第17話 師の背中
銃声が、山あいに響いた。
朔は身を低くし、ぬかるんだ土の上を駆けた。
前方では、味方の兵が道の脇に散開している。木々の向こうには敵の姿があった。倒木を盾にした兵たちが、こちらへ銃を向けている。
「伏せろ!」
叫び声と同時に、弾丸が朔の頭上をかすめた。
乾いた音が耳を打つ。
朔は近くの土手に身を隠した。
銃を持つ相手に、刀だけで正面から向かうのは愚策だ。どれほど剣の腕があろうと、弾丸を斬ることはできない。
敵の銃声が途切れた。
装填のための、わずかな間。
朔は土手から飛び出した。
前方の兵が銃を構え直す。朔は進路を変え、木の陰を使って距離を詰めた。
一人目の銃口がこちらを向く。
間に合わない。
そう判断した瞬間、朔は地面を蹴り、相手の懐へ滑り込んだ。
鞘で銃身を押し上げる。
男の体勢が崩れた。
朔は柄で相手の顎を打ち、倒れた男の銃を蹴り飛ばした。
背後から別の兵が斬りかかってくる。
朔は振り向きざまに刀を抜いた。
刃と刃がぶつかる。
火花が散った。
相手の腕が止まった一瞬、朔は刀を押し返した。男がよろめく。
追撃はしなかった。
銃声が再び響いたからだ。
朔は倒木の陰へ飛び込んだ。
やがて、敵の姿が木々の向こうへ消えていく。
味方の兵が追おうとしたが、指揮を執る男が制した。
「深追いするな! 負傷者を確認しろ!」
朔は刀を収めた。
勝ったのか、負けたのか。
そんなことは、もうどうでもよかった。
足元には、敵味方を問わず血を流す者たちがいる。
うめき声が聞こえた。
朔は膝をつき、倒れている味方の肩を抱き起こした。
「立てるか」
「……何とか」
「肩を貸す。動くな」
男の腕を自分の肩に回し、朔は立ち上がった。
そのとき、懐の薬包が指先に触れた。
千代から渡されたものだった。
朔は一瞬だけ、その感触を確かめた。
そして負傷兵を支えながら歩き始めた。
*
その夜、朔は眠れなかった。
野営地の端に腰を下ろし、火の消えかけた焚き火を眺めていた。
仲間たちの話し声が遠くに聞こえる。
負傷した兵たちは手当てを受け、何人かはすでに眠りについていた。
朔の手には、乾いた血がこびりついている。
水で洗っても、爪の間に残っていた。
ふと、幼い頃の記憶がよみがえった。
初めて人を斬った日のことではない。
その前のことだ。
まだ、刀をまともに握ることさえできなかった頃。
朔は山の中にいた。
*
両親を失ってから、どれほどの日が過ぎたのか。
幼い朔には分からなかった。
季節が変わっても、朝が来ても、夜が訪れても、あの家に戻ることはできなかった。
父の声も、母の笑顔も、もうそこにはない。
残されたものは、記憶だけだった。
朔は何度も、あの夜を思い返した。
誰が父を斬ったのか。
なぜ母まで殺されたのか。
自分だけが生き残ったのは、なぜなのか。
答えは一つも見つからなかった。
ただ、何もできなかった自分が許せなかった。
あのとき、もっと強ければ。
あのとき、自分にも刀があれば。
父と母を救えたかもしれない。
そう考えるたび、胸の奥が焼けるように痛んだ。
朔が宗玄と出会ったのは、山道の脇で倒れていたときだった。
空腹と疲労で、もう歩けなくなっていた。
目を開けると、白髪の老人がこちらを見下ろしていた。
「生きているか」
それが、最初の言葉だった。
朔は答えなかった。
「名は」
「……朔」
「姓は」
朔は口を閉ざした。
父の名を口にすれば、もう戻れない何かまで失ってしまう気がした。
老人は、それ以上問いたださなかった。
ただ、朔の着物の襟元に目を落とした。
