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世界最強の俺を、幼馴染が全力で落ちこぼれにしてくる件  作者: 浪留
第五章:夏休み

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第三十三話「古き筆跡は、その跡を覚えていた。」

 地下へ続く階段は、思っていたより狭かった。

 石造りの壁に、古い灯火用の金具がいくつも並んでいる。今は火が入っていないのに、金具の先だけがかすかに光を返していた。たぶん、魔導灯の残りだ。完全には死んでいないけれど、起きるかどうかを迷っているような明るさだった。

 先頭を歩くクレアの足音が、低く響く。

 その後ろにメル先輩。次に俺。最後にアイリス。


「アイリス、後ろで大丈夫か?」

「大丈夫」

「暗いぞ」

「あなたを後ろに置く方が怖い」

「俺は魔物か?」

「時々、扉とか紙とかに対してはそう」


 否定したかった。でも、最近の俺は古い紙に触るだけで文字を戻したり、記録にないものを起こしたりしている。自分でも反論の材料が乏しかった。


「今回は何も触らない」

「その台詞、信用したいけど、信用すると痛い目を見そう」

「俺もそう思う」

「思わないで」


 アイリスの声はいつも通りに近かった。けれど、少しだけ硬い。

 たぶん、この地下に降りてから、彼女も何かを感じている。

 俺には分からない何か。あるいは、アイリス自身にもよく分からない何か。


 階段を下りきると、重い扉があった。

 扉にはエルノート家の紋章が刻まれている。ただし、玄関のものよりずっと深い。線は削れていない。むしろ、長い間誰にも見られなかったせいで、古い形をそのまま保っているようだった。


 クレアがそっと手を置く。

 紋章が淡く光る。

 扉が、ゆっくりと開いた。


―――


 地下書庫は、静かだった。

 ただ、その静けさは死んだものの静けさではなかった。眠っているものの静けさだった。


 奥へ続く棚。

 革表紙の本。

 紐で束ねられた紙束。

 金具で封じられた箱。

 壁には保存用の術式線が刻まれ、ところどころ薄く光っている。


 古い紙の匂いがした。

 それに乾いた革と、石と、閉じられていた時間の匂いが混じっている。


 メル先輩が、入り口で止まった。

「……深呼吸してもいいですか」

「だめと言う理由はありませんが」


 クレアが答えると、メル先輩は本当に深く息を吸った。

「良い書庫です」

「匂いで、ですか?」

「匂いで半分。沈黙で半分」

 書庫は沈黙でも評価されるらしい。俺にはまだ早い世界だった。


 クレアは書庫の中央へ進む。

 その顔には緊張があった。けれど、玄関にいた時とは少し違う。

 怖がっている。でも、怖がることを恥じてはいない。

 それはたぶん、強さの一つなのだと思う。


「こんな場所が、残っていたのですね」

 クレアが呟いた。


「知らなかったのか?」

「はい。地下書庫があるとは聞いていました。でも、ここまで残っているとは思っていませんでした」

 彼女は、棚に並ぶ記録を見上げた。


「私は、家が失ったものばかり見ていました。けれど……」

 そこまで言って、言葉を止める。


 俺には、その先が少し分かる気がした。

 失ったものばかりではなかった。まだ残っているものもあった。


 メル先輩は、すでに棚の前にいた。

「触っても?」


 クレアは少し考えてから頷いた。

「壊さない範囲でお願いします」

「本は、壊されることを嫌います」

「知ってます」

「良いことです」

 メル先輩は満足そうに頷くと、棚の背表紙を読み始めた。


 俺は隣で見ていたが、文字が古すぎて半分くらいしか読めない。

 いや、半分読めれば上出来かもしれない。普段の俺なら、もっと早い段階で字の方から逃げられている。


 メル先輩の指が、一冊の分厚い本で止まった。

「これです」

「何の本ですか?」

 クレアが聞く。


「『王国名録補遺』」

「名録……補遺?」

「王国の正式な名録からこぼれたもの、または正式記録に入る前の名前を補う記録です。少なくとも、表題からはそう読めます」

 メル先輩は本を棚から抜いた。


 革表紙は黒に近い茶色で、角が金具で補強されている。かなり古い。だが、保存状態は悪くなかった。

 ただし、表紙の中央には焼け焦げたような跡があった。何かの印を削り取ったのかもしれない。


 クレアの眉がわずかに動く。

「焼けていますね」

「はい。でも、中は残っている可能性があります」

 メル先輩は机の上に本を置いた。


 机には、地下書庫用の読書台があった。古いのに、手入れされている。いや、手入れされていた、というべきか。ずっと前に誰かが丁寧に整え、そのまま時間が止まっていたような道具だった。

