第18話 消えた巻物
夜明け前、野営地に号令が響いた。
「全員、支度を整えろ! 夜明けとともに移動する!」
眠っていた兵たちが、次々と身を起こした。
焚き火の周りでは、昨夜の残りの飯を口に運ぶ者や、刀の手入れをする者がいる。負傷した兵の何人かは、荷車に乗せられることになっていた。
朔は刀の鞘を確かめ、腰に差した。
昨夜は、ほとんど眠れなかった。
宗玄の顔が、何度も頭に浮かんだからだ。
父の名を記した紙。
古びた巻物。
そして、山の家を見張っていた人影。
あれらが何を意味するのか、朔には分からない。
ただ一つ、確かなことがあった。
宗玄は、朔が知らない父の過去を知っていた。
なぜ黙っていたのか。
なぜ、自分を引き取ったのか。
問いただしたいことは、いくつもあった。
だが、今は戦場にいる。
目の前の戦から逃げるわけにはいかなかった。
「榊原」
声をかけられ、朔は振り向いた。
隊の指揮を執る男が立っていた。
「今日は先行して周辺を探れ。敵の動きが読めん。無理に交戦する必要はない。敵影を確認したら戻れ」
「承知した」
「一人で突っ走るなよ。お前の腕を頼りにはしているが、刀一本で戦が終わるわけじゃない」
男はそう言って、ほかの兵たちのもとへ歩いていった。
朔はその背中を見送った。
刀一本で戦が終わるわけではない。
分かっている。
それでも、朔は長い間、刀こそがすべてだと思っていた。
強くなれば、何でもできる。
敵を斬れば、過去に決着をつけられる。
だが、宗玄の言葉も、千代の声も、今の朔には無視できなくなっていた。
朔は歩き出した。
朝靄の向こうには、まだ見えない敵がいる。
そして、自分の過去にも、見えない何かが潜んでいる気がした。
*
宗玄の家で暮らし始めて、ひと月ほどが過ぎた頃だった。
その日、朔は稽古を終えたあと、家の裏手で薪を割っていた。
宗玄は朝から出かけていた。
どこへ行くのか尋ねても、「用がある」としか答えなかった。
山の中の暮らしは、静かだった。
朝に稽古をし、昼には畑仕事や薪割りを手伝い、夜には粗末な飯を食べる。
朔にとって、それまで経験したことのない日々だった。
それでも、心が安らぐことはなかった。
木刀を振っている間だけ、余計なことを考えずに済んだ。
手の皮がむけるほど稽古をすれば、眠るまでの時間が短くなる。
夢の中で、あの夜を思い出す時間も減った。
だから朔は、誰よりも稽古をした。
宗玄が止めても、隙を見つけては木刀を振った。
その日も、薪割りを終えると、朔は稽古場へ戻ろうとした。
その途中、家の奥から物音が聞こえた。
何かが倒れたような音だった。
「宗玄?」
返事はない。
朔は家の中へ入った。
奥の部屋の戸が、少しだけ開いていた。
普段、宗玄が立ち入ることを許さない部屋だった。
朔は一度、足を止めた。
勝手に入るなと、何度も言われていた。
しかし、部屋の中から、かすかな音がした。
紙をめくるような音。
朔は戸に手をかけた。
部屋の中には、古びた木箱が置かれていた。
蓋が開いている。
その脇には、巻物が一本、転がっていた。
朔は息を呑んだ。
巻物の表には、墨で三文字が記されていた。
――影月流。
宗玄が使う剣術の名だった。
朔は何度もその名を聞いていた。
だが、宗玄は自分の流派について多くを語らなかった。
ただ、型を教え、体の使い方を叩き込み、時折、古い言葉を口にするだけだった。
朔は巻物を拾い上げた。
紙は古く、端が擦り切れている。
開こうとした、そのとき。
「何をしている」
背後から声がした。
朔は飛び上がるように振り返った。
宗玄が立っていた。
その顔からは、いつもの無表情が消えていた。
