第四話「初めての共犯者は、想像よりも騒々しい。」
父さんは、まずアイリスを見た。
「怪我は」
「分かりません」
アイリスは小さく答えた。
顔は青ざめ、唇はまだ震えていた。肩にも髪にも泥がついていて、膝には擦り傷がある。けれど、魔獣の爪は届いていなかった。少なくとも、命を奪うような傷はない。
「立てるか」
「たぶん」
父さんは自分の上着を脱ぎ、アイリスの肩にかけた。それから僕を見た。視線が、僕の髪の先で止まる。次に、目を見る。
父さんは何も言わなかった。
でも、その沈黙は、さっきの魔獣より少し怖かった。怒鳴られる方が、まだ楽だったかもしれない。どうして森へ入った。どうして祠へ近づいた。どうして人前で力を使った。そんな言葉なら、僕にも謝り方がある。
でも父さんは、何も言わない。何も言わずに、全部を見ていた。
黒く濡れた地面。ひび割れた祠。魔獣が消えたあとの、妙に澄んだ空気。泥だらけのアイリス。そして、髪の毛先だけが白くなった僕。言い訳の置き場所が、どこにもなかった。
「父さん」
声を出すと、喉が痛かった。
「僕、何か……」
「今はいい」
父さんは短く言った。それから、壊れた祠の方を見る。
苔むした石の台。半分崩れた屋根。読めない文字が刻まれた石柱。そこには、さっきまで魔獣がいたとは思えないほど、静かな顔をした石だけが残っていた。けれど、石柱の根元には大きなひびが入っている。そこだけが、まだ森の中で目を覚ましていた。
「封印が、揺らいだか」
父さんは低く言った。
「封印?」
僕が聞くと、父さんは祠から目を離さないまま答えた。
「勝手に解けたわけじゃない」
「じゃあ、誰かが壊したの?」
父さんはすぐに答えなかった。代わりに、僕を見る。
僕の髪を。
僕の目を。
そして、たぶん、僕の奥にあるものを。
「古い封印は、似たものに反応することがある」
「似たもの?」
「お前はまだ知らなくていい」
また、それだった。
知らなくていい。
父さんは、僕が何かに近づきすぎるたび、その言葉で扉を閉める。僕はいつも、その前で立ち止まるしかない。でも、今日はその扉の隙間から、何かが少しだけ見えていた。
この祠は、ただ古いだけではない。
父さんは、ただ畑を耕すためにこの村へ来たわけではない。
そして僕は、ただの子どもではない。
そんなことを、見たくもないのに見せられてしまった気がした。
「封印自体も弱っていた。昔のものだからな」
父さんは、祠のひびに指を触れない距離で立ち止まった。
「そこへ、近づきすぎた」
「僕たちが?」
「そうだ」
短い答えだった。けれど、それだけではないことは分かった。近づきすぎた、という言葉は、ただ祠との距離だけを言っているのではない。
たぶん、僕のことだ。僕の中にある何かが、祠の奥にあったものに触れた。だから封印が揺らいだ。だから魔獣が出た。そういう意味なのだと思った。
胸の奥が冷たくなる。
もし―僕がいなければ。
もし―僕が森に入らなければ。
もし―アイリスを止められていれば。
考え始めると、どれも僕の方を向いているような気がした。
父さんは、少しだけ息を吐いた。
「この村は、静かすぎるだろう」
「うん」
「静かな場所には、忘れられたものが残りやすい。忘れられたままの方がいいものもある」
「それが、あれ?」
「そうだ」
父さんは短く答えた。
「だから私はここにいた」
それ以上は言わなかった。でも、その一言だけで十分だった。
父さんは、何も知らずにこの村にいたわけではない。偶然ここに住んでいたわけでもない。
王都から遠く、大きな街道からも外れていて、誰も近づかない村。忘れられたものを、忘れられたままにしておくために、さんは、ここにいた。
僕は、何も知らなかったのだと思った。父さんのことも。この村のことも。自分のことも。
父さんは、今度はアイリスへ視線を移した。
「君は、見たな」
アイリスは肩にかけられた上着を握ったまま、小さく頷いた。
「見ました」
その声は震えていた。でも、嘘ではなかった。
父さんは、静かに言った。
「なら、話さない方がいい」
「アレンが困るからですか」
「それもある」
父さんは一拍置いた。
「君も困る」
「私も?」
「ああ。あれを見た人間は、見たというだけで面倒に巻き込まれる。アレンのことを話せば、アレンだけではなく、君も見られる側になる」
