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第13話 帰還



越後の空は、朝になっても晴れなかった。


朔たちの小隊は、長岡の西側にある集落を離れ、南へ向かっていた。


戦場から少し離れたとはいえ、銃声は途切れない。


遠くの山から砲声が響き、鳥たちが一斉に飛び立つこともあった。


戦は、まだ終わっていなかった。


「朔」


隊長が隣に並んだ。


「顔色が悪いぞ」


「そうですか」


「眠れていないんだろう」


朔は答えなかった。


弥助が死んでから、夜になるとあの光景が浮かんだ。


川の中で膝をついた弥助。


血に染まった着物。


そして、息をしなくなった身体。


何度思い返しても、最後の瞬間だけは変わらない。


「弥助のことを考えているのか」


隊長の言葉に、朔は小さく頷いた。


「……あいつは、蕎麦を食べると言っていました」


「ああ」


「母親と一緒に食べると」


隊長は黙って歩いた。


しばらくしてから、口を開く。


「俺も、昔、同じようなことを考えていた」


朔は横を見た。


「帰ったら、家族と何をするか。どこへ行くか。何を食べるか」


隊長は前を向いたまま続けた。


「そういうことを考えていないと、戦場では気が狂いそうになる」


「……それでも、人は死にます」


「ああ。死ぬ」


「帰りたいと思っていても」


「そうだ」


朔は唇を結んだ。


隊長の言葉に、答えはなかった。


帰りたいと願うことと、生きて帰れることは違う。


その当たり前のことが、今の朔には重かった。


隊列の後方では、兵たちが黙々と歩いている。


弥助がいた場所には、誰もいなかった。


彼が使っていた水筒は、隊長が預かっていた。


遺品として、母親へ届けるつもりだという。


朔はそれを聞いて、何も言えなかった。


自分が持っていた巾着に触れる。


千代からもらったもの。


弥助にも、帰りを待つ人がいた。


自分にも、帰る場所がある。


その違いは、何なのだろう。


朔にはまだ分からなかった。


     *


数日後。


小隊は味方の部隊と合流した。


戦況は厳しかった。


長岡周辺では各地で戦闘が続き、道や橋をめぐって小競り合いが繰り返されていた。


負傷者が運ばれてくる。


弾薬が不足しているという話もあった。


兵たちの顔には疲労が浮かび、食事も十分ではない。


朔は、戦場の現実を知り始めていた。


刀を振るうだけでは、何も変えられない。


仲間を失ったとしても、隊は進まなければならない。


そして、進んだ先にもまた敵がいる。


そんな日々が続いた。


ある夕方、隊長が朔を呼び止めた。


「お前に話がある」


「何でしょう」


「一度、後方へ下がれ」


朔は眉をひそめた。


「なぜですか」


「腕の傷もある。ここ数日、まともに休んでいないだろう」


「まだ戦えます」


「戦えるかどうかの話じゃない」


隊長は少し声を強めた。


「お前は、何のために戦っている」


朔は答えられなかった。


敵を斬るため。


命令に従うため。


生き残るため。


以前なら、迷わず答えられたはずだった。


だが、今はどれもしっくりこなかった。


隊長は朔の表情を見て、少しだけ声を落とした。


「一度、戦場を離れろ。戻るかどうかは、そのあと決めればいい」


朔は黙って頭を下げた。


     *


帰路についたのは、それから二日後だった。


朔は数人の兵とともに、越後を離れることになった。


馬に乗る者もいれば、徒歩で進む者もいる。


道はぬかるみ、車輪の跡が深く残っていた。


村を通ると、家の戸が閉じられていた。


畑には人影がない。


戦が近づけば、人々は家を捨てて逃げる。


残された家には、壊れた戸や焼け焦げた柱が見えた。


朔は、ある家の前で足を止めた。


庭先に、小さな草履が片方だけ落ちていた。


子どものものだろう。


それを見た瞬間、千代が手当てをしていた町の子どもを思い出した。


膝を擦りむき、泣きながら母親にしがみついていた男の子。


千代は笑いながら傷を洗い、痛みが引くまでそばにいた。


あの子は、今も元気だろうか。


朔は草履を拾い、家の軒先に置いた。


そして再び歩き始めた。


道中、何度も戦場の音が耳によみがえった。


銃声。


怒号。


刀がぶつかる音。


そして、弥助の声。


――俺は蕎麦です。


朔は目を閉じた。


忘れられるはずがなかった。