「……すみません。音がしたので」
「それで、勝手に入ったのか」
「何か倒れたように聞こえました」
「ならば、わしを呼べばよい」
朔は巻物を見た。
「これは……」
「戻せ」
「でも、影月流と書いてあります」
「見れば分かる」
「どうして、これを隠しているんですか」
宗玄の目が、わずかに動いた。
「隠しているのではない」
「では、なぜ見せてくれないんですか」
宗玄は答えなかった。
朔は巻物を握りしめた。
「俺に教えている剣は、影月流なんですよね」
「ああ」
「なら、これは何なんですか」
「お前が今、知る必要のないものだ」
「どうしてですか!」
声が大きくなった。
朔自身も驚いた。
宗玄に怒鳴ったのは、初めてだった。
「俺は、あんたの言うとおりに稽古をしてきた。毎日、木刀を振ってきた。手が動かなくなっても、立ち上がってきた。それなのに、どうして何も教えてくれないんですか」
宗玄は、しばらく朔を見つめていた。
やがて、ゆっくりと口を開いた。
「お前は、強くなりたいのではなかったのか」
「そうです」
「ならば、今は稽古をしろ」
「……それだけですか」
「それだけだ」
朔は唇を噛んだ。
巻物を木箱に戻そうとしたとき、紙の隙間から、小さな紙片が落ちた。
朔は反射的に拾い上げた。
そこには、かすれた文字があった。
ほんの一部しか残っていない。
それでも、朔には読めた。
自分の父の名だった。
朔の手が止まった。
「……なぜ」
声が震えた。
「なぜ、父の名がここにあるんですか」
宗玄の表情が変わった。
ほんの一瞬だった。
だが、朔は見逃さなかった。
「宗玄。あんたは、父を知っているんですか」
老人は答えなかった。
朔は紙片を差し出した。
「教えてください」
宗玄はそれを見つめた。
長い沈黙が流れた。
やがて、宗玄は紙片を受け取った。
「……お前の父は、剣を学んでいた」
朔は息を止めた。
「影月流を、ですか」
「そうだ」
それ以上、宗玄は語らなかった。
「では、父は……」
「今日は、もう休め」
「まだ話は終わっていません!」
朔は叫んだ。
「父は、誰に殺されたんですか。なぜ、母まで殺されたんですか。あんたは何を知っているんですか!」
宗玄は、朔から目を逸らさなかった。
その目には、怒りも、困惑もなかった。
ただ、深い疲れのようなものが浮かんでいた。
「……知っていることを、すべて話せば、お前は強くなれるのか」
朔は言葉を失った。
「仇を討てるのか」
「……それは」
「ならば、今は剣を学べ」
宗玄は巻物を木箱に収めた。
「真実を知ることと、真実を受け止められることは違う」
戸が閉じられた。
朔は、その場に立ち尽くした。
父が影月流を学んでいた。
宗玄は父を知っていた。
そして、何かを隠している。
その事実だけが、朔の胸に残った。
*
その夜、朔は宗玄の家を抜け出した。
眠れなかった。
父が影月流を学んでいたという言葉が、頭から離れなかった。
父は、どんな剣を使っていたのだろう。
宗玄とは、どのような関係だったのだろう。
なぜ、そのことを今まで教えてくれなかったのだろう。
朔は山道を下りた。
月明かりが、木々の隙間から地面を照らしている。
少し歩いたところで、朔は足を止めた。
前方に、人影があった。
黒い着物を着た男だった。
顔はよく見えない。
男は、朔を見ると、ゆっくりと近づいてきた。
「お前が、あの老人の弟子か」
低い声だった。
朔は身構えた。
「誰だ」
「名乗るほどの者ではない」
「何の用だ」
男は、朔の腰にある木刀を見た。
「影月流を学んでいるそうだな」
朔は答えなかった。
