第1話「人斬り」
雨が降っていた。
春の終わりだというのに、夜の山は冷える。
朔は、濡れた草の上に立っていた。
右手には刀。
その切っ先から、赤い雫が一つ、また一つと落ちている。
目の前には、男が三人いた。
「……新政府の犬が」
一番前に立つ男が吐き捨てた。
朔は何も答えなかった。
答える必要がないと思った。
男たちの背後には、燃えかけた小屋がある。
その向こうには街道。
ここを抜けられれば、敵は町へ入る。
だから、斬る。
それだけだった。
「死ね!」
一人目が刀を振り上げた。
朔は半歩だけ横へ動いた。
刃が頬をかすめる。
同時に、朔の刀が走った。
男が膝から崩れ落ちる。
「なっ……」
二人目が怯んだ。
その隙を、朔は見逃さなかった。
一歩。
二歩。
刀を返す。
男の手から刀が落ちた。
そして、三人目が逃げようと背を向けた。
朔は追わなかった。
追う必要がない。
男は数歩走ったところで、仲間を置き去りにした自分を恥じたのか、振り返った。
その目と、朔の目が合った。
「……化け物め」
男が呟いた。
朔は、その言葉にも何も答えなかった。
ただ、刀を納めた。
鞘に収まる音だけが、雨の中に響いた。
静かになった。
雨音だけが残る。
朔は倒れた男たちを見た。
三人。
これで、今日だけで七人目だった。
多いのか、少ないのか。
もう、よく分からなかった。
人を斬ることに慣れたわけではない。
ただ、考えなくなっただけだ。
最初の頃は、斬った後に手が震えた。
眠れない夜もあった。
夢に出てきたこともある。
だが、戦が続けば、そんなことを気にしている暇はなくなる。
刀を握る。
敵を探す。
斬る。
生き残る。
その繰り返しだった。
「榊原!」
遠くから声がした。
味方の兵が駆けてくる。
「終わったか?」
「ああ」
「三人とも?」
「……そうだ」
兵は倒れている男たちを見て、顔をしかめた。
「相変わらずだな、お前は」
朔は返事をしなかった。
「もう少し人間らしくできんのか?」
「人間だ」
「そういうところだよ」
兵は苦笑した。
朔は空を見上げた。
雨はまだ降っている。
雲の向こうに月があるはずなのに、何も見えない。
「戻るぞ」
兵が言った。
「ああ」
朔は歩き出した。
そのときだった。
腹のあたりに、鈍い痛みを感じた。
「……っ」
足が止まる。
「どうした?」
「何でもない」
「顔色が悪いぞ」
「大丈夫だ」
そう言ったものの、朔は自分の腹を押さえた。
いつの間にか、着物の脇が赤く染まっている。
さっきの男の刀が、浅く入っていたらしい。
「お前、それ……」
「帰れば治る」
「無茶を言うな!」
兵が肩を貸そうとする。
朔はそれを断った。
「歩ける」
「意地を張るな」
「張ってない」
「十分張ってる!」
珍しく声を荒らげられ、朔は少しだけ眉を動かした。
そんなやり取りをしながら、二人は山を下りていった。
その先に、小さな町がある。
朔にとっては、ただ通り過ぎるだけの町だった。
そのはずだった。
――この夜。
その町で、一人の女と出会うまでは。
◇
翌朝。
朔は目を覚ました。
体が重い。
腹の傷が痛む。
それでも立ち上がった。
兵舎を出る。
刀を腰に差す。
それから、町へ向かった。
理由はない。
ただ、少し歩きたかった。
町には朝の匂いがあった。
焼いた魚。
炊いた米。
味噌汁。
戦場では嗅ぐことのない匂いだった。
朔は足を止めた。
腹が鳴った。
「……」
昨日まで七人を斬った男とは思えないほど、間の抜けた音だった。
朔は周囲を見回した。
誰も聞いていない。
そう確認してから歩き出す。
その直後。
「ちょっと!」
後ろから声がした。
振り返る。
若い女が立っていた。
手には籠。
町医者の娘らしい。
朔を見るなり、女は眉を寄せた。
「あなた」
「……俺か?」
「他に誰がいるんですか」
「何か用か」
「血が出ています」
女は朔の腹を指差した。
朔は自分の着物を見る。
確かに赤い。
「これくらいなら問題ない」
「問題あります」
「ない」
「あります」
「ない」
「あります!」
朔は黙った。
女も黙った。
しばらく見つめ合う。
やがて女がため息をついた。
「……あなた、馬鹿ですね」
「初対面の人間に言うことか?」
「初対面でも分かります」
女は籠を地面に置いた。
「来てください」
「どこへ?」
「うちです」
「なぜ?」
「傷を見ます」
「必要ない」
「では、そのまま血を流しながら歩いてください」
「……」
「それで死んでも知りません」
「……死ぬのか?」
「そんなことは知りません!」
女は少し怒った顔をした。
朔は困った。
敵なら斬ればいい。
味方なら命令に従えばいい。
だが、このような女への対処法は、朔には分からなかった。
「名前は?」
女が聞いた。
「……榊原朔」
「私は千代です」
千代は籠を拾い上げた。
「榊原さん」
「何だ」
「早く来てください」
朔はしばらくその背中を見ていた。
そして――
なぜか、その後を歩いた。
それが、始まりだった。
人を斬ることでしか、生きることを知らなかった男と。
人を救うことを知っていた女。
二人の、長い物語の始まりだった。
お読みいただき、ありがとうございます!
今回から幕末を舞台にした新しい物語『明けの剣』を始めます。
人を斬ることで生きてきた侍・朔と、町医者の娘・千代。
この二人がこれからどんな人生を歩んでいくのか、ぜひ見届けていただけたら嬉しいです。
次話から、少しずつ二人の距離が近づいていきます。