血に汚れた布の下から、小さな紋がのぞいていた。
老人の目が、わずかに細くなった。
その表情は、ほんの一瞬だった。
だが、朔は覚えていた。
老人は紋を見つめたあと、まるで何かを確かめるように、朔の顔をもう一度見た。
「……そうか」
低い声だった。
何を納得したのか、朔には分からなかった。
「知っているのですか」
老人は答えなかった。
代わりに、朔の前へ手を差し出した。
「立てるか」
「……はい」
「ならば来い」
「どこへ」
老人は山の奥へ目を向けた。
「お前が生きていてもよい場所へ」
その言葉の意味を、幼い朔は知らなかった。
ただ、差し出された手を取った。
老人の手は、驚くほど硬かった。
刀を握り続けた者の手だった。
*
老人の名は、宗玄といった。
山の奥にある小さな家で、宗玄は一人で暮らしていた。
家の裏には、土を踏み固めた稽古場があった。
壁には古びた木刀が数本掛けられ、隅には、手入れの行き届いた刀が置かれていた。
朔はその刀を見つめた。
宗玄は、朔の視線に気づいていた。
「刀が欲しいか」
「……はい」
「何に使う」
朔は迷わなかった。
「人を斬るためです」
宗玄は、すぐには答えなかった。
老人の目は、怒っているようにも、哀れんでいるようにも見えなかった。
ただ、朔の奥にある何かを見定めようとしているようだった。
「そうか」
宗玄は刀から目を離した。
「ならば、まず木刀を持て」
翌朝から、稽古が始まった。
朔は木刀を両手で握った。
思っていたよりも重い。
腕を振り下ろすと、刃筋は曲がり、足元はふらついた。
「もう一度」
宗玄が言った。
朔は振った。
「もう一度」
また振った。
「足が浮いている」
朔は足元を見た。
「相手を見ろ。刀だけを見るな」
言われたとおりに構えた。
木刀を振る。
「遅い」
もう一度。
「力が入りすぎている」
もう一度。
日が傾く頃には、朔の手のひらが赤く腫れていた。
指が震え、木刀を握ることさえ難しくなっていた。
「今日は終わりだ」
宗玄が告げた。
「まだできます」
「できるかどうかを聞いておらん。終わりだと言った」
朔は唇を噛んだ。
宗玄は木刀を受け取り、壁に掛けた。
「明日も同じ時刻に起きろ」
「……はい」
その夜、朔は眠れなかった。
手のひらが痛んだ。
腕を動かすだけで、体のあちこちが悲鳴を上げた。
それでも、明日が来るのを待った。
強くなりたかった。
誰よりも強く。
もう二度と、大切なものを奪われないために。
*
稽古が始まってから、何日かが過ぎた。
朔は毎日、木刀を振った。
雨の日も、風の日も。
手の皮がむけても、足がもつれて倒れても、立ち上がった。
宗玄は決して、朔を褒めなかった。
できていないところを指摘し、直せと告げる。
それだけだった。
ある日の稽古で、朔は初めて宗玄に打ち込んだ。
木刀が老人の肩へ届く。
そう思った瞬間、朔の手から木刀が消えた。
宗玄が一歩動いただけだった。
朔の木刀は宙を舞い、土の上に転がった。
「なぜ、取られたか分かるか」
「……分かりません」
「お前は、わしを斬ることしか考えていなかった」
宗玄は、地面に落ちた木刀を拾った。
「相手がどう動くかを見ておらん。自分が何をしたいか、そればかりだ」
朔は黙っていた。
「怒りに目を奪われるな」
宗玄は木刀を差し出した。
「怒りは力になる。だが、目を曇らせもする」
朔は木刀を受け取った。
「……父と母を殺した者を、斬りたいんです」
初めて、宗玄に自分の思いを口にした。
「そいつを見つけたら、必ず斬ります」
宗玄は朔を見つめた。
「そうか」
また、その言葉だった。