 メル先輩が慎重に本を開く。

 最初の頁は読めた。


 ―白礎王代、名授け以後の補記。

 ―名を授けられし者、及びその傍らに置かれし者について。


 俺は思わず、息を止めた。

 名を授けられし者。その傍らに置かれし者。


 メル先輩は、目を細める。

「これは、英雄名制度の初期記録です。公的な英雄録ではありません。制度が整う前の、補助記録に近いです」

「つまり、整えられる前の紙ですか」

「はい」


 メル先輩は少しだけ嬉しそうに頷いた。

「かなり、整えられる前です」


 その言い方だけ聞くと、未完成の料理を褒めているみたいだった。

 でも今は、それが重要なのだろう。


 頁をめくる。

 そこから先は、読みにくかった。

 黒く滲んだ文字。削り取られた行。薄れた注釈。後から別の筆跡で書き込まれたらしい余白。

 そして、何かの術式が途中で破れた跡。


 メル先輩は悔しそうに唇を結んだ。

「読める部分が少ないです」

「劣化ですか?」

「劣化もあります。でも、それだけではありません」


 メル先輩の指が、黒く潰れた行で止まる。

「ここは、消されています」


 資料室で見た「非公開」という文字を思い出す。

 あれは綺麗に隠されていた。この本の黒い跡は、もっと荒い。

 消すというより、読まれる前に傷をつけたように見えた。


 クレアは本を見つめている。

「これを、父たちは守っていたのでしょうか」

「たぶん」

 俺はそう言った。


 根拠はない。でも、そう思った。

 クレアは少しだけ目を伏せた。それから、俺を見る。


「アレン」

「何?」

「あなたが、ヴァイスグラン家で見せたものと同じように、戻せますか」

 その言葉に、アイリスが息を止めた。


「クレア」

 アイリスの声は鋭かった。


 クレアは、アイリスを見た。

「危険なのは分かっています」

「分かってるなら」

「でも、これは私の家が残したものです」


 クレアの声は震えていなかった。

「読まれるべき時に開くために閉じる。父はそう書いていました。なら、読まれるべきものが読めないままなら、私は開いたことになりません」

 アイリスは何も言えなかった。


 俺は、自分の指を見た。

 最近、この指は勝手に色々なものへ届きすぎている。

 紙。記録。名前。父の背中。


 触れば、戻るかもしれない。

 触れば、戻してはいけないものまで戻るかもしれない。


「少しだけなら」

 俺が言うと、アイリスがこちらを見る。


「また、少しだけ?」

「今回は、ちゃんと止まる」

「止まれなかったら?」

「その時は、袖を引いてくれ」


 アイリスは、俺を見たまま黙った。

 それから、小さく息を吐く。


「引く。かなり強く」

「できれば破れない程度で」

「保証はしない」

 それは怖い。でも、少しだけ安心した。


 俺は本に手を伸ばす。

 直接触れる前に、一度止まった。


 クレアが見ている。メル先輩が見ている。

 アイリスが、俺の袖を掴んでいる。


 俺は、ゆっくり指を置いた。


―――


 紙は冷たかった。

 最初に戻ったのは、黒く潰れた行ではなく、余白だった。

 古い筆跡が、薄い水が紙へ戻るように浮かぶ。


 ―エルノート家第三代記録守、補記。


 メル先輩が息を吸う。

「記録守……」


 クレアが小さく呟いた。

「エルノート家の役職でしょうか」


 文字はゆっくりと続く。


 ―白礎王、力ある者に名を授く。

 ―名は、民の恐れを鎮め、力ある者の立つ場所を示す。

 ―されど、名は重し。

 ―名は人を支え、また人を呑む。


 俺は、その言葉を見つめた。

 ―名は人を支え、また人を呑む。

 父の言葉を思い出す。

 ―お前の名前は、離すな。

 紙の文字はさらに戻る。


 ―ゆえに王、名を授けし者の傍らに、名標を置く。

 ―名標は、授けられし名に呑まれぬよう、その者が己が名へ帰る標となるものなり。


「名標……」

 クレアは、その二文字をゆっくり読んだ。


「なしるべ、と読むのでしょうか」

