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第16話 残したもの



 朝の空気は冷たかった。


 東の空が白み始め、町の屋根を薄い光が撫でている。


 朔は、町医者の家の前に立っていた。


 昨夜のうちに支度は終えている。


 刀。

 替えの着物。

 わずかな食料。


 そして、千代からもらった薬包。


 これだけだった。


 荷物は少ない。


 戦場へ向かう男の身支度など、いつもこんなものだった。


 生きて帰るつもりで出る。


 だが、帰れる保証などない。


 朔は家の戸を見つめた。


 昨夜、千代と交わした言葉が頭に浮かぶ。


『できれば、戻ってきてからにしてください』


 あの続きを。


 朔自身も、まだ言葉にできていなかった。


 何を伝えたかったのか。


 自分でも、はっきりとは分からない。


 ただ、千代の前にいると、刀を握っているときとは違う自分になる。


 人を斬ることも。


 復讐することも。


 強くなることも。


 ほんの少しだけ、遠くに感じられる。


 それが何なのか、朔にはまだ分からなかった。


 ただ一つ分かっているのは――。


 もう一度、この家に戻ってきたい。


 そう思っていることだった。


「……行くか」


 朔が歩き出そうとした、そのとき。


「朔さん」


 背後から声がした。


 振り返る。


 千代が立っていた。


 薄い上着を羽織っているだけだった。


「千代」


「もう行くんですか」


「ああ」


「早いですね」


「呼び出しがあった」


 千代は頷いた。


 それから、朔の腰の刀を見る。


 一瞬だけ、表情が曇った。


 それに気づいた朔は、刀から目を逸らした。


「……怖いか」


「何がですか」


「俺が戦に行くことが」


 千代は答えなかった。


 しばらくして、小さく息を吐く。


「はい」


 素直な答えだった。


「怖いです」


 朔は何も言えなかった。


 今まで、そんなふうに言われたことはなかった。


 戦場へ行く男に向けられる言葉は、いつも決まっていた。


 気をつけろ。


 死ぬな。


 無事で帰れ。


 だが、千代は違った。


 怖い、と言った。


「……そうか」


 それしか言えなかった。


 千代は少しだけ笑った。


「でも、行くんですよね」


「ああ」


「止めても?」


「止められても行く」


「そうですか」


 千代は困ったように笑った。


「本当に、不器用な人ですね」


「よく言われる」


「誰にですか」


 朔は少し考えた。


「……昔の師匠に」


「師匠?」


「ああ」


 千代の目が少しだけ変わった。


「以前話していた、剣の師匠ですか?」


「そうだ」


「どんな方なんですか?」


 朔は答えようとして、口を閉じた。


 宗玄。


 その名を思い浮かべる。


 白髪の老人。


 無駄なことをほとんど喋らない男。


 だが、刀を握ったときだけは、誰よりも厳しかった。


 朔が幼かった頃。


 両親を失ったあと。


 行く場所のなかった自分を、宗玄は何も聞かずに引き取った。


 そして刀を教えた。


 何度も倒された。


 何度も立たされた。


 手の皮が破れても、足が震えても、稽古は終わらなかった。


 ある日。


 幼い朔は、木刀を握ったまま宗玄に尋ねた。


『どうして、ここまで強くならないといけないんですか』


 宗玄は答えなかった。


 ただ、しばらく朔を見つめてから言った。


『強くなりたいのか』


『はい』


『何のために』


『……人を斬るためです』


 宗玄の顔が、ほんの少しだけ曇った。


『そうか』


 それだけだった。


 その日の稽古は、いつもより長かった。


 朔は何度も木刀を振った。


 腕が上がらなくなっても振った。


 手から血が出ても振った。


 それでも宗玄は止めなかった。


 最後に、宗玄はぽつりと言った。


『人を斬る技を教えることはできる』


 朔は黙って聞いていた。


『だが、その刀をいつ納めるかは、誰にも教えられぬ』


 あのときの意味を、当時の朔には理解できなかった。


 強くなることが正しいと思っていた。


 強くなれば、両親を奪った者に復讐できる。


 強くなれば、もう誰にも何も奪われない。


 それだけを信じていた。


「……変わった方だったんですね」


 千代の声で、朔は我に返った。


「ああ」


「厳しかったですか?」


「厳しいというより……」


 朔は少し考えた。


「怖かった」


「そんなに?」