忘れてはいけない気もした。


     *


町に着いたのは、夕暮れが迫る頃だった。


見慣れた通り。


軒先に吊るされた暖簾。


店先から漂う味噌の匂い。


人々の話し声。


何も変わっていないように見えた。


だが、朔にはすべてが違って見えた。


戦場では、誰かが死んでも戦は続いた。


ここでは、子どもが走り、店の主人が客と笑い、女たちが夕餉の支度をしている。


当たり前の暮らし。


その当たり前が、妙に遠いものに感じられた。


朔は町医者の家へ向かった。


歩く速度が、少しずつ遅くなる。


門が見えた。


庭先には薬草が干されている。


玄関の戸は開いていた。


中から、千代の声が聞こえた。


「もう少しですからね。じっとしていてください」


続いて、子どもの声。


「痛いよ」


「すぐ終わります」


朔は門の前で立ち止まった。


帰ってきた。


そう思った。


だが、いざ目の前にすると、何と言えばいいのか分からなかった。


無事に帰った。


ただ、それだけのことを伝えればいい。


なのに、足が動かない。


「……朔さん?」


声がした。


顔を上げると、千代が玄関に立っていた。


手には薬包紙を持っている。


一瞬、千代の表情が止まった。


それから、ゆっくりと笑った。


「お帰りなさい」


朔は返事をしようとした。


だが、声が出なかった。


千代は門を出てきた。


「怪我は?」


「少し」


「少しって、どこですか」


千代は朔の腕を見た。


袖が裂け、布には薄く血が滲んでいる。


「ちょっと見せてください」


「大したことはない」


「それは私が決めます」


その言葉に、朔は思わず口元を緩めた。


以前にも聞いた言葉だった。


千代はその表情を見て、少しだけ目を細めた。


「……帰ってきてくれて、よかったです」


朔は視線を落とした。


「約束したからな」


「ええ」


千代は頷いた。


「でも、約束を守るのは簡単なことではありません」


朔は何も言えなかった。


千代の声は穏やかだった。


それでも、ほんの少しだけ震えているように聞こえた。


「中へ入ってください。お父さんにも見てもらいましょう」


朔は頷き、門をくぐった。


     *


家の中は、以前と同じ匂いがした。


薬草と、煎じた茶の香り。


朔は座敷に通され、腕の傷を診てもらった。


千代の父は傷口を洗い、薬を塗った。


「深くはないが、無理をしたな」


「すみません」


「謝る必要はない。だが、次は気をつけなさい」


父親は包帯を巻き終えると、立ち上がった。


「千代、あとは頼む」


「はい」


父親が部屋を出る。


千代は湯呑みを二つ持ってきた。


朔の前に一つ置く。


「お茶です」


朔は湯呑みを手に取った。


温かい。


口に含むと、少し苦みがあった。


けれど、どこか懐かしかった。


「……うまい」


千代は笑った。


「いつもと同じお茶ですよ」


「そうか」


「戦場では、お茶を飲むこともできなかったんですか?」


朔は少し考えた。


「飲めるときもあった」


「そうですか」


「だが、こういう茶ではなかった」


千代は首を傾げた。


「どう違うんですか?」


朔は湯呑みを見つめた。


どう違うのだろう。


茶葉が違うわけではない。


湯の温度でもない。


ただ、この場所で飲む茶は、戦場で飲むものとは違った。


「……落ち着く」


朔はそれだけ言った。


千代は何も聞かなかった。


しばらく、二人で茶を飲んだ。


外からは、町の人々の声が聞こえてくる。


夕暮れの風が、障子を揺らした。


やがて、千代が静かに尋ねた。


「戦場は、どうでしたか」


朔は湯呑みを置いた。


頭の中に、いくつもの光景が浮かんだ。


泥に沈む足。


銃弾が水面を叩く音。


敵兵の顔。


そして、弥助。


「……人が死ぬ場所だった」


千代は黙っていた。


「分かっていたつもりだった」


朔は続けた。


「だが、実際に見るのは違った」


千代は膝の上で手を重ねた。


「誰か、亡くなったんですか」


朔は頷いた。


「一緒にいた兵が」


「……そうですか」


「まだ若かった。帰ったら、母親と蕎麦を食べると言っていた」


千代は目を伏せた。


「その人は……」


「帰れなかった」


朔は自分の手を見た。


「俺は、何もできなかった」


千代はすぐには答えなかった。


慰めの言葉を探しているようにも見えた。


