第15話 返事
翌朝。
千代は、いつもより早く目を覚ました。
まだ外は薄暗い。
障子の向こうから、鳥の声が聞こえている。
布団の中で目を開けたまま、千代は昨夜のことを思い返していた。
――お前がいるからだと思う。
朔の言葉が、何度も頭の中に浮かんでくる。
千代は目を閉じた。
「……もう」
小さく呟いて、布団を頭までかぶった。
自分でも分かっていた。
あの言葉を、何度も思い出している。
けれど、それがどういう意味なのか。
考えれば考えるほど、分からなくなっていく。
朔は、人の気持ちを言葉にするのが得意な人ではない。
普段から口数が少なく、何を考えているのか分からないことも多い。
けれど、昨夜の言葉だけは違った。
まっすぐだった。
だからこそ、胸に残っている。
「……私も」
言いかけて、千代は口を閉じた。
何を言おうとしたのか、自分でも分からなかった。
ただ一つ。
朔がこの家にいることを、以前よりも意識するようになっていた。
朝食の支度をしているときも。
薬を並べているときも。
庭に出て洗濯物を干しているときも。
ふとした瞬間に、朔の姿を探してしまう。
それに気づくたび、千代は自分に言い聞かせた。
これは、怪我をした人を心配しているだけ。
戦場から戻ってきた人を、気にかけているだけ。
そう思おうとした。
だが――。
「おはよう」
背後から声がした。
千代が振り返る。
朔が立っていた。
まだ寝起きなのか、髪が少し乱れている。
千代は思わず笑った。
「おはようございます」
「何がおかしい」
「いえ……」
「何だ」
「朔さんも、寝起きは普通なんだなと思って」
「どういう意味だ」
「もっと隙がない人かと思っていました」
「俺だって眠る」
「そうですよね」
千代は笑った。
朔は少しだけ困った顔をした。
その表情を見ると、千代はまた笑ってしまった。
以前なら、こんなふうに朔をからかうことなど考えなかった。
初めて会ったときは、血に濡れた刀を持った男だった。
怖かった。
何を考えているのか分からなかった。
けれど今は――。
こうして話をすることが、自然になっている。
その変化が、千代自身を少しだけ戸惑わせていた。
朝食を終える頃、表から馬の音が聞こえた。
朔が顔を上げる。
「誰でしょう」
千代が玄関へ向かおうとしたときだった。
「俺が出る」
朔が先に立った。
玄関を開ける。
そこに立っていたのは、見覚えのない男だった。
年は三十前後。
旅装束の上から、簡素な羽織を着ている。
「こちらに榊原朔という男がいると聞いた」
男の視線が、朔へ向く。
「俺だ」
「やはりか」
男は懐から紙を取り出した。
「北越方面の部隊から伝令だ」
朔の表情が変わった。
「何の用だ」
「詳しいことは分からん。ただ、戦況が動いている。人手が足りないらしい」
男は書状を差し出した。
朔は受け取った。
紙に目を落とす。
千代は、その横顔を見ていた。
さっきまでとは、明らかに違う。
そこにいたのは、庭で洗濯物を取り込んでいた男ではない。
戦場に戻る人間の顔だった。
「いつ出る」
「早ければ明日だ」
千代の胸が、どくりと鳴った。
「明日……」
思わず声が漏れた。
朔が振り返る。
千代は慌てて口を閉じた。
「いや……」
言葉が続かなかった。
朔は書状を折りたたんだ。
「分かった」
「朔さん」
千代が呼び止める。
「何だ」
「……行くんですか?」
朔は答えなかった。
その沈黙が、答えだった。
「まだ傷も完全には治っていません」
「動ける」
「でも――」
「戦場に戻るのは、初めてじゃない」
朔の声は静かだった。
それ以上、千代は何も言えなかった。
昼になっても、千代は落ち着かなかった。
包丁を握っていても、手元に集中できない。
鍋を火にかけても、何を作っているのか分からなくなる。
朔は縁側に座って、刀の手入れをしていた。
布で刀身を拭き、油を薄く塗っていく。
その姿を、千代は何度も見てしまった。
刀。
その存在が、急に怖く感じられた。
これまで何度も見てきたはずなのに。
朔が戦場へ戻る。
そこには、銃声がある。
