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世界最強の俺を、幼馴染が全力で落ちこぼれにしてくる件  作者: 浪留
第一章:辺境の村

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8/40

第六話「さよならの朝は、思ったよりもあっけない。」

 それから数日間、朝は本当にいつもと同じ顔でやって来た。

 鶏が鳴き、井戸端で桶の音がして、パン屋の煙突から白い煙が上がる。どこかの家では子どもが泣き、畑へ向かう大人たちは眠たそうに鍬を担いでいた。

 村は、僕たちがいなくなることをまだ知らない。いや、知っていたとしても、たぶん同じ顔をしていたと思う。世界というものは、誰かの別れにいちいち立ち止まってはくれない。薄情で、だからこそ続いていく。

 父さんの鞄は、その数日のあいだ、ずっと部屋の隅にあった。最初は口を閉じていた。次の日には布が入った。その次の日には乾かした食料が入り、古い地図が畳まれて差し込まれた。父さんは何も急がなかった。けれど、毎日少しずつ、鞄は旅の形に近づいていって、僕はそれに見ないふりをした。

 アイリスも、たぶん気づいていた。それでも彼女は毎朝、いつものように扉を叩いた。


「見張りに来た」


 その声を聞くたびに、僕は少しだけ安心して、少しだけ苦しくなった。

 いつもの朝が来る。でも、いつもの朝は、もう数えられるものになっていたから。


―――


 出発の朝、父さんは、家の前で鞄の紐を結んでいた。

 昨日の夜、部屋の隅に置かれていた古い鞄。革は擦り切れ、金具には細かな傷がある。遠出をするときだけ使う鞄。今日はもう、虫干しでも片づけでもなく、どこからどう見ても旅の荷物だった。


「忘れ物はないか」

 父さんが言った。


「たぶん」

「たぶんは危ない」

「父さんもよく言うよ」

「大人のたぶんは、子どものたぶんより少しだけ信用できる」

「便利だね」

「便利だからな」


 いつも通りの会話だった。だから、少しだけ苦しかった。いつも通りなら、今日も続いていくように見える。明日も、明後日も、父さんが変な昔話をして、僕がそれを嘘だと思って、アイリスが見張りに来て、村の子どもたちが広場で石を投げる。そんな日が続くように見える。

 でも、続かない。

 僕は家の中を一度だけ振り返った。傾いた椅子、壁の小さな傷、父さんが直すと言ってずっと直さなかった窓枠。どうでもいいものばかりなのに、今日だけは妙にこちらを見ている気がした。

 父さんは扉を閉めた。鍵はかけなかった。それが、この家にもう戻らないということなのか、誰かが使えるようにということなのか、僕には分からなかった。ただ、扉が閉まる音は思っていたより軽かった。別れの音にしては、あまりにも軽かった。


 アイリスは、村の入口にいた。いつものように家まで来ると思っていたから、少し驚いた。彼女は道の脇に立って、両手を後ろで握っていた。栗色の髪はきちんと結ばれていて、膝の布はもう外れている。見張りに来た、と言うには、少し遠い場所だった。


「アイリス」

 僕が呼ぶと、彼女はこっちを見た。


「遅い」

「待ち合わせしてないよ」

「してた」

「いつ?」

「私の中で」

「勝手すぎる」

 アイリスは少しだけ笑った。でも、その笑い方はいつもより下手だった。


 父さんは少し離れたところで立ち止まった。村の外へ続く道を見ているふりをして、僕たちの方を見ないようにしていた。こういう時だけ、父さんは妙に大人だった。


「聞いたの?」

 僕が聞くと、アイリスは頷いた。


「昨日、アレクシスさんが家に来た。ちゃんと話してくれた」

「父さんが…」

「アレンは言えない顔してたから」

「顔に出てた?」

「出てた。石が迷った時くらい」

「それ、相当だね」

「うん、相当だったよ」

 少しだけ笑えた。でも、すぐに笑えなくなった。


 アイリスは僕の鞄を見た。それから父さんの鞄を見て、最後に僕の顔を見る。

「本当に行くんだ」

「うん」

「いつ戻るの?」

 答えられなかった。


 父さんは、戻るとは言わなかったし、いつか、とも言わなかったから。ただ、ここには長くいられない、と言っただけだった。


 僕が黙っていると、アイリスは唇を噛んだ。

「そっか」


 それだけだった。その「そっか」が、思ったより重かった。

 僕は、別れというものはもっと長いのだと思っていた。言いたいことがたくさんあって、泣いたり怒ったりして、約束をして、何度も振り返って、それでようやく終わるものだと思っていた。