見られる側。その言葉は、変だった。でも、なんとなく意味は分かった。
ただ見るだけなら、そこにいるのは自分だ。けれど、見たことを誰かに知られた瞬間、自分もまた、誰かから見られるものになる。秘密というものは、持っているだけで重い。アイリスはまだ子どもなのに、その重さを渡されようとしていた。
僕は何も言えなかった。
言わないで、とも、言ってもいい、とも言えなかった。
どちらを選んでも、彼女に何かを背負わせることになる気がしたから。
アイリスは、少しだけ唇を噛んだ。そして、僕を見た。
目が合う。
泥のついた顔。震える肩。それでも、僕から目を逸らさない目。
「じゃあ、見てないことにします」
小さな声だった。でも、はっきりしていた。
父さんは少しだけ目を細めた。
「いいのか」
「よく分かりません」
アイリスは正直に言った。
「でも、アレンは助けてくれました。私、死ぬところでした」
そこで一度、言葉が止まる。
彼女は震える息を吐いた。
「怖かったです。でも、アレンが怖かったんじゃありません」
僕は顔を上げた。
アイリスは、泥のついた顔で僕を見ていた。
「怖かったのは、あの魔獣です」
その言葉に、僕は何も返せなかった。父さんも、しばらく黙っていた。
森の葉が、遅れて音を取り戻したみたいに揺れている。遠くで鳥が鳴いた。何もなかった森のように。さっきまで死にかけた子どもがいて、魔獣がいて、世界が止まっていたことなんか知らないみたいに。
やがて父さんは、僕の前髪に触れた。白くなった毛先を、指で軽く払う。
「その髪は?」
アイリスが聞いた。
「木漏れ日だ」
「今日、曇ってます」
「この村の木漏れ日は根性がある」
「目は?」
「夕日の反射だ」
「今はまだ、夕方じゃないです」
「この村の夕日は早い」
「嘘が下手です」
アイリスは、そう言った。父さんは少しだけ眉を上げた。
「君もそう思うか」
「思います」
「よく言われる」
「父さん、開き直らないで」
僕が言うと、父さんはようやく少しだけ笑った。
それは安心した笑いではなかった。面白がった笑いでもなかった。何かを認めるような、そんな笑いだった。
村へ戻る道で、アイリスは何度も後ろを振り返った。
魔獣が追ってくると思ったのかもしれない。祠の影が、まだ森の奥に残っていると思ったのかもしれない。彼女の手は、ずっと震えていた。
けれど、僕の袖を離そうとはしなかった。
「言わない」
森を抜ける少し前、アイリスが小さく言った。
「何を?」
「今日見たこと」
僕は何も言えなかった。
「アレンが変なことしたのも、髪の先が白くなったのも、目が光ったのも、魔獣が消えたのも、言わない」
「……いいの?」
「いい」
「どうして?」
アイリスは少し怒ったような顔をした。
「命の恩人を売るほど、私は薄情じゃない」
命の恩人。
その言葉は、やっぱり重かった。でもさっきより、少しだけ温かかった。
「その代わり」
「何?」
「次から変なことになりそうな時は、私にも言って」
「自分でも分からないんだけど」
「じゃあ、私が見てる」
「何を?」
「アレンが変なことしないか」
「見張るってこと?」
「そう」
「勝手に決めないでよ」
「決めた」
アイリスはきっぱり言った。
まだ顔色は悪い。髪には泥がついている。膝も擦りむいている。声だって、少し震えている。それでも彼女は、僕の隣を歩いていた。
逃げずに、怖がっていないふりをして。怖かったものを、僕ではなく魔獣だと言って。
僕の秘密を、隠す側に回った。
父さんは少し前を歩いていた。何も言わなかったけれど、僕たちの会話は聞こえていたと思う。
その背中が、いつもより少しだけ遠く見えた。
―――
夜、鏡を見ると、僕の髪にはまだ白が残っていた。黒い髪の中に、雪が落ちたみたいに、毛先だけが白い。
父さんはそれを見て、しばらく黙っていた。
「出たか」
「これ、何?」
「力が、限界を超えて漏れたんだろう」
「漏れた?」
「桶の水と同じだ。中に入りきらなければ、外にこぼれる」
「僕の力って水なの?」
「たとえ話だ」
「父さんのたとえ話、時々雑だよね」
「分かればいい」
父さんはそう言って、僕の髪から手を離した。
僕は鏡の中の自分を見る。
黒髪。濃い赤の目。いつもの僕。でも、少しだけ違う。毛先だけ白い髪が、そこにある。
「気持ち悪いかな」
思わず呟いた。
父さんはすぐに言った。
「そんなことはない」
