。
「何か、ございましたか」
兵は視線を落とした。
「榊原朔殿を、ご存じでしょうか」
その名を聞いた瞬間、千代の手から布が落ちた。
「……朔さんを?」
「はい」
兵は深く息を吐いた。
「私は、同じ隊にいた者です」
千代は戸口に手をついた。
胸が、嫌な音を立てた気がした。
「朔さんは……ご無事なのですか」
兵は答えなかった。
その沈黙が、何よりも恐ろしかった。
「お願いです。教えてください」
千代の声が震えた。
「朔さんは、どこにいるのですか」
兵は唇を噛み、ようやく口を開いた。
「戦闘の最中、榊原殿は仲間を逃がすために敵を引きつけました。その後、谷へ落ちたと思われます」
「谷……?」
「捜索はしました。しかし、見つかりませんでした」
千代は兵を見つめた。
言葉の意味が、すぐには理解できなかった。
谷へ落ちた。
見つからなかった。
それは、どういうことなのだろう。
「……では、朔さんは」
声が出なかった。
兵は、ゆっくりと首を横に振った。
「生死は、分かっておりません」
千代はその場に立ち尽くした。
風が吹き、戸口に置かれた布が揺れた。
生死が分からない。
それは、死んだということではない。
生きているということでもない。
ただ、分からない。
待つことも、諦めることもできない場所に、自分だけが取り残されたのだ。
「……そう、ですか」
千代は、ようやくそれだけ言った。
兵は深く頭を下げた。
「申し訳ありません」
「あなたが謝ることではありません」
千代は首を横に振った。
「朔さんは……最後まで、戦っていたのですね」
「はい」
「そうですか」
千代は目を伏せた。
涙が出そうだった。
けれど、泣いてしまえば、何かが本当に終わってしまうような気がした。
まだ、終わっていない。
生死は分からない。
ならば、まだ。
「お帰りになる場所は、ここだと……朔さんに伝えていただけませんか」
千代は顔を上げた。
「もし、どこかで生きていらっしゃるのなら。戻ってきてほしいと、伝えてください」
兵は千代の顔を見つめた。
何かを言おうとしたが、結局、深く頭を下げることしかできなかった。
「……承知しました」
兵が去ったあとも、千代はしばらく戸口に立っていた。
通りを人が行き交う。
遠くから、荷車の音が聞こえる。
町は、いつもと変わらず動いていた。
世界は、何も変わっていないように見えた。
それなのに、千代の中では何かが崩れていた。
*
その夜、千代は一人で診療所の奥に座っていた。
卓の上には、朔が使っていた湯呑みが置かれている。
彼が帰ってきたとき、また茶を淹れようと思っていた。
あの日に言いかけた言葉の続きを聞こうと思っていた。
彼が何を伝えようとしていたのか。
自分は、その言葉を聞いて、何と答えるつもりだったのか。
今となっては、確かめることもできない。
千代は湯呑みに手を伸ばした。
冷え切った器は、ひどく静かだった。
「……約束したのに」
声が震えた。
戻ってきてほしいと伝えた。
戻ってきてから話してほしいと伝えた。
朔は、頷いてくれた。
その約束が、こんなにも簡単に遠ざかってしまうなんて、思ってもいなかった。
千代は唇を噛んだ。
涙が一滴、湯呑みのそばに落ちた。
それでも、彼女は湯呑みを片づけなかった。
朔が帰ってきたとき、そこにあるように。
いつか戸口から、あの低い声が聞こえるように。
――ただいま。
その言葉を、もう一度聞けるように。
千代は、湯呑みのそばに手を置いた。
「……待っています」
誰もいない部屋で、そう呟いた。
「朔さん。私は、ここにいますから」
外では風が吹いていた。
遠くの空に、雲が流れていく。
その頃、谷底の深い藪の中で、一人の男がかすかに身じろぎした。
泥にまみれた指が、地面をつかむ。
裂けた衣服の下から、血が滲んでいた。
男は、ゆっくりと目を開いた。
ぼやけた視界に映るのは、木々の隙間から差し込む、わずかな月明かり。
「……千代」
かすれた声が、闇に消えた。
榊原朔は、生きていた。
しかし、彼がその名を呼ぶ声を聞く者は、誰もいなかった。