刀がある。
そして、死がある。
弥助の話を聞いた夜のことを思い出す。
帰りたいと言っていた。
母親と蕎麦を食べたいと言っていた。
それでも、帰れなかった。
千代は、無意識に手を握った。
「……朔さん」
「何だ」
「その刀……」
「ん?」
「ずっと持っているんですか?」
朔は刀を見た。
「そうだな」
「手放すことは、ないんですか?」
しばらく沈黙があった。
「ない」
即答だった。
千代は俯いた。
「そうですか」
それ以上、何も言えなかった。
夕方。
千代は一人で庭に出た。
空が赤く染まっている。
風が冷たい。
背後から足音が聞こえた。
「千代」
振り返る。
朔だった。
「どうした」
「……何でもありません」
「何でもない顔には見えない」
千代は少し笑った。
「朔さんは、そういうところだけ鋭いですね」
「どういうところだ」
「人の顔を見るところです」
「戦場では必要だからな」
その言葉に、千代は胸が痛くなった。
「戦場では……」
千代はゆっくりと言った。
「人の顔を見て、何が分かるんですか?」
朔は黙った。
「殺すか、殺されるか。それが分かるのか」
「……そういうこともある」
「怖くないんですか?」
朔は空を見上げた。
「怖いさ」
意外な答えだった。
千代が顔を上げる。
「怖くないと思っていたか」
「少しだけ」
「俺だって死にたくはない」
「……そうですよね」
「ただ、怖いからといって、逃げられないこともある」
その言葉に、千代は何も返せなかった。
しばらく二人で空を見ていた。
やがて千代が口を開く。
「朔さん」
「ん?」
「昨日のことなんですが」
朔が千代を見る。
千代は胸の前で手を握った。
「昨日……私がいない間に、何か言おうとしていましたよね」
朔の目がわずかに揺れた。
「……覚えていたのか」
「はい」
「忘れてくれ」
「どうしてですか?」
「言葉にできなかった」
千代は少し笑った。
「では、まだ待っています」
朔が顔を上げた。
「何を」
「言葉にできるまで」
風が吹いた。
千代の髪が揺れる。
「でも……」
千代は少し迷った。
「できれば、戻ってきてからにしてください」
朔は何も言わなかった。
千代も、それ以上は言わなかった。
ただ、自分が何を言ったのかは分かっていた。
戻ってきてほしい。
それだけだった。
朔は刀を腰に差した。
「分かった」
「……はい」
「必ず戻るとは言えない」
千代の表情が曇る。
「だが」
朔は続けた。
「戻るつもりではいる」
それは約束ではなかった。
戦場に生きる男が、簡単に口にできる言葉ではない。
それでも千代には、それで十分だった。
その夜。
朔は荷物をまとめていた。
着替え。
薬。
少しの食料。
そして刀。
千代はその様子を少し離れたところから見ていた。
何か言いたかった。
行かないでほしい。
そう言えばいい。
けれど、それを口にする資格が自分にあるのか分からなかった。
まだ二人は、何の約束もしていない。
それでも――。
「朔さん」
「何だ」
「……気をつけてください」
「分かった」
「怪我をしたら、戻ってきてください」
「分かった」
「ちゃんと、戻ってきてください」
今度は、朔が黙った。
そして、小さく頷いた。
「分かった」
その夜、千代はなかなか眠れなかった。
隣の部屋には、もう朔はいない。
明日の朝には、ここを出る。
その事実を考えるだけで、胸が苦しくなる。
千代は布団の中で目を閉じた。
そして、ようやく認めた。
自分は、朔が帰ってくることを願っている。
怪我人を心配しているだけではない。
ただの親切でもない。
もっと別の何かだ。
その気持ちの名前を、まだ口にはできない。
けれど――。
失いたくない。
その気持ちだけは、はっきりしていた。
一方、同じ夜。
朔も眠れずにいた。
頭の中には、千代の言葉が残っている。
――できれば、戻ってきてからにしてください。
朔は目を閉じた。
そして初めて、自分が戦場から帰る理由を一つ、明確に意識した。
待っている人がいる。
それだけで、刀を握る手の意味が、少しだけ変わった気がした。




