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第2話 血まみれの男



「動かないでください」


 千代は、朔の腹に巻いた布をきつく結んだ。


「……痛い」


「当たり前です」


 即答だった。


 朔は眉をひそめる。


 昨日までなら、多少の傷など気にも留めなかった。


 刀を握れば、それでいい。


 血が出れば拭えばいい。


 痛みなど、とうに慣れていた。


 だが今は違う。


 目の前にいる女が、傷口を覗き込みながら眉を寄せている。


 それが妙に気になった。


「傷口、かなり深いですよ」


「そうか」


「そうか、じゃありません」


 千代はため息をついた。


「あなた、昨日何人と斬り合ったんです?」


「覚えていない」


「……」


 千代の手が止まった。


「覚えていない?」


「ああ」


「人を斬った数も?」


「数えていない」


「……そうですか」


 千代はそれ以上、何も言わなかった。


 ただ、黙々と傷の手当てを続ける。


 朔はその横顔を見ていた。


 怒っている。


 たぶん。


 だが、追い出そうとはしない。


 それが不思議だった。


「なぜ助ける」


「え?」


「俺を」


 千代は一瞬、きょとんとした。


「怪我をしているからです」


「それだけか」


「それだけです」


「俺が何をしている人間か、知っているだろう」


「知っています」


「なら――」


「それでも怪我をしている人は、怪我をしている人です」


 朔は黙った。


 千代は包帯を結び終えると、顔を上げた。


「あなたが誰を斬ったとか、私は知りません」


「……」


「でも、ここに来た時は血を流していました」


 千代は少しだけ笑った。


「だから治します」


 朔は、その言葉を聞いても何も返せなかった。


 今まで出会った人間は、二種類しかいなかった。


 自分を斬ろうとする者。


 自分に斬られる者。


 それ以外の人間を、朔はほとんど知らなかった。


 だから、この女が不思議だった。


「名前は?」


 千代が聞いた。


「……榊原朔」


「榊原さん」


「朔でいい」


「では、朔さん」


 その呼び方に、朔はわずかに目を伏せた。


 名前で呼ばれる。


 それだけのことが、なぜか胸に残った。


「私は千代です」


「知っている」


「どうして?」


「昨日、親父さんが呼んでいた」


「ああ……」


 千代は笑った。


「じゃあ、お互い名前は分かりましたね」


「そうだな」


 短い会話だった。


 それなのに、朔は妙に落ち着かなかった。


     ◇


「今日はここで休んでください」


「いや、行く」


「どこへ?」


「任務に戻る」


「その傷で?」


「ああ」


 朔が立ち上がる。


 だが――


「っ……」


 腹に痛みが走った。


 身体がわずかに揺れる。


 千代がすぐに腕を支えた。


「ほら」


「……大丈夫だ」


「大丈夫な人は、そんな顔をしません」


「どんな顔だ」


「死にそうな顔です」


「死なない」


「昨日もそう思っていたんでしょうね」


 朔は返事をしなかった。


 千代の言葉が、妙に胸に刺さった。


 死ぬことなど怖くない。


 少なくとも、そう思って生きてきた。


 だが――


 昨日、血の海の中で倒れたとき。


 一瞬だけ、頭に浮かんだものがあった。


 千代の顔だった。


「……」


 朔は自分でも驚いていた。


 なぜ、あの女の顔が浮かんだのか。


「今日は休んでください」


「しかし――」


「命令です」


「……」


 朔は千代を見た。


「医者でもないのに?」


「医者の娘です」


「それは理由になるのか」


「なります」


 千代は胸を張った。


 朔は、ほんの少しだけ口元を緩めた。


「……分かった」


「素直ですね」


「これ以上動くと、お前がうるさそうだ」


「失礼ですね」


 千代は笑った。


 その笑顔を見て――


 朔はまた、妙な感覚を覚えた。


 戦場では、笑う者などいない。


 笑えるはずがない。


 なのに、この女は笑っている。


 まるで、この世には戦など存在しないかのように。


     ◇


 夜。


 朔は布団の上で目を閉じていた。


 眠れない。


 刀は、部屋の隅に置いてある。


 いつでも手を伸ばせば届く距離。


 それなのに、今日は妙に遠く感じた。


 ふと、外から声が聞こえた。


「朔さん?」


 千代だった。


「起きていますか?」


「ああ」


「お茶、置いておきますね」


 襖が少しだけ開く。


 千代が湯飲みを置いた。


「ありがとうございます」


 朔が言うと、千代は目を丸くした。


「……お礼、言えるんですね」


「俺を何だと思っている」


「怖い人」


「……」


「冗談です」


 千代は笑った。


 そして襖を閉めようとした。


「千代」


「はい?」


「……」


 朔は何を言えばいいのか分からなかった。


 呼び止めた理由すら、自分でも分からない。


「どうしました?」


「いや……」


 少し考えてから、


「……おやすみ」


 とだけ言った。


 千代は一瞬驚いた。


 それから、柔らかく笑った。


「おやすみなさい、朔さん」


 襖が閉じる。


 静かになった部屋で、朔は天井を見つめた。


 胸の奥に、今まで知らなかったものが生まれている。


 それが何なのか。


 この時の朔には、まだ分からなかった。


 ただ――


 刀を握るよりも、あの女の声を聞くことのほうが心地よい。


 そのことだけは、少しずつ分かり始めていた。

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