「おそらく」


 メル先輩が答える。

「資料室で見えた字と同じです」


 名標。

 なしるべ。


 資料室で見た文字と同じだった。

 ただ、今度はそれだけではない。その役目らしきものも、紙の上に戻っている。

 アイリスの手に、少しだけ力が入る。

 俺は横を見なかった。見たら、何かを聞いてしまいそうだったから。


 メル先輩が、震える声で言った。

「しるべ、多くは『導』と書きますが、ここではそう書かれていません」

「では、どんな意味なのでしょう?」

 クレアが聞く。


「己が名へ帰る標、とあります」


 己が名へ帰る標。それが、名『標』。

 英雄という名前が大きくなりすぎた時、その前にあった名へ戻るためのもの。少なくとも、この古い記録は、そう読めた。


 さらに別の行が戻る。

 ―名標の一族、古くより標石を持つ。

 ―標石は、道を示す石にあらず。

 ―迷いし者が、己が名へ戻る重さを手に残すものなり。


 標石。しるべいし。

 その字を読んだ瞬間、俺は、無意識に腰の小袋へ手を伸ばしていた。

 迷わない石。

 アイリスが、昔、俺にくれた石。

 森で別れた時。あの、子どもみたいな言い方で。

 迷わないように、と言ったのか、石が迷わないようにと言ったのか、今となっては少し曖昧だけれど。


 俺は、小袋の中の石を指で確かめた。

 やっぱりただの石だ。小さくて、丸くて、少しだけ手に馴染む。

 道を示したことは一度もない。光ったことも、鳴ったこともない。


 ただ、ずっと持っていた。


 まさか、と思う。

 でも最近、まさかと思うことばかり増えている。

 まさかにも少し慣れてきている自分が嫌だった。


「アイリス」

 俺は小さく呼んだ。


「……知らない」

「まだ何も聞いてない」

「先に言っておく」


 アイリスは、本の文字を見ていた。

 顔色が悪いわけではない。けれど、いつものようにすぐごまかす顔でもなかった。


「本当に知らないのか?」

「細かいことは」

 細かいことは。また、その言い方だった。


 俺はそれ以上聞かなかった。

 聞けば、アイリスはたぶん何かを隠す。そして俺は、その隠し方がいつもより下手なことに気づいてしまう。


 今は、まだそれを見たくなかった。


―――


 頁の後半には、別の時代の筆跡が重なっていた。

 最初の文字より新しい。けれど、それでも十分に古い。


 メル先輩が慎重に読む。

 ―英雄庁設置以後、名標役、英雄名授与後の精神安定及び記録照合に協力す。


「名標……また同じ字ですね」

 クレアが言った。


「はい」

 メル先輩は頷く。


「ただ、説明が少し変わっています」

「変わっている?」

「白礎王代の記録では、己が名へ帰る標、とありました。こちらでは、英雄名授与後の精神安定と記録照合への協力になっています」

「……制度の中に入った、ということでしょうか」

「そう読めます。でも、それが良いことだったのか悪いことだったのかは、この行だけでは分かりません」


 分からない。

 その言葉は、少しだけ安心した。

 分からないものを、分からないまま置いてくれる人がいるのは、ありがたい。

 最近、分からないものに無理やり名前をつけられることが多すぎたからかもしれない。


 メル先輩が、さらに下の行を指した。

 ―英雄庁称号管理指針、改定。

 ―名導役、英雄名への適応を補佐するものとす。

 ―称号管理官の指揮下に置く。


「……字が違います。今度は『導』の文字です」

 クレアが言った。


「名標ではなく、名導」

「読みは、同じか?」

「おそらく」


 メル先輩は、古い行と新しい行を見比べた。

「でも、説明も違います」


 余白には、別の筆跡があった。

 ―標は、帰るために立つ。

 ―導は、進ませるために立つ。

 ―同じ読みなれど、役目すでに違う。


 俺は、その一文を何度も読んだ。

 どちらも、同じ、なしるべ。

 でも、同じではないらしい。

 同じ読みなのに、向いている方向が違う。そんなことが、名前にはあるのだろうか。

