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第19話 その家紋を知る者



 夜明け前の越後は、ひどく静かだった。


 遠くで鳥が鳴き、湿った風が草を揺らしている。


 しかし、榊原朔には、その静けさがかえって不気味に思えた。


 戦場で、本当に安全な場所などない。


 昨日まで人が暮らしていた村も、今では戸板が外され、家の壁には銃弾の跡が残っている。道端には踏み荒らされた畑が広がり、用水路には泥にまみれた草鞋が片方だけ浮かんでいた。


 ここでは、昨日まで当たり前だったものが、ひと晩で失われる。


 人も、家も、帰る場所も。


「朔さん」


 背後から声をかけてきたのは、同じ隊の若い兵だった。


「間もなく出発です。先遣隊から、北の道に敵の斥候がいるとの報告がありました」


「人数は」


「三、四人ほどだそうです。こちらの動きを探っているのかと」


「分かった」


 朔は腰の刀を確かめた。


 鞘に収まった刀の柄に手を添えると、指先に馴染んだ感触が返ってくる。


 長い間、これだけを頼りに生きてきた。


 敵を見つけ、先に動き、斬る。


 それだけを考えていればよかった。


 だが、今は違う。


 帰る場所がある。


 帰りを待っている人がいる。


 そのことを思うたび、胸の奥に小さな痛みが生まれた。


 千代の顔が浮かんだ。


 出立の朝、彼女が差し出した薬包。言いかけた言葉を飲み込んだ自分。戻ってきてから、その続きを話すと約束した。


 あのとき、千代は何も急かさなかった。


 ただ、戻ってきてほしいと願った。


 朔は目を伏せた。


 生きて帰る。


 以前の自分なら、そんな言葉を口にすることさえなかっただろう。


 生きることは、復讐を果たすための手段にすぎなかった。


 しかし今は、その先に何があるのかを知りたいと思っていた。


 千代と過ごす時間。


 湯気の立つ茶。


 何でもない話をしながら、日が暮れていく日常。


 それらを、もう一度この手に取り戻したかった。


「行くぞ」


 朔はそう告げ、草の濡れた道へ踏み出した。


     *


 敵の斥候を見つけたのは、村外れの林に差しかかったときだった。


 木々の間に、人影が三つ。


 そのうち一人が、こちらの気配に気づいた。


「いたぞ!」


 叫び声と同時に、銃声が響いた。


 弾丸が朔の脇をかすめ、背後の木の幹を砕く。


「伏せろ!」


 朔は声を張り、近くの土手へ身を滑らせた。


 銃を持つ敵に、刀だけで正面から挑むのは愚策だ。


 相手が装填し、狙いを定める前に距離を詰められるか。それとも、遮蔽物を利用して退路を断つか。


 朔は土手の陰から敵の位置を見極めた。


 一人は林の奥へ走り、残る二人は銃を構え直している。


「右から回る。撃つな、追い込め!」


 朔は仲間に指示を出し、自らは用水路沿いに走った。


 足元の泥が跳ねる。


 濡れた草に足を取られながらも、朔は木々の隙間を抜け、敵の側面へ回り込んだ。


 一人が銃口を向ける。


 引き金に指がかかる、そのわずかな動き。


 朔は踏み込んだ。


 銃身を刀の鞘で横へ払い、相手の懐へ入る。柄で手首を打ち、銃を落とさせると、肩を押して地面へ倒した。


 もう一人が刀を抜いた。


 刃と刃がぶつかり、乾いた音が林に響く。


 相手の力は強い。しかし、踏み込みが大きすぎた。


 朔は刃を受け流し、相手の体勢が崩れた瞬間に刀の峰を腕へ打ち込んだ。


 男は呻き、膝をついた。


「動くな」


 朔が刀を向けると、男は荒い息を吐きながら両手を上げた。


 そのとき、林の奥で再び銃声がした。


 逃げた一人を追っていた仲間が、木陰から顔を出す。


「一人、取り逃がしました!」


「深追いするな。こちらの位置を知られた。すぐに離れるぞ」


 朔は周囲を見渡した。


 この小さな衝突で、得られたものは少ない。


 だが、敵の斥候が何を探っていたのか。それを知る必要があった。


「お前たちは、何を調べていた」


 捕らえた男は答えなかった。


 年の頃は三十前後だろうか。頬に泥がつき、額から血が流れている。


 朔が刀を鞘へ納め、改めて問いかけようとしたときだった。


 男の視線が、朔の襟元に止まった。


 そして、わずかに目を見開いた。


「……その紋は」


 朔の表情が変わった。


「何?」


 男は朔の顔と襟元を交互に見た。


「いや……まさか」


「何を知っている」


 朔は男の胸元をつかんだ。


 男は怯えたように身を引いたが、やがて奇妙な笑みを浮かべた。


「生き残りが、いたのか」


 その言葉が、朔の耳に突き刺さった。


「何の話だ」


「その家の者は、もう……」


 男はそこで口を閉ざした。


