第六話「さよならの朝は、思ったよりもあっけない。」
それから数日間、朝は本当にいつもと同じ顔でやって来た。
鶏が鳴き、井戸端で桶の音がして、パン屋の煙突から白い煙が上がる。どこかの家では子どもが泣き、畑へ向かう大人たちは眠たそうに鍬を担いでいた。
村は、僕たちがいなくなることをまだ知らない。いや、知っていたとしても、たぶん同じ顔をしていたと思う。世界というものは、誰かの別れにいちいち立ち止まってはくれない。薄情で、だからこそ続いていく。
父さんの鞄は、その数日のあいだ、ずっと部屋の隅にあった。最初は口を閉じていた。次の日には布が入った。その次の日には乾かした食料が入り、古い地図が畳まれて差し込まれた。父さんは何も急がなかった。けれど、毎日少しずつ、鞄は旅の形に近づいていって、僕はそれに見ないふりをした。
アイリスも、たぶん気づいていた。それでも彼女は毎朝、いつものように扉を叩いた。
「見張りに来た」
その声を聞くたびに、僕は少しだけ安心して、少しだけ苦しくなった。
いつもの朝が来る。でも、いつもの朝は、もう数えられるものになっていたから。
―――
出発の朝、父さんは、家の前で鞄の紐を結んでいた。
昨日の夜、部屋の隅に置かれていた古い鞄。革は擦り切れ、金具には細かな傷がある。遠出をするときだけ使う鞄。今日はもう、虫干しでも片づけでもなく、どこからどう見ても旅の荷物だった。
「忘れ物はないか」
父さんが言った。
「たぶん」
「たぶんは危ない」
「父さんもよく言うよ」
「大人のたぶんは、子どものたぶんより少しだけ信用できる」
「便利だね」
「便利だからな」
いつも通りの会話だった。だから、少しだけ苦しかった。いつも通りなら、今日も続いていくように見える。明日も、明後日も、父さんが変な昔話をして、僕がそれを嘘だと思って、アイリスが見張りに来て、村の子どもたちが広場で石を投げる。そんな日が続くように見える。
でも、続かない。
僕は家の中を一度だけ振り返った。傾いた椅子、壁の小さな傷、父さんが直すと言ってずっと直さなかった窓枠。どうでもいいものばかりなのに、今日だけは妙にこちらを見ている気がした。
父さんは扉を閉めた。鍵はかけなかった。それが、この家にもう戻らないということなのか、誰かが使えるようにということなのか、僕には分からなかった。ただ、扉が閉まる音は思っていたより軽かった。別れの音にしては、あまりにも軽かった。
アイリスは、村の入口にいた。いつものように家まで来ると思っていたから、少し驚いた。彼女は道の脇に立って、両手を後ろで握っていた。栗色の髪はきちんと結ばれていて、膝の布はもう外れている。見張りに来た、と言うには、少し遠い場所だった。
「アイリス」
僕が呼ぶと、彼女はこっちを見た。
「遅い」
「待ち合わせしてないよ」
「してた」
「いつ?」
「私の中で」
「勝手すぎる」
アイリスは少しだけ笑った。でも、その笑い方はいつもより下手だった。
父さんは少し離れたところで立ち止まった。村の外へ続く道を見ているふりをして、僕たちの方を見ないようにしていた。こういう時だけ、父さんは妙に大人だった。
「聞いたの?」
僕が聞くと、アイリスは頷いた。
「昨日、アレクシスさんが家に来た。ちゃんと話してくれた」
「父さんが…」
「アレンは言えない顔してたから」
「顔に出てた?」
「出てた。石が迷った時くらい」
「それ、相当だね」
「うん、相当だったよ」
少しだけ笑えた。でも、すぐに笑えなくなった。
アイリスは僕の鞄を見た。それから父さんの鞄を見て、最後に僕の顔を見る。
「本当に行くんだ」
「うん」
「いつ戻るの?」
答えられなかった。
父さんは、戻るとは言わなかったし、いつか、とも言わなかったから。ただ、ここには長くいられない、と言っただけだった。
僕が黙っていると、アイリスは唇を噛んだ。
「そっか」
それだけだった。その「そっか」が、思ったより重かった。
僕は、別れというものはもっと長いのだと思っていた。言いたいことがたくさんあって、泣いたり怒ったりして、約束をして、何度も振り返って、それでようやく終わるものだと思っていた。
でも、実際には違った。言いたいことは多すぎると、逆に何も言えなくなる。
「ごめん」
僕は言った。
「僕から言えなくて」
