第20話 帰る場所
夜明け前、陣営に鐘の音が響いた。
眠りについていた兵たちが起き上がり、慌ただしく身支度を始める。焚き火のそばでは握り飯が配られ、馬の嘶きと人々の怒号が、まだ薄暗い越後の空気を震わせていた。
榊原朔は、刀の柄に手を置いたまま、指揮所の前に立っていた。
「北の街道で敵の動きが確認された」
隊を率いる男が、地図の上に指を落とす。
「この先の集落を押さえられれば、こちらの連絡路が断たれる。敵の規模は不明だ。まずは街道の様子を探り、必要ならば退路を確保する」
周囲の兵たちが頷いた。
「小隊を分ける。先遣隊は街道沿いを進み、敵の位置を確認しろ。残りは少し離れて続け」
朔は地図を見つめた。
川が流れ、その脇に細い道が延びている。田畑の間を縫うように走る道は、場所によっては人が二人並んで歩くのがやっとだ。
身を隠す場所は多い。
だが、いったん敵に待ち伏せされれば、逃げ場は少ない。
「俺が先遣隊に入ります」
朔が申し出ると、隊長は一度だけ彼を見た。
「無理はするな。敵の数が分からなければ、すぐに引き返せ。手柄を立てる必要はない」
「承知しました」
手柄を立てたいと思ったことなど、朔にはなかった。
ただ、与えられた役目を果たす。
それが、これまでの自分だった。
しかし今朝は、胸の内に別の思いがあった。
生きて戻りたい。
誰かのために、そう思うようになっていた。
*
出発の直前、朔は懐に手を入れた。
指先に触れたのは、小さな布包みだった。
千代が持たせてくれた薬包。
彼女は、これを渡したとき、何と言っただろうか。
――傷をひどくする前に、ちゃんと手当てしてください。
叱るような口調だった。
けれど、その目は心配そうに揺れていた。
朔は思わず、口元を緩めた。
戦場で笑うことなど、ほとんどなかった。
敵を前にして笑う者はいる。恐怖を隠すために笑う者もいる。
だが、今の自分が浮かべた笑みは、それらとは違っていた。
千代の顔を思い出しただけで、自然にこぼれたものだった。
「朔さん、何かいいことでもありましたか」
隣にいた若い兵が、不思議そうに尋ねた。
「いや」
「今、笑っていたように見えましたが」
「見間違いだ」
「そうですかねえ」
若い兵は納得していない様子だったが、それ以上は追及しなかった。
朔は布包みを懐へ戻した。
いつか、戦のない場所で、千代ともう一度茶を飲む。
そのときには、戦場の話ばかりではなく、もっと別のことを話してみたい。
今日の空がどれほど青かったか。
道端に咲いていた花が、どんな色をしていたか。
そんな、誰かを斬ることとは何の関係もない話を。
そして、あの日に言えなかった言葉の続きを。
朔は刀の柄を握り直した。
「行こう」
*
街道へ向かうにつれ、周囲の景色は荒れていった。
道沿いの家々は戸を閉ざし、庭先には人の姿がない。田には水が張られたまま、苗が倒れて泥に沈んでいた。
遠くから、砲声が響いた。
兵たちの足が一瞬止まる。
「前方に煙!」
先頭の兵が叫んだ。
街道の先、低い丘の向こうから黒煙が立ち上っている。
朔は目を細めた。
煙の流れを見る限り、火が上がっているのは集落の北側だ。
「隊長へ伝令を出せ。敵が近くにいる可能性がある。ここから先は、まとまって進むな」
命令を受けた兵が駆け戻る。
朔たちは街道を外れ、用水路と林を利用しながら前進した。
しばらく進んだところで、地面に新しい足跡を見つけた。
泥の上に、複数の草鞋の跡が残っている。
その先には、踏み折られた草。
朔はしゃがみ込み、指先で泥に触れた。
まだ乾ききっていない。
近くを通ったばかりだ。
「戻れ。敵がいる」
その言葉が終わるより早く、銃声が鳴った。
林の奥から弾丸が飛び、先頭の兵が倒れる。
「伏せろ!」
朔は地面に身を投げた。