止められると思っていた。
復讐などやめろと言われると思っていた。
だが、宗玄は何も言わなかった。
「ならば、強くなれ」
老人は静かに告げた。
「ただし、忘れるな。お前が憎んでいる相手も、刀を握っている」
朔は顔を上げた。
「人を斬るということは、斬られる覚悟だけで済む話ではない。相手の命を奪えば、その者が帰るはずだった場所も、待っている者の明日も、そこで途切れる」
「……それでも、斬ります」
朔は言った。
宗玄は、しばらく何も答えなかった。
やがて、老人は稽古場の隅に置かれた刀を見た。
「ならば、その日までに考えておけ」
「何をですか」
「お前は、復讐を果たしたあと、何をして生きる」
朔は答えられなかった。
復讐の先など、考えたこともなかった。
敵を見つける。
斬る。
それだけが、朔の未来だった。
「考える必要はありません」
朔は言い切った。
「仇を討てば、それで終わりです」
宗玄は、何も言わなかった。
ただ、朔の手にある木刀を見つめていた。
その夜、朔が眠りについたあと。
宗玄は一人、家の奥にある小さな部屋へ入った。
普段は、朔が立ち入ることを許されていない部屋だった。
老人は戸を閉め、床下から古びた木箱を取り出した。
箱には鍵がかかっていた。
宗玄は懐から小さな鍵を取り出し、ゆっくりと錠を外した。
中には、巻物と一枚の紙が収められていた。
巻物の表には、かすれた墨で三文字が記されていた。
――影月流。
宗玄は巻物には触れず、一枚の紙を手に取った。
そこには、ある男の名が書かれていた。
朔の父の名だった。
長い年月を経た紙は黄ばんでいたが、文字ははっきりと読めた。
宗玄は目を閉じた。
「……なぜ、あの子が生きている」
誰に聞かせるでもなく、呟いた。
答える者はいない。
老人は紙を元に戻し、箱の蓋を閉じた。
やがて、戸の向こうから小さな物音がした。
宗玄は顔を上げた。
「誰だ」
返事はなかった。
戸を開けても、廊下には誰もいない。
ただ、土間へ続く戸が、わずかに開いていた。
宗玄は外へ出た。
月明かりの下、山道の先に人影が見えた。
こちらを見ている。
老人が一歩踏み出すと、人影は身を翻し、木々の中へ消えた。
宗玄は追わなかった。
その背中を見送りながら、低く呟いた。
「……まだ終わっておらぬか」
*
焚き火の火が、小さくはぜた。
朔は我に返った。
目の前には、暗い山並みが広がっている。
あの頃の自分は、復讐の先に何があるかなど考えなかった。
敵を斬れば、すべてが終わる。
そう信じていた。
だが、今は違う。
千代の顔が浮かんだ。
薬包を渡してくれた手。
別れ際に、怖いと告げた声。
そして、戻ってきてほしいという願い。
復讐を果たしたあと、自分は何をして生きるのか。
宗玄に問われた言葉が、今になって胸に刺さった。
「……俺は」
朔は、膝の上で拳を握った。
答えは、まだ出ない。
ただ、以前のように「仇を討てば終わりだ」と言い切ることはできなかった。
朔は懐に手を入れた。
千代から渡された薬包がある。
小さな布包みは、そこにあった。
朔は空を見上げた。
雲の切れ間に、わずかな星が見えていた。
「……帰る」
誰に聞かせるでもなく、朔は呟いた。
それが約束なのか、願いなのか、自分でも分からなかった。
ただ、もう一度、あの町へ戻りたいと思った。
千代のいる場所へ。
そして、まだ伝えられずにいる言葉の続きを告げるために。
朔は夜の闇へ目を向けた。
復讐の先に何があるのか。
その答えを、今の彼はまだ知らない。
だが、かつては考えもしなかった未来が、ほんのわずかに見え始めていた。