だが、やがて静かに言った。


「朔さんが、その人のことを覚えているなら」


朔は顔を上げた。


「それは、何もできなかったことにはならないと思います」


「……覚えているだけで?」


「はい」


千代は真っ直ぐに朔を見た。


「亡くなった人が、誰かの記憶に残ることは、大切なことだと思います」


朔は黙った。


弥助の笑顔が浮かぶ。


蕎麦の話をしたときの、少し得意げな顔。


あの男がどんな声で笑っていたのか。


朔は、もう忘れないだろうと思った。


「……名前は、弥助だ」


千代は小さく頷いた。


「弥助さん」


朔はその名を聞いて、胸の奥が少しだけ痛んだ。


誰かに名前を呼んでもらう。


それだけで、弥助が確かにここにいたような気がした。


     *


夜。


朔は縁側に座っていた。


庭には、薄い月明かりが落ちている。


遠くから、虫の声が聞こえた。


千代が隣に座った。


手には、小さな盆。


その上には、湯呑みが二つあった。


「またお茶ですか」


朔が尋ねると、千代は笑った。


「今度は少し甘いものもあります」


盆の端には、小さな団子が載っていた。


朔はそれを見て、以前、自分が買ってきた団子を思い出した。


「……また団子か」


「嫌でしたか?」


「いや」


朔は一つ手に取った。


口に運ぶ。


甘かった。


戦場では、食事を急いで済ませることが多かった。


腹を満たすためだけの食事。


味わう余裕などなかった。


だが、今は違う。


団子を噛み、茶を飲む。


その時間が、妙に長く感じられた。


「千代」


「はい?」


「……ありがとう」


千代は少し驚いた顔をした。


「何のお礼ですか?」


朔は答えに迷った。


帰りを待っていてくれたこと。


傷を手当てしてくれたこと。


茶を出してくれたこと。


そのすべてだった。


だが、うまく言葉にできない。


「……茶だ」


千代は小さく笑った。


「それなら、いつでも淹れます」


朔も少しだけ笑った。


しばらく二人は黙っていた。


やがて、千代が空を見上げた。


「また、戦場へ行くんですか」


朔は月を見た。


答えは決まっていなかった。


隊長からは、しばらく後方に下がるよう言われている。


だが、戦が終わったわけではない。


命令があれば、再び向かわなければならないかもしれない。


「……分からない」


千代は頷いた。


「そうですよね」


それ以上、尋ねなかった。


朔はその横顔を見た。


何か言おうとした。


けれど、言葉が見つからない。


戦場で何を見たのか。


何を怖いと思ったのか。


自分が何を考え始めたのか。


すべてを話すには、まだ時間が必要だった。


「千代」


「はい」


「……また、茶を飲みに来てもいいか」


千代は少し笑った。


「もちろんです」


「怪我をしていなくても?」


「ええ。怪我をしていなくても」


朔は頷いた。


その答えを聞いて、胸の奥が少し軽くなった。


     *


その夜、朔は久しぶりに深く眠った。


夢の中で、弥助が笑っていた。


「朔さん、帰ったら蕎麦ですよ」


朔は何か答えようとした。


だが、声が出ない。


弥助は笑ったまま、遠ざかっていく。


その向こうに、千代の家が見えた。


玄関の戸が開いている。


中から、茶の香りが漂ってくる。


朔はそちらへ歩こうとした。


目が覚めた。


障子の向こうが、薄く明るくなっていた。


朝だった。


朔はゆっくりと起き上がり、刀を見た。


いつもなら、目覚めてすぐに手に取っていた。


だが、その日は違った。


刀は枕元に置いたまま、しばらく眺めていた。


弥助の死を忘れることはできない。


戦場で見た光景も、消えることはない。


それでも。


ここでは、誰かが茶を淹れてくれる。


誰かが、名前を呼んでくれる。


そのことが、今の朔には不思議だった。


刀を手に取る。


鞘に収まったままの刃は、何も語らない。


朔は立ち上がり、障子を開けた。


朝の光が、部屋に差し込んだ。


戦場から帰ってきた。


だが、何も終わったわけではない。


自分が何者なのか。


何のために剣を振るうのか。


その答えは、まだ見つかっていなかった。


ただ、今は。


もう少しだけ、この町にいたい。


朔はそう思った。

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