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第14話 告白



朝の光が、障子の隙間から差し込んでいた。


朔は、縁側に腰を下ろし、庭を眺めていた。


戦場を離れてから、何日が過ぎただろう。


傷は少しずつ癒えていた。腕を動かしても、以前ほど痛みは感じない。


それでも、身体の奥には、まだ戦場の感覚が残っていた。


銃声。


泥に沈む足。


そして、弥助の最期。


目を閉じると、あのときの光景が浮かんでくる。


「眠れませんでしたか?」


背後から声がした。


振り返ると、千代が盆を持って立っていた。


「いや。少し考え事をしていただけだ」


「それなら、ちょうどよかったです」


千代は朔の隣に腰を下ろし、湯呑みを差し出した。


「今日は少し濃いめにしました」


「いつもと違うのか」


「気づきませんでしたか?」


朔は湯呑みを口に運んだ。


苦みが舌に広がり、少し遅れて、茶の香りが鼻に抜ける。


「……確かに、少し違うな」


「ふふ。よかった」


千代は満足そうに笑った。


その横顔を、朔はしばらく眺めていた。


戦場では、敵のわずかな動きにも気を配っていた。


肩の揺れ、足の運び、視線の先。


生き残るために、相手の変化を読み続けてきた。


だが、千代の笑顔を見ていると、どうにも調子が狂う。


何を考えているのか分からない。


いや、分からないことが、嫌ではなかった。


「どうしました?」


「いや……」


朔は視線を庭へ戻した。


「ここは静かだな」


「そうですね。戦場とは違いますから」


その言葉に、朔は小さく頷いた。


「弥助のことを考えていた」


千代の表情が少し曇った。


「お母様に、蕎麦を食べさせる約束をしていた男だ」


「はい」


「戦が終われば、故郷に帰るつもりだった。母親と一緒に暮らすと言っていた」


朔は湯呑みを両手で包んだ。


「だが、帰れなかった」


千代はすぐには答えなかった。


庭の隅で、風に揺れた葉が一枚、地面に落ちた。


「朔さんは、その人のことを覚えているんですね」


「忘れられるものか」


「それなら、きっと大丈夫です」


「何がだ」


「弥助さんが生きていた時間は、消えません。朔さんが覚えている限り、その人がどんな人だったかも、残ります」


朔は千代を見た。


戦場で人が死ぬことに、意味などあるのだろうか。


そんなことを考えたことはなかった。


斬るか、斬られるか。


生きるか、死ぬか。


それだけだった。


だが、千代の言葉は、朔の中に別の問いを残した。


人は、誰かに覚えられるために生きるのだろうか。


それとも、生きている間に、誰かの心に何かを残すのだろうか。


「千代」


「はい?」


「お前は、なぜ医者の手伝いをしている」


突然の問いに、千代は目を丸くした。


「どうして、そんなことを?」


「前から気になっていた」


千代は少し考え、湯呑みを膝の上に置いた。


「父の影響でしょうか。小さい頃から、病気の人や怪我をした人が家に来ていました。治療を終えて帰るとき、みなさん少しだけ安心した顔をするんです」


「それを見ていたのか」


「はい。私も、誰かの不安を少しでも軽くできたらと思うようになりました」


千代は庭を見つめた。


「もちろん、私にできることなんて限られています。でも、できることがあるなら、何もしないよりはいいと思うんです」


朔は、その言葉を胸の中で繰り返した。


できることがあるなら、何もしないよりはいい。


その考え方は、彼の生き方とはあまりにも違っていた。


朔が刀を握ったのは、復讐のためだった。


誰かを救うためではない。


誰かを守るためでもない。


ただ、両親を奪った者を殺すためだった。


幼い日の記憶が、ふいに蘇る。


雨の降る夜。


血の匂い。


倒れた父。


自分を抱きしめる母の腕。


そして、目の前で振り下ろされた刃。


あのとき、自分は何もできなかった。


ただ、震えていた。


その悔しさが、朔を刀へと向かわせた。


「朔さん?」


千代の声で、意識が戻る。


「顔色が悪いです。傷が痛みますか?」


「いや。大丈夫だ」


「無理はしないでくださいね」


千代はそう言って、朔の腕に目を向けた。


その視線が、傷に触れるように感じられた。


朔は、思わず腕を引いた。


千代が不思議そうに顔を上げる。


「すまない」


「いえ……」


少しの沈黙。


やがて千代は立ち上がった。


「今日は父の薬を届けに行く約束があるんです。昼過ぎには戻りますから」


「ああ」


「朔さんは、ここで休んでいてください」


千代は盆を持ち、家の中へ戻っていった。


朔は、彼女の背中を目で追った。


そして、ふと気づく。


千代がいない間、何をして過ごせばいいのか分からなかった。


戦場にいた頃は、次に何をすべきか、常に決まっていた。


敵の動きを探り、命令に従い、刀を振るう。


だが、今は違う。


ただ、待っている。


千代が帰ってくるのを。


その事実に気づいた瞬間、朔は自分でも戸惑った。


昼過ぎ。


千代は約束どおり戻ってきた。


玄関で草履を脱ぎ、部屋に入ってくる。


「ただいま戻りました」


その声を聞いたとき、朔の胸の奥が、わずかに温かくなった。


「お帰り」


自然に口から出た言葉だった。


千代は一瞬、目を見開いた。


それから、柔らかく笑った。


「はい。ただいまです」


その笑顔を見た朔は、なぜか視線を逸らした。


夕方、千代は庭先で洗濯物を取り込んでいた。


朔は縁側から立ち上がり、何気なく手を貸した。