続けて、二発、三発。
乾いた銃声が木々の間を走り、枝が砕けて葉が舞い落ちる。
敵は街道の両側に潜んでいた。
こちらが進むのを待っていたのだ。
「右手の林に敵影! 左にもいるぞ!」
兵たちが叫ぶ。
朔は土手の陰から敵の位置を探った。
正面に見えるのは数人。しかし、銃声はそれ以上の方向から響いている。
数を読み違えれば、隊は包囲される。
「街道へ戻るな! 用水路を使って西へ退け!」
朔は近くの兵に指示を飛ばした。
「ですが、先遣隊が!」
「全員で死ぬつもりか! 動け!」
兵たちは、泥に足を取られながら後退を始めた。
朔は最後尾に残り、追ってくる敵の動きを見極める。
一人の敵兵が林から飛び出した。
銃を構えようとした腕を、朔は刀の鞘で打ち払った。相手がよろめいた隙に懐へ入り、肩を突いて地面に倒す。
その背後から、もう一人が刀を抜いて迫った。
刃が交わる。
相手の剣を受け流し、朔は足元を払った。
男が倒れたところで、朔はその場を離れた。
斬ることはできた。
だが、今は敵を倒すことより、仲間を退かせることが先だった。
背後で、味方の兵が苦痛に呻く声がした。
朔は振り返り、倒れた男の腕をつかんだ。
「立てるか」
「足が……」
男の脛から血が流れていた。
朔は男の肩を自分の肩へ回し、体を支えた。
「肩につかまれ。引きずってでも連れていく」
「朔さん、置いていってください。自分はもう……」
「黙れ」
朔は短く言い放った。
「帰るんだろう」
男が目を見開いた。
「帰って、誰かに会うんだろう。だったら、自分で諦めるな」
それは、かつての自分なら決して口にしなかった言葉だった。
他人の命に、そこまで執着したことはない。
しかし今は、目の前の男にも帰る場所があるのだと思った。
母が待っているかもしれない。
妻や子がいるかもしれない。
あるいは、帰りを待つ者などいなくても、明日を生きたいと思っているのかもしれない。
命の重さに、違いなどないはずだった。
朔は男を支え、用水路沿いに進んだ。
そのとき、背後で銃声が響いた。
朔は反射的に身をかがめた。
弾丸が近くの土を跳ね上げ、泥が頬に飛び散る。
負傷兵が息を呑んだ。
「走れるか」
「やってみます……!」
「無理なら言え。俺が支える」
二人は泥の中を進んだ。
やがて林の切れ目に味方の姿が見えた。残った兵たちが後退を援護し、敵の追撃を食い止めている。
「こちらだ!」
声が飛んだ。
朔は負傷兵を仲間に預け、最後に一度だけ背後を振り返った。
木々の向こうに、敵の影が揺れていた。
その中の一人が、こちらを見ているような気がした。
だが、距離がありすぎて顔は分からない。
朔は視線を切り、味方のもとへ走った。
今日もまた、生き延びた。
しかし、戦場は何も終わらせてくれない。
*
夕刻、朔たちは当初の位置より後方にある小さな集落まで退いた。
負傷者は手当てを受け、隊長は周囲の部隊へ状況を伝えるため、伝令を送った。
戦闘そのものは大きなものではなかった。
それでも、倒れた兵の数を数えるたび、胸の奥が重くなった。
「朔」
隊長が近づいてきた。
「お前の判断で隊は退いた。あのまま街道に固執していたら、もっと被害が出ていたかもしれん」
「俺一人の判断ではありません。皆が動いてくれました」
「そうだな。だが、最後まで負傷兵を運んだのもお前だと聞いた」
朔は返事をしなかった。
隊長はしばらく彼を見てから、低い声で言った。
「戦場では、すべての命を救うことはできん」
「……分かっています」
「分かっていても、救える命を救おうとすることは無駄ではない。忘れるな」
隊長はそれだけ言い、立ち去った。
朔は夕空を見上げた。
救えなかった命がある。
これまで自分が斬ってきた者たちにも、帰りを待つ者がいたのだろうか。