アイリスは首を横に振った。
「怒ってるけど、怒ってない」
「どっち?」
「どっちも」
「難しいね」
「アレンが悪いわけじゃないから、ちゃんと怒れない。でも、急にいなくなるのは嫌だから、怒ってる」
正直な言葉だった。だから胸に刺さった。
「僕も、行きたいわけじゃない」
「うん」
「でも、父さんが行くって言った」
「うん」
「僕がいると、また何か起きるかもしれないって」
そこまで言って、喉が詰まった。アイリスは僕を見ていた。あの森で魔獣を見た時と同じ目だった。怖くても、目を逸らさない目。
「アレンは悪くないよ」
「それ、前にも言った」
「何回でも言う。アレンはすぐ、自分が悪いみたいな顔をするから」
僕は返せなかった。
「祠のことは、私にはよく分からない。でも、アレンが助けてくれたことは分かる。だから、それもちゃんと覚えてて」
「それも?」
「悪いかもしれないことだけ覚えてるの、ずるい」
少し怒ったような言い方だった。僕はまた、何も言えなくなった。
アイリスは後ろ手に隠していたものを前に出した。小さな布袋だった。
「これ」
「何?」
「石」
「石?」
「迷わない石」
袋の中には、小さな丸い石が入っていた。昨日の石投げで使ったような、どこにでもある石だ。けれど表面が少しだけ磨かれていて、手の中に収まりがよかった。
「これを持ってたら、アレンのいしが迷わないかもしれない」
「どういう理屈?」
「分からない」
「分からないんだ」
「でも、お守りってそういうものでしょ」
アイリスは少しだけ胸を張った。
「変なことしそうになったら、それ見て思い出して」
「普通にすること?」
「それも。あと、私が見張ってること」
「遠くから?」
「遠くから」
「すごい見張りだね」
「見張り役だから」
僕は布袋を受け取った。重かった。
命の恩人という言葉よりも、共犯者という言葉よりも、その小さな石の方が、ずっと重く、ずっと別れの形をしていた。
父さんが、遠くで僕の名前を呼んだ。そろそろ行く時間だった。
時間というものは、こういう時だけ律儀になる。普段はだらだら伸びるくせに、別れの時だけ妙に正確に終わりを持ってくる。
「アレン」
アイリスが言った。
「何?」
「次に会った時」
彼女は少しだけ息を吸った。
「変なことしてたら、怒るから」
「次に会っても見張るの?」
「当たり前でしょ」
「遠くの村にいても?」
「見つける」
あまりにも当然のように言ったので、僕は少し驚いた。
「どうやって?」
「考える」
「今から?」
「うるさいな」
いつものやり取りだった。最後なのに、いつも通りだった。
だから余計に、胸が痛かった。
「じゃあ、僕も」
「何?」
「見つけられるように、少し変でいる」
「それいつも通りだよ」
「ひどいな」
アイリスは笑った。今度は、ちゃんと笑っていた。
その笑顔を見て、僕は少しだけ安心した。
「またね」
アイリスが言った。
さよなら、ではなかったその言葉に、僕は救われた。
「またね」
僕も言った。
父さんのところへ歩き出す。
―一歩、―二歩。
村の道の土が、靴の裏に少しだけついた。
振り返らないつもりだった。でも、無理だった。
振り返ると、アイリスはまだそこにいた。村の入口で、両手を握りしめて、僕を見ていた。
僕が手を振ると、彼女も手を振った。それから、口の形だけで何かを言った。声は届かなかったけど、なんとなく分かった。
―見張ってるから。
たぶん、そう言った。
僕は布袋の中の石を握った。『迷わない石』
そんなものが本当にあるとは思わない。でも、その時の僕は、その石が少しだけ羨ましかった。僕は迷っていたから。行きたくない気持ちと、行かなければならない理由の間で、ずっと迷っていたから。
それでも足は前に進む。父さんの隣を歩く。
村の入口が、少しずつ遠ざかる。アイリスの姿が、小さくなる。栗色の髪が、朝の光に溶けていく。
さよならは、思ったよりあっけなかった。けれど、あっけないから軽いわけではない。小さな石みたいに。手の中に収まるほど小さいのに、いつまでも重さだけが残るものもある。
僕はその重さを握りしめたまま、村の外へ続く道を歩いた。
父さんは何も言わなかった。僕も何も言わなかった。
ただ、遠くで鶏が鳴いていた。
いつもより、少しだけ間の悪い声だった。