「朔さん、もう動いて大丈夫なんですか?」


「これくらいなら問題ない」


「では、そちらをお願いします」


千代が差し出した手拭いを受け取り、朔は物干し竿から洗濯物を外していく。


風が吹き、干してあった白い布が大きく膨らんだ。


その布が千代の顔を隠し、すぐに風に流される。


「ふふっ」


千代が笑った。


「何がおかしい」


「いえ。朔さんが洗濯物を取り込んでいる姿が、なんだか不思議で」


「俺だって、それくらいできる」


「そうですね。少し意外だっただけです」


「俺を何だと思っている」


「怖い人、でしょうか」


千代は少し悪戯っぽく笑った。


朔は返す言葉に詰まった。


確かに、そう思われても仕方がない。


自分の手は、多くの人間の血に触れてきた。


その手で、今は洗濯物を畳んでいる。


そのことが、ひどく奇妙に思えた。


「……怖いか」


千代は手を止めた。


「最初は、少し」


「今は?」


千代はしばらく朔を見つめていた。


「今は、そうでもありません」


「なぜだ」


「朔さんが、ここでお茶を飲んだり、傷を気にしたり、洗濯物を取り込んだりするからです」


「それが理由か」


「はい。私の知っている朔さんは、そういう人です」


朔は何も言えなかった。


千代は、彼が人を斬ってきたことを知らないわけではない。


それでも、目の前の自分を見ている。


刀を握る自分ではなく、茶を飲み、傷を負い、時に言葉に詰まる一人の人間を。


そんなふうに見られたことは、これまで一度もなかった。


夕日が、庭を赤く染め始めていた。


洗濯物を片付け終えた二人は、縁側に並んで座った。


千代が湯を沸かし、茶を淹れる。


朔は、その手元を眺めていた。


「千代」


「はい」


「俺は……」


言葉が止まった。


何を伝えようとしているのか、自分でも分からない。


ただ、今の気持ちを言葉にしたかった。


戦場から戻ってきて、ここにいることが心地よい。


千代が笑うと、胸の奥が少し軽くなる。


彼女が出かけると、帰ってくるのを待ってしまう。


それが何なのか、朔にはまだ分からなかった。


だが、一つだけ確かなことがあった。


この時間が、失われるのは嫌だった。


「……ここにいると、落ち着く」


千代は湯呑みを置いた。


「そうですか」


「ああ。戦場にいるときは、いつも周りを警戒していた。眠るときでさえ、刀を手放せなかった」


朔は自分の手を見つめた。


「だが、ここでは違う。何も考えずに座っていられる」


千代は静かに聞いていた。


「お前がいるからだと思う」


言ってしまった。


朔は自分の言葉に驚いた。


千代も、少しだけ目を見開いた。


夕暮れの風が、二人の間を通り抜ける。


「……ありがとうございます」


千代は小さく答えた。


頬が、ほんのり赤くなっているように見えた。


朔は、何かを続けようとした。


しかし、言葉が見つからない。


かつて宗玄に、剣を教わっていた頃のことを思い出した。


稽古の後、宗玄はよく朔に言った。


「刀を振るうより、振るわぬことの方が難しい」


当時の朔には、その意味が分からなかった。


強くなることだけを考えていた彼にとって、刀を振るわない理由などなかった。


今も、分からないことは多い。


ただ、目の前の千代に何かを伝えることは、刀を振るうよりも難しい気がした。


「千代」


「はい?」


「俺は、もう少し……」


その先を言おうとしたとき、家の外から声がした。


「千代さん、いらっしゃいますか」


近所の男の声だった。


千代が立ち上がる。


「はい。今、参ります」


彼女は朔に軽く頭を下げ、玄関へ向かった。


朔は、途中まで出かかった言葉を飲み込んだ。


縁側に一人残される。


夕日は、いつの間にか山の向こうへ沈みかけていた。


朔は湯呑みを手に取った。


茶は、すっかり冷めていた。


それでも、口に含む。


苦みは、朝と同じだった。


だが、胸の奥には、先ほどとは違う感覚が残っていた。


言えなかったことが、心に引っかかっている。


何を言おうとしたのか。


なぜ、言えなかったのか。


朔は、自分の胸に問いかけた。


答えは、まだ出なかった。


ただ、千代が戻ってくる足音を、無意識に待っていた。


その夜。


布団に入った朔は、天井を見つめていた。


戦場で眠れなかった夜とは違う。


銃声も、怒号も聞こえない。


隣の部屋から、千代が父親と話す声がかすかに届いていた。


何気ない日常の音。


それを聞きながら、朔は目を閉じた。


ふと、幼い頃の母の声が蘇る。


『朔。人を斬ることだけが、強さではありませんよ』


母がそんなことを言った記憶がある。


いつ、どこで聞いた言葉なのかは、はっきりしない。


だが、その声は妙に鮮明だった。


朔はゆっくりと目を開けた。


両親の顔を、もう長いこと思い出さないようにしていた。


思い出せば、怒りが蘇る。


復讐を誓ったあの日の自分に戻ってしまう気がしたからだ。


それでも今夜は、母の声が胸に残っていた。


人を斬ることだけが、強さではない。


その言葉の意味を、朔は初めて考えようとしていた。


そして、もう一つ。


千代に伝えられなかった言葉が、心の中に残っている。


朔は布団の中で、静かに息を吐いた。


明日こそ、伝えよう。


何を伝えるのか、まだ分からない。


それでも、今の気持ちから逃げたくはなかった。


障子の向こうで、夜風が木々を揺らした。


朔は、久しぶりに刀から離れた場所で眠りについた。

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