第五話「何でもない一日は、くだらなくて輝かしい。」
祠の事件から、何日かが経った。
村は、少しずついつもの顔に戻っていった。井戸端では水桶が鳴り、畑では大人たちが土を返し、パン屋の煙突からは朝になるたびに小麦の匂いが流れてくる。森の奥で何があったとしても、腹は減るし、洗濯物は溜まるし、鶏は相変わらず人の都合を考えずに鳴く。
世界は案外、薄情だ。―でも、その薄情さに救われる朝もある。
僕の髪の毛先は、もうほとんど黒に戻っていた。ほんの少しだけ、光の当たり方によって白く見える程度だ。父さんは「まだ帽子をかぶれ」と言ったけれど、アイリスは僕の髪を覗き込んでから、偉そうに頷いた。
「今日は、ぎりぎり許可」
「誰の許可?」
「見張り役の許可」
「いつからそんな権限が?」
「命の恩人を管理するため」
「管理される命の恩人、嫌だな」
アイリスは返事の代わりに、濡れた布を僕へ押しつけてきた。
その日は、朝から洗濯だった。父さんの服と僕の服、それからなぜかアイリスのハンカチが桶の中に混ざっていた。どうして混ざっているのか聞くと、彼女は当然のように「ついで」と言った。ついでという言葉は、とても便利に他人の仕事へ入り込んでくる。
家の裏には、古い物干し竿が二本ある。陽はまだ高くない。朝の光は薄く、風は柔らかかった。濡れた布を絞ると、水が指の間を落ちて、土に小さな黒い点を作る。
僕は洗濯物を広げて、竿にかけた。
「普通に」
横からアイリスが言った。
「洗濯物を干すだけだよ」
「アレンだから」
誰かに似てきている。非常に良くない。
僕はできるだけ丁寧に、父さんのシャツを竿にかけた。風が吹く。布が揺れる。そこまでは普通だった。問題は、そのあとだ。
風が、少しだけ働きすぎた。父さんのシャツがふわりと膨らみ、しわが伸びる。次に僕の服も、アイリスのハンカチも、まるで見えない手に撫でられたみたいに形を整え始めた。水滴は綺麗に端へ集まり、ぽたぽたと一列に落ちていく。まだ朝なのに、洗濯物が昼過ぎの顔をしていた。
アイリスは黙ってそれを見上げた。僕も黙って見上げた。
「……この村の風は、洗濯が上手いね」
「風のせいにしない」
即答だった。
アイリスは急いで桶に残っていた水を手ですくい、乾きかけたハンカチにぱしゃりとかけた。
「何してるの?」
「自然に戻してるの」
「洗濯物を?」
「そう。洗濯物には洗濯物らしい湿り気が必要なの」
「哲学みたいに言わないで」
アイリスは真剣だった。濡らされたハンカチは、朝日を受けて少しだけ不満そうに垂れている。
その時、父さんが家の横から顔を出した。
「何をしている」
「洗濯物を自然に戻してます」
アイリスが言った。
父さんは竿に並んだ布を見て、僕を見て、それからもう一度布を見た。
「アレン」
「はい」
「服は干せと言った。仕上げろとは言っていない」
「風が張り切っただけかも」
「風に責任を押しつけるな」
父さんはそう言いながら、少しだけ笑っていた。その笑い方を見て、僕はほっとした。昨日まで森の奥に沈んでいたものが、ようやく朝の光に薄められていく気がした。
大きな恐怖は、消えない。でも、小さな笑いがその上に積もることはある。雪みたいに。あるいは、洗濯物に戻された水滴みたいに。
午前中の残りは、だいたいそんな調子で過ぎた。少しだけ、楽しかった。
―――
昼過ぎになると、村の子どもたちが広場に集まり始めた。誰かが木の板に丸を描き、少し離れた場所に線を引いている。石投げ遊びだ。単純な遊びだけれど、村ではそこそこ人気がある。丸の中心に近いほど偉い。外したら笑われる。たまに石が変な方向へ飛んで、見物している犬が怒る。
「アレンもやろうよ」
村の子が手を振った。僕は一歩下がった。
石を投げる事、それは最近、できれば避けたい行為の一つだった。
横を見ると、アイリスがもう僕を見ていた。ものすごく見ていた。見張り役というより、審判の顔だった。
「普通に投げればいい」
「普通が一番難しいんだけど」
「知ってる。でもやるの」
アイリスとしては、村の子供とあまりなじめないでいる僕を思っての強引さだったのだろう。