 仲間の兵が男の腕を押さえ、問い詰めようとする。


 しかし男は、それ以上何も語らなかった。


 朔は男の襟をつかむ手に力を込めた。


「お前は、俺の家を知っているのか」


 男の顔から笑みが消えた。


 そして、朔の目を見た。


「……あんた、本当に何も知らないんだな」


 その声には、嘲りとは違う響きがあった。


 哀れみか。


 あるいは、恐れか。


 朔には分からなかった。


「答えろ」


「俺が話せば、あんたも、俺も終わりだ」


 男はそれだけ言うと、固く口を閉ざした。


 朔はしばらく男を見つめていた。


 やがて、ゆっくりと手を離した。


 偶然ではない。


 そう思った。


 あの山道で宗玄に拾われたとき。


 師が自分の襟元を見て、わずかに表情を変えたこと。


 鍵のかかった部屋にあった巻物と、父の名が記された紙。


 夜の闇に現れた、黒装束の男。


 そして、命を危険にさらすことになるという警告。


 それらが、ひとつの糸でつながり始めている。


 だが、その先には何があるのか。


 朔には、まだ見えなかった。


     *


 その日の夕刻、朔は隊の野営地で一人、刀の手入れをしていた。


 捕らえた男は別の場所へ移され、取り調べを受けている。あの男が何を知っているのか、まだ報告はない。


 刀身を布で拭う。


 薄暗い空の下、刃が鈍く光った。


 人を斬るために磨いてきた刀。


 この刀がなければ、自分は生き残れなかったかもしれない。


 しかし、刀があったからこそ、戻れなくなった道もある。


 父と母を失った日から、朔は復讐だけを見てきた。


 誰が両親を殺したのか。


 なぜ、自分の家は襲われたのか。


 その答えを知るためなら、どれだけ血を流しても構わないと思っていた。


 だが、もしも父の死に、自分の知らない事情があったのなら。


 宗玄が、それを知っていたのなら。


 そして、今も誰かが、その秘密を守ろうとしているのなら。


 自分は何を信じればよいのだろう。


「……師匠」


 朔は、ぽつりと呟いた。


 宗玄は何を隠しているのか。


 自分を拾ったのは、ただの偶然だったのか。


 それとも、あの日からずっと、何かを守るために自分を育ててきたのか。


 答えを求めるなら、宗玄に会わなければならない。


 だが、今は戦場にいる。


 目の前の戦を生き延びなければ、問いを投げかけることさえできない。


 朔は刀を鞘へ収めた。


 懐に手を入れると、千代が持たせてくれた薬包に触れた。


 布越しに伝わる、柔らかな感触。


 それだけで、胸の奥に張り詰めていたものが、ほんの少し緩んだ。


 千代は、自分の過去を知らない。


 人を斬って生きてきたことも、父母を失った日のことも、宗玄が何を隠しているのかも。


 それでも彼女は、戻ってきてほしいと言った。


 過去を知らないからこそ、そう言えたのかもしれない。


 あるいは、すべてを知ったとしても、同じ言葉を口にするのだろうか。


 朔には分からなかった。


 ただ、知りたいと思った。


 自分が何者なのかを。


 そして、自分がこれから何者として生きるのかを。


 夜が深まり、野営地のあちこちで火が焚かれた。


 兵たちの話し声が遠のき、やがて静けさが戻ってくる。


 朔は横になっても、なかなか眠れなかった。


 瞼を閉じると、あの男の言葉が蘇る。


 ――生き残りが、いたのか。


 まるで、自分が生きていることそのものが、誰かにとって予想外であるかのような口ぶりだった。


 父と母を殺した者たちは、朔が死んだと思っていたのだろうか。


 それとも、生き残った自分を、今も探しているのだろうか。


 答えはない。


 だが、ひとつだけ確かなことがあった。


 自分の過去は、まだ終わっていない。


 そして、これから先も、何も知らないままではいられない。


 朔は懐の薬包を、そっと握りしめた。


「……帰らなければ」


 誰に聞かせるでもなく、呟いた。


 父と母の死の真相を知るためにも。


 宗玄に、すべてを問いただすためにも。


 そして、千代との約束を果たすためにも。


 生きて帰る。


 今度こそ、その言葉を手放さないと決めた。


 しかし、その夜。


 朔たちが離れた林の奥では、一人の男が、野営地の灯を遠くから見つめていた。


 男は懐から、小さな金具を取り出した。


 そこには、古びた家紋が刻まれている。


「……まだ、生きていたか」


 男は金具を握り込み、闇の中へ姿を消した。


 風が吹き、草木がざわめいた。


 越後の夜は、何事もなかったかのように静まり返っていた。

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