「あの人が怒鳴ることは、ほとんどなかった。だから余計に怖かった」


 千代が小さく笑った。


「朔さんにも、怖い人がいるんですね」


「いるさ」


「少し安心しました」


「なぜだ」


「朔さんは何でも一人でできる人だと思っていたので」


 その言葉に、朔は黙った。


 何でも一人でできる。


 そんなことはない。


 自分は、一人では何もできなかった。


 両親を失ったときも。


 復讐を誓ったときも。


 刀を握ったときも。


 宗玄がいなければ、きっと生きてすらいなかった。


 そして今。


 千代がいる。


「……俺は」


 朔は口を開いた。


「一人で生きてきたつもりだった」


 千代は黙って聞いている。


「でも、そうじゃなかったらしい」


「どうしてですか?」


 朔は答えなかった。


 自分でも、うまく説明できなかった。


 ただ、千代と出会ってから、自分の過去が少しずつ違って見えるようになっていた。


 父の顔。


 母の声。


 宗玄の背中。


 そして、自分が握ってきた刀。


 全部が、一本の線で繋がっているような気がする。


「……昔のことを、少し思い出しただけだ」


「そうですか」


 千代は、それ以上聞かなかった。


 それが、朔にはありがたかった。


 やがて、遠くから馬の蹄の音が聞こえてきた。


 朔が振り向く。


 道の向こうから、数人の兵が近づいてくる。


「榊原!」


 声が響いた。


「すぐに合流しろ!」


「分かった」


 朔は千代を見る。


「行ってください」


 千代が言った。


 その声は、震えていた。


「……ああ」


 朔は歩き出した。


 だが、数歩進んだところで止まる。


「千代」


「はい」


 振り返る。


「薬、ありがとう」


「……はい」


「必ず使う」


 千代は一瞬だけ目を見開いた。


 それから、小さく笑った。


「できれば、使わないでください」


「それは無理だろう」


「そうでした」


 二人の間に、短い沈黙が流れた。


「……帰ってきてください」


 千代が言った。


 朔は頷いた。


「分かった」


 今度は、それだけで十分だった。


 朔は歩き出す。


 背中に千代の視線を感じながら、町を離れていった。


 しばらく歩くと、町は見えなくなった。


 朔は懐に手を入れた。


 薬包がある。


 小さな包みだった。


 それを握る。


 不思議だった。


 刀より軽い。


 なのに、今の朔には刀より重く感じられた。


 帰りたい。


 そう思った。


 戦場から生きて戻りたい。


 以前なら、そんなことを考えなかった。


 ただ生き残ればいいと思っていた。


 死ななければ、それでいい。


 だが今は違う。


 帰る場所がある。


 待っている人がいる。


 そのことを知ってしまった。


 朔は空を見上げた。


 薄い雲の向こうから、朝の光が差し始めていた。


「……宗玄」


 なぜか、師の名が口から漏れた。


 あの老人なら、今の自分を見て何と言うだろう。


 刀を握る理由が変わったことを、気づくだろうか。


 あるいは、まだ何も分かっていないと笑うだろうか。


 朔は歩きながら、昔の稽古を思い出していた。


 木刀を構える自分。


 向かいに立つ宗玄。


 そして、何度も言われた言葉。


『刀を振るうより、振るわぬことの方が難しい』


 当時は、意味が分からなかった。


 だが今なら、少しだけ分かる。


 斬ることは簡単だ。


 怒りに任せればいい。


 憎しみに任せればいい。


 刀を抜けばいい。


 だが。


 斬らずに生きることは、きっと難しい。


 それでも――。


 朔は腰の刀を見た。


 まだ、手放すことはできない。


 自分には戦う理由がある。


 守らなければならない仲間もいる。


 逃げることはできない。


 だから今は、刀を握る。


 ただし。


 帰るために。


 朔は前を向いた。


 遠くで、銃声が一発響いた。


 鳥たちが一斉に飛び立つ。


 戦場が近い。


 朔は歩く速度を上げた。


 その胸の中には、これまでとは違うものがあった。


 復讐だけではない。


 怒りだけでもない。


 生き残りたいという思いだけでもない。


 帰りたい。


 ただ、それだけだった。


 そしてその帰りを待つ場所に――。


 一人の女がいる。


 朔はまだ、その気持ちに名前をつけることができなかった。


 けれど。


 それは確かに、これまでの彼にはなかったものだった。

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