「厳しい」
「見張り役だから」
僕は仕方なく列に並んだ。手のひらに小石を乗せる。軽い石だった。狙えば、たぶん当たる。狙わなくても、たぶん当たる。だから、少し外すくらいのつもりで投げた。
石は、丸の端に当たった。上手すぎず、下手すぎず、ちょうど人に忘れられるくらいの場所。
「おお、普通」
アイリスが小声で言った。
「それ、褒めてる?」
「かなり」
納得したくないけれど、少しだけ嬉しい。
次の子は中心近くに当てた。広場がわっと沸く。僕も拍手した。普通に上手いというのは、見ていて気持ちがいい。石はまっすぐ飛び、板に当たり、跳ねて落ちる。ただそれだけなのに、そこにはちゃんと努力の匂いがある。
何度か順番が回ってきた。僕は全部、ほどほどに投げた。そのつもりだった。
問題は、三回目だった。少し強く投げすぎた、と手を離した瞬間に分かった。石は丸の中心へまっすぐ飛んでいく。まっすぐすぎるくらい、まっすぐだった。
まずい。
そう思った瞬間、石は空中で少しだけ迷った。本当に、迷ったように見えた。中心へ行こうとして、それではいけないと思い直したみたいに、石は直前でくいっと向きを変えた。丸の端に当たる。跳ねる。落ちる。
広場が、少しだけ静かになった。
「今の、曲がった?」
誰かが言った。
僕は固まった。
アイリスも固まった。けれど、固まっていたのは一瞬だけだった。アイリスはすぐに一歩前へ出ると、信じられないくらい堂々とした顔で言った。
「石が迷ったの」
もっと良い言い訳はなかったのか。
村の子どもたちは、きょとんとしている。
「石が?」
「うん。中心に当たるか、端に当たるか迷ったの」
「石って迷うの?」
「迷う石もある」
アイリスは言い切った。強かった。あまりにも強い嘘だった。強すぎて、逆に何人かの子どもが納得しかけている。
「へえ……」
「そうなんだ」
「迷う石、見たことない」
「今日はじめて見たね」
アイリスは満足そうに頷いた。
僕は小声で言った。
「雑すぎない?」
「黙って」
「石が迷うは無理があるよ」
「アレンがやったことの方が無理あるでしょ」
それはそうだった。反論できない。
その後、別の子が投げた石が的を外れて、地面に転がった。
すると、一人が真顔で言った。
「この石は迷わなかったね」
別の子が頷く。
「まっすぐ外れた」
広場に笑いが起きた。
アイリスは、勝ったみたいな顔をしていた。僕は少しだけ肩の力を抜いた。雑な嘘でも、子どもたちの笑いに混ざってしまえば、案外それらしくなるらしい。
いや、たぶん違う。アイリスが堂々としすぎているだけだ。
そのあとも石投げは続いた。僕はなるべく目立たないように投げた。アイリスは僕が石を握るたびに、横から小さく咳払いをしたり、眉を上げたり、時にはただ無言で睨んできたりした。
監視とはこういう事なのだろうか。窮屈で仕方がない・
―――
しばらく遊んでいると、父さんが広場へやって来た。畑帰りなのか、肩に土がついている。子どもたちは父さんを見ると、すぐに集まった。
「昔話!」
「今日は続き?」
「竜のやつ!」
「いや、石より硬いパンのやつ!」
父さんは困ったように頭を掻いた。
「今日は石の話だ」
「石?」
「昔、投げられるのが嫌いな石があってな」
その時点で、もう怪しかった。僕は少し離れた木の根元に座った。アイリスも隣に座る。彼女はまだ見張り役の顔をしていたけれど、父さんの昔話が始まると、少しだけ目が楽しそうになる。
「その石は、誰かに投げられるたびに怒って、勝手に投げた相手のところへ戻ってきた」
「怖い!」
「便利じゃん!」
「いや、投げたら戻ってくるんだぞ。遊びが終わらない」
子どもたちは笑った。
父さんの話はいつも通りだった。大げさで、くだらなくて、妙なところだけ細かい。石が戻ってくる角度だとか、ぶつかった兵士の鼻が三日赤かったとか、誰も聞いていない情報ばかり増えていく。それでも、子どもたちは楽しそうだった。
僕も、少し笑った。
アイリスが小声で言う。
「アレンの石も、たまに戻ってきそう」
「戻ってこないよ」