 でも、実際には違った。言いたいことは多すぎると、逆に何も言えなくなる。


「ごめん」

 僕は言った。


「僕から言えなくて」


 アイリスは首を横に振った。

「怒ってるけど、怒ってない」

「どっち?」

「どっちも」

「難しいね」

「アレンが悪いわけじゃないから、ちゃんと怒れない。でも、急にいなくなるのは嫌だから、怒ってる」


 正直な言葉だった。だから胸に刺さった。


「僕も、行きたいわけじゃない」

「うん」

「でも、父さんが行くって言った」

「うん」

「僕がいると、また何か起きるかもしれないって」


 そこまで言って、喉が詰まった。アイリスは僕を見ていた。あの森で魔獣を見た時と同じ目だった。怖くても、目を逸らさない目。


「アレンは悪くないよ」

「それ、前にも言った」

「何回でも言う。アレンはすぐ、自分が悪いみたいな顔をするから」

 僕は返せなかった。


「祠のことは、私にはよく分からない。でも、アレンが助けてくれたことは分かる。だから、それもちゃんと覚えてて」

「それも?」

「悪いかもしれないことだけ覚えてるの、ずるい」

 少し怒ったような言い方だった。僕はまた、何も言えなくなった。


 アイリスは後ろ手に隠していたものを前に出した。小さな布袋だった。

「これ」

「何?」

「石」

「石?」

「迷わない石」


 袋の中には、小さな丸い石が入っていた。昨日の石投げで使ったような、どこにでもある石だ。けれど表面が少しだけ磨かれていて、手の中に収まりがよかった。


「これを持ってたら、アレンのいしが迷わないかもしれない」

「どういう理屈?」

「分からない」

「分からないんだ」

「でも、お守りってそういうものでしょ」

 アイリスは少しだけ胸を張った。


「変なことしそうになったら、それ見て思い出して」

「普通にすること?」

「それも。あと、私が見張ってること」

「遠くから?」

「遠くから」

「すごい見張りだね」

「見張り役だから」


 僕は布袋を受け取った。重かった。

 命の恩人という言葉よりも、共犯者という言葉よりも、その小さな石の方が、ずっと重く、ずっと別れの形をしていた。


 父さんが、遠くで僕の名前を呼んだ。そろそろ行く時間だった。

 時間というものは、こういう時だけ律儀になる。普段はだらだら伸びるくせに、別れの時だけ妙に正確に終わりを持ってくる。


「アレン」

 アイリスが言った。


「何?」

「次に会った時」


 彼女は少しだけ息を吸った。

「変なことしてたら、怒るから」

「次に会っても見張るの?」

「当たり前でしょ」

「遠くの村にいても?」

「見つける」


 あまりにも当然のように言ったので、僕は少し驚いた。

「どうやって?」

「考える」

「今から?」

「うるさいな」


 いつものやり取りだった。最後なのに、いつも通りだった。

 だから余計に、胸が痛かった。


「じゃあ、僕も」

「何?」

「見つけられるように、少し変でいる」

「それいつも通りだよ」

「ひどいな」


 アイリスは笑った。今度は、ちゃんと笑っていた。

 その笑顔を見て、僕は少しだけ安心した。


「またね」


 アイリスが言った。

 さよなら、ではなかったその言葉に、僕は救われた。


「またね」

 僕も言った。


 父さんのところへ歩き出す。

 ―一歩、―二歩。

 村の道の土が、靴の裏に少しだけついた。


 振り返らないつもりだった。でも、無理だった。

 振り返ると、アイリスはまだそこにいた。村の入口で、両手を握りしめて、僕を見ていた。

 僕が手を振ると、彼女も手を振った。それから、口の形だけで何かを言った。声は届かなかったけど、なんとなく分かった。


 ―見張ってるから。


 たぶん、そう言った。


 僕は布袋の中の石を握った。『迷わない石』

 そんなものが本当にあるとは思わない。でも、その時の僕は、その石が少しだけ羨ましかった。僕は迷っていたから。行きたくない気持ちと、行かなければならない理由の間で、ずっと迷っていたから。

 それでも足は前に進む。父さんの隣を歩く。


 村の入口が、少しずつ遠ざかる。アイリスの姿が、小さくなる。栗色の髪が、朝の光に溶けていく。

 さよならは、思ったよりあっけなかった。けれど、あっけないから軽いわけではない。小さな石みたいに。手の中に収まるほど小さいのに、いつまでも重さだけが残るものもある。

 僕はその重さを握りしめたまま、村の外へ続く道を歩いた。

 父さんは何も言わなかった。僕も何も言わなかった。


 ただ、遠くで鶏が鳴いていた。

 いつもより、少しだけ間の悪い声だった。

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