自分が奪った命の向こうに、どれだけの悲しみがあったのだろう。
今になって、そんなことを考える。
遅すぎるのかもしれない。
それでも、考えずにはいられなかった。
朔は懐から薬包を取り出した。
千代の手によって、丁寧に包まれた布。
その包みを見ていると、町の診療所で過ごした時間が蘇ってくる。
薬草の匂い。
湯呑みを置く音。
少し困ったように眉を寄せる千代の顔。
戦場とは、何もかもが違う。
それでも、同じ世界の中にある。
自分が帰ろうとしている場所も、今、誰かが戦っている場所も。
朔は薬包を胸元へしまった。
帰ろう。
その言葉を、今度こそ現実にするために。
*
翌朝、朔は隊長に呼び出された。
指揮所に入ると、地図の前に数人の幹部が集まっていた。
「昨夜、上から命令が届いた」
隊長は険しい顔で言った。
「この一帯の守りを固めるため、各隊の配置を変更する。お前たちの隊も、明朝には別の場所へ移動することになった」
「どちらへ向かうのですか」
朔が尋ねると、隊長は地図の一角を指した。
「北東だ。敵の動き次第では、さらに前へ出る可能性もある」
朔は地図を見つめた。
町へ戻る道は、そこから遠ざかっていく。
もちろん、戦の最中に自分の都合で隊を離れることなどできない。
それは分かっていた。
だが、千代に約束した言葉が、胸の奥で重くなった。
戻ってきてから、続きを話す。
あの言葉を、いつ果たせるのだろう。
「何かあるのか」
隊長が尋ねた。
「いえ」
朔は顔を上げた。
「命令に従います」
隊長は小さく頷いた。
「そうしてくれ」
指揮所を出た朔は、空を見上げた。
雲が低く垂れ込めている。
雨が降るかもしれない。
越後の空は、いつもどこか重かった。
*
その夜、朔は眠れずにいた。
周囲では兵たちが横になり、疲れ切った者たちはすぐに寝息を立て始めている。
朔は一人、外へ出た。
夜風が頬を撫でる。
遠くで、誰かが咳をしていた。
空を見上げても、雲に覆われて星はほとんど見えなかった。
懐から薬包を取り出し、掌に載せる。
千代は、自分が明日どこへ向かうのか知らない。
どれほど危険な場所へ行くのかも。
もし、次に会えるまで長い時間がかかったら。
もし、戻れなかったら。
そこまで考えて、朔は目を閉じた。
今までは、死ぬことなど恐ろしくなかった。
復讐を果たせないまま死ぬことだけが、許せなかった。
だが今は違う。
まだ伝えていない言葉がある。
もう一度、千代と話したい。
彼女の淹れる茶を飲みたい。
何でもない一日を、彼女と過ごしてみたい。
それを失うことが、怖かった。
「……変わったものだな」
自分自身に呟く。
人を斬ることだけを考えていた男が、今では帰る場所のことばかり考えている。
宗玄が聞けば、何と言うだろう。
かつて師は言った。
――刀を振るうより、振るわぬことの方が難しい。
あの言葉の意味を、朔はまだすべて理解していない。
けれど、ひとつだけ分かり始めていた。
人を斬ることよりも、守りたいものを抱えて生きることの方が、ずっと難しい。
それでも。
朔は薬包を握りしめた。
それでも、自分は帰りたい。
千代のいる町へ。
言えなかった言葉の続きを、伝えるために。
*
翌朝、出立の支度が始まった。
兵たちは荷をまとめ、馬には鞍が置かれ、隊長の号令を待っている。
朔は刀を腰に差し、最後に懐の薬包を確かめた。
そのとき、伝令が駆け込んできた。
「報告します! 北方の部隊から連絡が途絶えました!」
指揮所の空気が変わった。
「どういうことだ」
「昨夜、敵と交戦したとの情報がありました。その後、使いが戻っていません!」
隊長は地図を広げた。
幹部たちが集まり、矢継ぎ早に指示を出し始める。
「こちらから応援を出す。動ける者を集めろ!」