「宗玄は、まだあの剣を教えているのか」
「何が言いたい」
男は、わずかに笑った。
「何も知らされていないようだな」
朔の胸がざわついた。
「何を知っている」
「お前の父のこともか」
朔は一歩踏み出した。
「父を知っているのか!」
男は答えなかった。
代わりに、懐から小さなものを取り出した。
月明かりの下で、金属が鈍く光った。
古びた小さな金具だった。
そこには、見覚えのある紋が刻まれていた。
朔は息を呑んだ。
あの夜、父の着物にあったものと同じ紋だった。
「それを、どこで手に入れた」
男は金具を握り込んだ。
「宗玄に聞け」
「待て!」
朔が踏み出した瞬間、男は後ろへ跳んだ。
木々の陰へと身を翻す。
朔は追いかけた。
だが、男の姿はすぐに闇へ紛れた。
足音すら、聞こえなくなった。
朔は立ち止まった。
握りしめた拳が震えていた。
父の紋。
影月流。
宗玄。
すべてが、どこかでつながっている。
それなのに、誰も答えを教えてくれない。
朔は家へ戻った。
宗玄は、戸口に立っていた。
「どこへ行っていた」
朔は黙っていた。
「誰かに会ったな」
その言葉に、朔は顔を上げた。
「……知っていたんですか」
「何をだ」
「俺が、あの男に会うことを」
宗玄の目が細くなった。
「男?」
朔は、相手の顔や言葉を説明した。
父の紋が刻まれた金具を持っていたこと。
影月流を知っていたこと。
そして、宗玄に聞けと言い残したこと。
話を聞き終えた宗玄は、長い間、何も言わなかった。
やがて、老人は家の奥へ目を向けた。
「……そうか。まだ、探しておるのか」
「何をですか」
宗玄は答えなかった。
ただ、朔の肩に手を置いた。
「今夜のことは、誰にも話すな」
「なぜですか」
「お前の命に関わる」
朔は宗玄の顔を見た。
その声は、いつもより低かった。
冗談ではない。
朔にも、それだけは分かった。
「……あの男は何者なんですか」
宗玄は、しばらく朔を見つめていた。
そして、静かに言った。
「お前の父を知る者だ」
それだけだった。
朔は息を呑んだ。
「では、父を殺した者も……」
「今は眠れ」
「宗玄!」
「これ以上は、話せぬ」
老人は背を向けた。
「いつか、お前自身が知ることになる」
戸が閉じた。
朔は、暗い廊下に一人残された。
父は影月流を学んでいた。
宗玄は父を知っていた。
そして、父の紋を持つ何者かが、今も自分を探している。
なぜなのか。
答えはまだ、闇の中だった。
*
朝になり、朔は戦場の現実へと引き戻された。
遠くで、銃声が響いた。
朔は木々の間から敵の動きを確認し、味方のもとへ戻った。
報告を終えたあと、彼は一人、川辺に立った。
水面に映る自分の顔を見つめる。
幼い頃の自分は、ただ強くなりたかった。
父と母を殺した者を斬るために。
だが、今は違う。
真実を知りたい。
宗玄が何を隠しているのか。
父がなぜ影月流を学んでいたのか。
あの男が、なぜ自分を探しているのか。
そして、両親を殺したのは誰なのか。
知りたいことが増えるほど、過去は遠ざかっていくようだった。
朔は懐に手を入れた。
千代から渡された薬包に触れる。
彼女は、何も知らない。
自分が何を背負っているのかも。
宗玄が何を隠しているのかも。
それでも、戻ってきてほしいと言ってくれた。
朔は目を閉じた。
いつか、すべてを知る日が来るのだろう。
そのとき、自分は何を選ぶのか。
復讐か。
それとも、別の道か。
まだ、分からない。
ただ一つ。
もう、何も知らなかった頃には戻れない。
朔は刀の柄を握り、川辺を離れた。
戦場は、待ってくれない。
そして、過去もまた、朔を逃がすつもりはなかった。