 いや、あるのかもしれない。

 レクシオンとレクシスを見たばかりの俺には、少しだけ分かってしまうのが嫌だった。


「英雄庁の方針に従って、ということなのでしょうか。どんな意味があるのでしょう」

 クレアがぽつりと言った。


 その問いは、俺たちの誰かに向けたものではなかったのかもしれない。

 メル先輩は、少し考えてから首を横に振った。


「分かりません」

「分からない?」

「はい。必要があって変えたのかもしれません。記録を整えるためだったのかもしれません。英雄を支えるためだったのかも」


 メル先輩は、余白の文字を見た。

「でも、少なくとも、エルノート家の誰かは、その違いを気にしていました」


 クレアは黙った。


 英雄庁

 名標

 名導


 そこに何があったのかは、まだ分からない。

 分からないのに、紙の上では字が変わっている。

 字が変わる。それだけのことなのに、役目の向きまで変わってしまう。

 少し怖いと思った。


 メル先輩が、さらに下の行を読む。

 ―名導役、英雄庁内部機能へ統合。

 ―旧名標関連記録、公開対象外へ移行。


 公開対象外…


 また、便利な言葉だった。

 見なかったことにする。なかったことにする。

 その間に置かれる、綺麗な蓋。


 余白には、震えた筆跡があった。

 ―名を守る役、名へ従わせる役へ移りつつあり。

 ―これを記す。

 ―消えぬために。


 クレアの手が、本の端に触れた。

「これを、父たちは残したかったのですね」

「たぶん」

 俺は言った。


「名標が名導へ変わったことをですかね?」

「それだけではないと思います」


 メル先輩は静かに言った。

「変わったことそのものではなく、変わったことに誰かが気づいていた、という記録です」


 それは、少し難しかった。でも、なんとなく分かる。

 間違いがあった時、間違いそのものも大事だ。

 けれど、誰かが「これは違う」と思ったことも、たぶん同じくらい大事なのだ。


 クレアの父。

 その前のエルノート家の誰か。

 さらに前の誰か。

 彼らはたぶん、このズレを見ていた。見て、残した。

 止められたかどうかは分からない。

 でも、残した。


 それは弱さだろうか。

 それとも、強さだろうか。


 俺にはまだ分からない。


―――


 俺の指が少し熱くなっていた。

 文字は、まだ完全には戻っていない。読めない部分も多い。でも、これ以上は危ない気がした。


 アイリスが袖を引く。

「アレン」

「ああ」

 俺は指を離した。


 文字のいくつかは薄れた。

 けれど、完全には消えなかった。


 名標。

 標石。

 名導。

 公開対象外。


 それらの言葉は、紙の上に残った。


 メル先輩が慎重に息を吐く。

「一部、定着しました」

「定着?」

「戻った文字が、また消えずに残っています。アレンさんの力が、消される前の状態を紙に少し固定したのかもしれません」

「そんなことできるのか?」

「あなたが、しました」

「そうか」


 自分のことなのに、いつも事後報告を受けている気がする。

 できれば本人にも先に知らせてほしい。


 アイリスは何も言わない。

 俺は、小袋の上から迷わない石を握った。

 標石は、道を示すものではない。迷った者が、己が名へ戻る重さを手に残すもの。

 なら、アイリスが俺にくれたあの石は、何だったのだろう。


 ただの石だったのか。

 子どものお守りだったのか。

 それとも、もっと古い何かの残りだったのか。


 俺はアイリスを見る。

 アイリスは、こちらを見ていなかった。

 本の上の「名標」という文字を見つめている。


 その顔は、知っている顔ではなかった。知らなかったはずのものを、どこかで思い出しかけている顔だった。


 地下書庫の空気は冷たい。


 けれど、小袋の中の石だけが、いつもより少し重かった。

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