「今のところはね」
「信用がない」
「信頼はしてる」
「信用は?」
「見張り中」
僕はため息をついた。けれど、そのため息は軽かった。
広場には夕方の匂いが少しずつ混ざり始めている。子どもたちの笑い声、父さんの嘘くさい昔話、隣でうるさい見張り役。全部が一つの布みたいに、村の空気へゆっくり織り込まれていく。
事件なんて、なかったみたいだった。
もちろん、なかったことにはならない。森の奥には祠があり、僕の中には説明できない力があり、アイリスはそれを知っている。
でも、この時だけは。この小さな広場の端で、僕はただの子どもだった。少し石投げが下手で、帽子の似合わない、アイリスに見張られているだけの子どもだった。
それでよかった。少なくとも、この夕方が終わるまでは。
父さんの話は、やっぱり一番いいところで終わった。
「それで、その石はどうなったの?」
子どもの一人が聞く。
父さんはいつものように肩をすくめた。
「明日生きていたら話す」
「またそれ!」
「絶対話さないやつだ!」
子どもたちは笑いながら散っていく。僕とアイリスだけが少し遅れて立ち上がった。
「明日も見張りに来るから」
アイリスが言った。
「うん」
「ちゃんと普通にしてて」
「努力する」
「努力じゃなくて、実行」
「厳しいな」
「見張り役だから」
彼女は得意げに笑った。
夕方の光が、栗色の髪に引っかかっている。僕はその光景を、なんとなく覚えておきたいと思った。理由は分からない。ただ、今日みたいな何でもない一日は、あとからきっと思い出す気がした。
父さんが遠くで僕を呼んだ。僕は返事をして、歩き出す。
隣では、アイリスがまだ僕の足元を見ていた。
「今、ちょっと速かった」
「歩く速度まで見るの?」
「見る」
「見張り役って大変だね」
「アレンが大変にしてるの」
僕は笑った。
その笑い声は、夕暮れの道に思ったより軽く転がった気がした。
―――
その晩、部屋の隅に、父さんの使い古した鞄が置かれていた。遠出をするときだけ使う鞄だった。普段は棚の奥にしまわれていて、父さんが何かの拍子に取り出すたび、革と埃と、少しだけ知らない土地の匂いがした。
その鞄が、今日は床の上にある。口はまだ閉じられていた。けれど、留め具のそばには畳まれた布と、乾かした食料を入れる小袋が置かれている。
僕だって、察しが悪いわけじゃない。それが何を意味するのか、なんとなく分かった。
「この村も、もうそろそろか……」
僕たちは、今までもいくつかの村を移ってきた。僕の力が隠せなくなりそうになったら、荷物をまとめる。そして朝になれば村を出る。歩いて、次の村へ向かう。それだけだった。
けれど今回は、その「それだけ」が、少しだけ重かった。
井戸のそばで笑う女の人たちの声。広場で石を投げる子どもたちの背中。父さんの昔話に文句を言いながら、それでも続きを待つ顔。
それから…。
それから、朝になるたびに扉を叩く、遠慮のない音。
どんどん、と鳴らして、見張りに来た、と言って、僕の日常に勝手に入り込んできた少女の声。
それらを置いていくのだと思うと、胸の奥が少しだけ狭くなった。
窓の外では、夜の村が眠っている。昼間あんなに賑やかだった広場も、今は誰もいない。石投げの的に使った板も、きっとそのまま地面に置かれているのだろう。
今日という一日は、あんなに普通だった。洗濯物が風に甘やかされて、アイリスが水をかけ直して、石が迷って、父さんが投げられるのを嫌がる石の話をした。くだらなくて、騒がしくて、少しだけ眩しい一日だった。
その一日の終わりに、古い鞄が置かれている。
それが、どうしようもなく嫌だった。
僕は布団に潜り込んだ。眠れる気はしなかった。目を閉じても、アイリスの顔が浮かぶ。明日も来ると言っていた。見張りに来ると言っていた。帽子が似合わないと言って、石を投げすぎるなと怒って、きっといつものように扉を叩く。その音を聞くのが、少し怖かった。
けれど、聞けなくなることの方が、もっと怖かった。
夜は、なかなか終わらなかった。
それでも、―朝は来る。
いつもと同じ顔をして。