その声が、思ったより強かった。
僕は父さんを見た。父さんは僕の頭に手を置いた。
「気持ち悪くはない。ただ、目立つ」
父さんは真面目だった。
「アイリス、本当に言わないかな」
「言わないだろう」
「どうして分かるの?」
「見れば分かる」
「父さん、アイリスのこと少し前に知ったばかりでしょ」
「…知ったばかりの相手でも、分かることはある」
父さんは窓の外を見た。
夜の村は静かだった。昼間の森の音が嘘みたいに、遠くの虫の声だけが聞こえる。
「あの子は、お前を怖がらなかった」
「…うん」
「それは、簡単なことじゃない」
父さんの声は、少しだけ遠かった。父さんは時々、こういう声を出す。今ここではないどこかに向かって話しているみたいな声。でも、次の言葉はちゃんと僕に向いていた。
「アレン」
「何?」
「助けたことは、悪いことじゃない」
「うん」
「だが、見られたことは別だ」
「…うん」
「これからは、今まで以上に気をつけろ」
僕は頷いた。でも、胸の奥では別のことを考えていた。
アイリスは、僕を怖がらなかった。怖かったと言ったけれど、でも、それは僕のことではなかった。魔獣が怖かったと言った。僕は怖くなかったと言った。
それが、ずっと胸に残っていた。
―――
次の日、アイリスは僕の家に来た。
扉を開けると、彼女は腕を組んで立っていた。栗色の髪はいつも通り後ろで結ばれていて、膝には小さな布が巻かれている。顔色は昨日よりだいぶ良かった。
「アレンを、見張りに来た」
「本当に来たんだ」
「言ったでしょ」
「昨日、魔獣に襲われた人は普通もう少し大人しくすると思う」
「普通って難しいんでしょ」
会ったばかりの時に使った僕の言葉を、そのまま返してきた。
何も言えなかった。
アイリスは、僕の髪をじっと見た。
「ちょっと残ってる」
「うん」
「目は?」
「光ってないと思う」
「今のところはね」
「今のところって何?」
アイリスは少しだけ得意げにした。
「昨日のこと、人には言わない」
「うん」
「でも、私には隠さないで」
その言葉は、思ったよりまっすぐだった。
「何を?」
「変なこと」
「だから、僕は別に」
「魔獣、消した」
…何も言えなくなった。
アイリスは声を少し落とした。
「アレンが何なのか、私は知らない。たぶん、アレンも知らないんでしょ」
「…うん」
「でも、助けてくれた。だから、私は言わない」
彼女は少しだけ頬を赤くして、そっぽを向いた。
「命の恩人を売るほど、私は薄情じゃないし」
「売るって、そんな大げさな」
「それくらいの話でしょ」
たぶん、そうなのだと思った。父さんが隠そうとするくらいだから。父さんが、あんな目をするくらいだから。
僕のこれは、ただ変なだけではないのだろう。
「だから、私も隠す」
「アイリスが?」
「そう」
「どうやって?」
「考える」
「今から?」
「うるさいな」
アイリスは僕を睨んだ。その顔を見て、少しだけ笑ってしまった。
「何笑ってるの」
「いや」
「言いなさいよ」
「本当に共犯者みたいだなって」
「きょうはんしゃ?」
「悪いことを一緒に隠す人」
「悪いことじゃないでしょ」
アイリスはすぐに言った。
「アレンは、私を助けただけ」
その言い方が、あまりに真っ直ぐだったから。僕はまた、何も言えなくなった。
父さんは家の奥から僕たちを見ていた。何も言わず、ただ少しだけ困ったように笑っている。
―――
その日の朝、僕には初めて共犯者ができた。
僕の秘密を見た人。僕の普通ではないところを知った人。命を救われたからという理由で、僕の隣に立つことを勝手に決めた人。
アイリス
彼女はその日から、僕が何かをするたびに怒るようになった。
走りすぎれば怒るし、石を投げても怒る。木に登っても、また怒る。父さんの昔話を真顔で聞いているだけでも、なぜか怒る。
そして、僕が普通ではない何かをしてしまうたび、誰より早く、誰より必死にそれを隠そうとするようになった。
けれど、その時の僕はまだ知らなかった。
そのおせっかいが、いつか僕を何度も助けることになるなんて。
彼女が僕の隣で、誰より大きな声で嘘をつくようになるなんて。
そして、その嘘に僕が見当違いの嫌気を覚えてしまうことも。
ただ、その朝の僕は、玄関先で腕を組むアイリスを見ながら思っていた。
―共犯者というのは、たぶんもう少し静かなものじゃないのか、と。




