第12話 初めての死
朝、目を覚ましたとき、朔は自分の手を見つめていた。
昨日、敵の男を斬らなかった。
喉元まで刃を運びながら、最後の一撃を止めた。
あのとき、なぜ刀を振り切れなかったのか。
答えは出なかった。
「起きたか」
囲炉裏のそばで、隊長が湯を沸かしていた。
「はい」
「今日は北へ進む。敵の動きを探りながら、味方の部隊と合流する予定だ」
朔は起き上がり、刀を手に取った。
「昨日の男は、何者だったのでしょう」
「さあな。だが、影月流という名を知っていたのは気になる」
隊長は湯呑みを差し出した。
「お前の師匠と関係があるのか?」
「分かりません」
「なら、今は考えるな。戦場で考え事をすると、命を落とす」
朔は湯を飲んだ。
熱さが喉を通り、ようやく身体が目覚める。
外では兵たちが出発の準備をしていた。
その中に、昨日、朔とともに水路を進んだ若い兵がいた。
名を、弥助という。
年は二十歳を少し過ぎたくらいだろう。戦場に出てからまだ日が浅く、刀の扱いにも迷いが見える。
それでも、よく笑う男だった。
「朔さん!」
弥助が手を振った。
「今日は先に敵を見つけましょう。昨日みたいに撃たれるのは、もうごめんです」
「そうだな」
「帰ったら、何を食べたいですか?」
突然の質問だった。
「食べたいもの?」
「ええ。俺は蕎麦です。故郷の蕎麦屋がうまくて。帰ったら、腹いっぱい食べるんです」
弥助は笑った。
「朔さんは?」
朔は少し考えた。
真っ先に浮かんだのは、千代の家で出された茶だった。
だが、それを口にするのは妙に気恥ずかしかった。
「……茶だな」
「茶ですか?」
「うまい茶を飲みたい」
「それなら戦場でも飲めますよ」
「そういう茶ではない」
弥助は首を傾げた。
「変わった人だなあ」
朔は答えず、歩き始めた。
弥助が隣に並ぶ。
二人の後ろを、隊の兵たちが続いた。
空は曇り、湿った風が田畑を渡っていた。
長岡の西側へ進むにつれ、道は少しずつ険しくなった。
平地が途切れ、低い丘が現れる。
遠くには山並みが連なり、ところどころに集落が見えた。
田の水は濁り、畦道には前日の雨が残っている。
兵たちは足を取られながら進んだ。
「この先に小さな橋がある」
先頭の斥候が戻ってきた。
「橋の向こうに敵がいる可能性があります」
隊長は地図を広げた。
「川幅は?」
「小さな流れです。ただ、両岸がぬかるんでいます」
「迂回路は?」
「東にありますが、遠回りになります」
隊長はしばらく考えた。
「橋を確認する。全員、間隔を空けろ。銃を持つ者は前へ」
朔は橋の方を見た。
細い川が、田畑の間を蛇行している。
橋は木製で、幅は人が二人並んで歩ける程度だった。
向こう岸には雑木林がある。
敵が潜むには十分な場所だ。
「……嫌な場所ですね」
弥助が小声で言った。
「そうだな」
朔は刀の柄に手を添えた。
橋の手前で、隊は止まった。
銃を持つ兵が膝をつき、向こう岸を見据える。
風が吹く。
木の葉が揺れた。
何も起こらない。
静かすぎる。
朔は橋の向こうに目を凝らした。
そのとき、林の奥で何かが光った。
「伏せろ!」
朔が叫んだ。
直後、銃声が響いた。
乾いた音が、谷間に反響する。
橋の手前にいた兵が倒れた。
続けて二発、三発。
銃弾が地面をえぐり、木片が飛び散る。
「敵だ!」
「林の中!」
隊長が叫ぶ。
「撃ち返せ!」
味方の銃が火を噴いた。
煙が広がる。
だが、敵の姿は見えない。
木々の隙間から、時折銃口だけがのぞく。
朔は橋の欄干に身を寄せた。
敵は橋を渡らせるつもりがない。
ならば、別の場所から渡るしかない。
「隊長、上流へ回ります」
「待て。敵の数が分からん」
「橋を見張っているのは、少なくとも五人です」
朔は川の流れを見た。
上流は浅くなっているようだった。
だが、岸は泥に覆われている。
足を取られれば、銃弾の的になる。
「二人で行きます」
弥助がすぐに答えた。
「俺も行きます」
朔は弥助を見た。
「無理をするな」
「昨日も一緒に行きましたから」
弥助は笑おうとした。
だが、その表情は少し引きつっていた。
朔は何も言わず、頷いた。
二人は川沿いに身を低くして進んだ。
水音が近づく。
川幅は狭くなり、浅瀬が見えた。
向こう岸まで、十数歩ほど。
朔は先に水へ入った。
冷たい水が足を包む。
底は石と泥が混じり、足元が安定しない。
弥助が後ろから続く。
半ばまで渡ったときだった。
林の奥で、銃声がした。
朔は反射的に身を沈めた。
弾丸が水面を叩く。
水しぶきが顔にかかった。
「弥助!」
振り返る。
弥助は川の中で膝をついていた。
左肩を押さえている。
指の間から血が流れていた。
「……大丈夫です」
声が震えていた。
朔は弥助の腕を掴んだ。
「戻るぞ」
「でも、向こう岸まで……」