朔はその声を聞きながら、静かに刀の柄へ手を置いた。
また、戦場へ向かう。
いつ戻れるかは分からない。
今度こそ、千代との約束が遠のいてしまうかもしれない。
それでも、ここで背を向けることはできなかった。
朔は空を見上げた。
薄い雲の切れ間から、わずかに朝日が差していた。
「……千代」
その名を、声にならないほど小さく呟く。
約束を果たせなくても、忘れたわけではない。
あの町へ帰りたいという思いは、消えていない。
だからこそ、今は生き延びなければならない。
「榊原!」
隊長の声が響いた。
「行けるか」
「はい」
朔は迷わず答えた。
「行けます」
刀の柄を握り、歩き出す。
その背中に、朝日が差した。
まだ、帰る場所は遠い。
*
同じ頃、町では千代が診療所の戸を開けていた。
朝の空気は冷たく、庭先の草には露が残っている。
千代は水を汲み、薬棚を整え、いつものように一日を始めた。
けれど、ふと手が止まる。
朔が出立してから、どれほどの日が過ぎただろう。
戦場の様子は、断片的にしか伝わってこない。
無事なのか。
怪我をしていないか。
食事をきちんと取っているだろうか。
考え始めれば、きりがなかった。
千代は小さく息を吐いた。
「……ちゃんと、手当てしているでしょうね」
誰もいない部屋で、そう呟いた。
返事はない。
それでも、言わずにはいられなかった。
朔が戻ってきたら、まず傷を確かめよう。
それから、温かい茶を淹れよう。
そして、あの日に言いかけた言葉の続きを聞こう。
そのとき、自分はどんな顔をすればいいのだろう。
考えるだけで、胸が落ち着かなくなった。
千代は薬棚の前に立ち、ひとつひとつの薬瓶を確かめた。
待つことしかできない。
戦場へ行くことも、朔の代わりに刀を持つこともできない。
それでも、戻ってきたときに迎えられるように、ここにいる。
それが、今の自分にできることだった。
千代は戸口へ目を向けた。
朝の光が、敷居の上に細く伸びている。
「……お帰りなさい」
まだ誰も帰ってきていない戸口へ向けて、千代はそっと呟いた。
いつか、本当にその言葉を伝えられる日が来ることを願いながら。
*
越後の空の下、朔は再び戦場へ向かっていた。
父と母を失った日から、彼は復讐のために刀を握ってきた。
人を斬り、強くなり、敵を倒すことだけを生きる理由にしてきた。
しかし今、彼の胸には別の願いがある。
誰かを斬るためではなく、生きて帰るために刀を握る。
帰りを待つ人がいるから。
言えなかった言葉があるから。
そして、自分自身が、もう一度あの場所で生きてみたいと思ったから。
朔は歩みを止めなかった。
戦は終わらない。
過去の謎も、まだ明かされてはいない。
それでも、彼の中では何かが変わり始めていた。
刀しか知らなかった男が、初めて帰る場所を知った。
その場所へ戻るために、彼は再び刀を握る。
そして、二人の道は、少しずつ離れていく。
千代が待つ町へ、朔が帰れる日は来るのだろうか。
まだ誰も、その答えを知らなかった。
ここまで『明けの剣 ―幕末の侍、君と生きる―』第1章「刀と恋」を読んでいただき、ありがとうございます。
復讐のために刀を握ってきた朔が、千代と出会い、少しずつ変わり始めた第1章。
朔にとって、千代のいる場所は、いつしかただ帰るだけの場所ではなくなっていました。
しかし、時代は二人の想いを待ってはくれません。
第2章「死んだ男」では、戦乱の中で引き裂かれていく二人と、朔の過去に隠された秘密が、少しずつ明らかになっていきます。
朔と千代の物語は、まだ終わりません。
引き続き、二人の行く末を見届けていただけたら嬉しいです。
これからも『明けの剣 ―幕末の侍、君と生きる―』をよろしくお願いいたします。