「戻る!」
朔は弥助を引き寄せた。
その瞬間、二発目の銃声が響いた。
弥助の身体が大きく揺れた。
朔の手に、重みが伝わる。
「……え?」
弥助が自分の胸元を見た。
着物に、赤い染みが広がっていた。
朔は息を止めた。
「弥助……」
弥助の膝が崩れた。
朔はその身体を抱き留めた。
川の水が、二人の腰まで迫る。
「しっかりしろ!」
弥助は何か言おうとした。
唇が動く。
声は出ない。
朔は岸へ向かって歩き出した。
足が滑る。
泥に沈む。
それでも、弥助を離さなかった。
ようやく岸にたどり着いたとき、弥助の身体から力が抜けた。
「おい」
朔は地面に膝をついた。
「弥助」
返事がない。
「弥助!」
胸に手を当てる。
温かい。
まだ温かい。
だが、息がない。
朔は何度も名前を呼んだ。
肩を揺する。
頬を叩く。
何も変わらない。
弥助の目は、半分開いたままだった。
その顔は、朝に蕎麦の話をしていたときと、何も変わらないように見えた。
ただ、もう笑わなかった。
「……戻ったら、蕎麦を食べるんじゃなかったのか」
朔は呟いた。
答えはなかった。
銃声が遠くで続いていた。
隊長たちが駆けつけた。
「朔!」
隊長は弥助を見て、言葉を失った。
すぐに脈を確かめる。
そして、ゆっくりと首を横に振った。
「……もう、駄目だ」
朔は弥助を見つめた。
「まだ、温かいです」
隊長は何も言わなかった。
「さっきまで話していました」
「……ああ」
「蕎麦を食べると言っていました」
隊長は朔の肩に手を置いた。
「戦場では、こういうことがある」
朔は顔を上げた。
「……こういうこと?」
「人が死ぬ。敵も味方もな」
「それだけですか」
隊長の手が止まった。
朔は弥助を見下ろした。
「それだけで、終わりですか」
隊長はしばらく黙っていた。
やがて、低い声で言った。
「……終わりにするしかないこともある」
朔は何も答えなかった。
その言葉を受け入れることができなかった。
これまで、朔は多くの人間を斬ってきた。
敵の顔も、声も、ほとんど覚えていない。
斬った相手がどこから来て、誰を待っていたのか。
そんなことを考えたこともなかった。
だが、弥助は違った。
蕎麦の話をした。
帰る場所の話をした。
戦場を抜けた先に、何を食べたいかを考えていた。
その男が、目の前で動かなくなった。
朔は自分の手を見た。
血がついていた。
弥助の血だった。
自分が斬った血ではない。
それなのに、なぜか、これまで斬ってきた人間の顔が、頭の奥に浮かんだ。
もし、あの人たちにも帰る場所があったのなら。
もし、あの人たちも、誰かと食べたいものを話していたのなら。
自分は、何をしてきたのだろう。
「朔、立て」
隊長が言った。
「ここに留まるわけにはいかない」
朔は弥助の身体を抱き上げた。
重かった。
朝、隣を歩いていたときと同じ人間とは思えないほど、重かった。
「……運びます」
隊長は頷いた。
「頼む」
朔は歩き始めた。
弥助の身体を抱え、ぬかるんだ道を進む。
銃声はまだ続いている。
戦は終わっていない。
誰かが命を落としても、誰かが泣いても、戦場は止まらない。
それが、朔にはひどく恐ろしく思えた。
夕暮れ。
隊は小さな集落へ戻った。
弥助の遺体は、民家の土間に安置された。
兵たちは黙って頭を下げた。
誰も大声を出さなかった。
誰も冗談を言わなかった。
朔は土間の隅に座り、弥助の顔を見ていた。
そのとき、弥助の懐から小さな紙片が落ちた。
拾い上げる。
そこには、少し崩れた字で、短く書かれていた。
『母上へ。戦が終わったら帰ります。蕎麦を食べに行きましょう』
朔は紙を握りしめた。
母。
弥助には、帰りを待つ母親がいる。
その人は、息子が帰ってくると信じているのだろう。
朔は目を閉じた。
千代の顔が浮かんだ。
あの町医者の家。
茶の香り。
「また来ます」と言った自分。
帰ると言った自分。
あの言葉は、誰に向けたものだったのか。
朔は初めて、自分が帰らなければならない理由を、少しだけ理解した気がした。
だが同時に、弥助は帰れなかった。
自分は、なぜ生きているのだろう。
夜が深くなった。
朔は外へ出た。
空には雲が広がり、月は見えなかった。
遠くで、また銃声が響く。
朔は刀の柄を握った。
これまで、刀を握ることに迷いはなかった。
敵を斬る。
それが自分の役目だと思っていた。
けれど今は、刀を抜くことが怖かった。
斬れば、誰かが死ぬ。
斬らなければ、自分や仲間が死ぬかもしれない。
その間に、何があるのか。
朔には分からなかった。
ただ、ひとつだけ確かなことがあった。
弥助は、もう蕎麦を食べられない。
朔は空を見上げた。
「……帰りたいな」
誰に聞かせるでもなく、呟いた。
その言葉は、夜の闇に吸い込まれていった。




