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世界最強の俺を、幼馴染が全力で落ちこぼれにしてくる件  作者: 浪留
第五章:夏休み

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第三十二話「古い屋敷は、役目を終えてはいなかった。」

 クレアが門を押すと、古い鉄が低く鳴った。重い音だった。けれど、思っていたよりは抵抗が少ない。

 前に見た時のエルノート家の門は、もっと頑固だった気がする。開くこと自体を恥じているみたいで、こちらが押すたびに、嫌そうな音を立てていた。

 今でも古くて傷んでいる。でも、以前より少しだけ素直だった。


「……油が差されています」

 クレアが、門の蝶番に指を触れながら言った。


「誰かが?」

「はい。私ではありません」


 クレアの声は、少しだけ不思議そうだった。

 自分の家のはずなのに、知らない手入れがされている。嬉しいような、申し訳ないような、そんな顔だった。


「町の誰かかもしれないな」

「そう、ですね」

 クレアは小さく頷いた。


 門が開く。

 屋敷の庭は、やはり荒れていた。草は伸び、石畳の隙間には小さな雑草が顔を出している。噴水らしきものは水を失い、縁に薄く苔がついていた。けれど、完全に放置されているわけではなかった。

 玄関へ続く道だけは、草が少し払われていて、窓の一部には、新しい板が打ちつけられていた。古い屋敷はまだ痛んでいる。けれど、「完全に終わった」とは思っていない。

 それが、少しだけ分かった。


 メル先輩は、屋敷の壁と窓の継ぎ目をじっと見ていた。

「古い書庫がある家の匂いがします」

「匂いで分かるんですか?」

「少しだけ」

「すごいですね」

「湿気と紙と、閉じた扉の匂いです」


 それはもう、ほとんど本の精霊の発言ではないだろうか。

 言ったら喜びそうなので、黙っておいた。


 アイリスは、門の外と屋敷を交互に見ていた。

「どうした?」

「ううん。何でもない」

「何でもない顔か?」

「あなたに言われたくない」

 それはそうだった。


 俺たちは玄関の前に立つ。扉には、エルノート家の紋章が薄く刻まれていた。昔はもっとはっきりしていたのだろう。今は年月に削られて、輪郭が少しやわらかくなっている。

 クレアは、その紋章にそっと手を置いた。しばらく、何も言わなかった。

 それから、鍵を取り出す。

 古い鍵だった。黒ずんだ金属に、細かな紋様が彫られている。


「鍵、ずっと持ってたのか」

「はい。学園へ行く時も、預かっていました」

「重そうだな」

「実際、少し重いです」


 クレアは小さく笑った。

「父は、鍵は軽すぎない方がいいと言っていました。軽い鍵は、閉じているものの重さを忘れさせるから、と」


 言ってから、クレアは少しだけ目を伏せた。

「昔は、よく分かりませんでした」


 鍵が回る。

 扉が開いた。


―――


 屋敷の中は、夏の光が斜めに入っていた。

 埃はある。床も鳴る。壁紙はところどころ剥がれている。

 でも、廃墟ではなかった。


 玄関には古い敷物が敷かれ、階段の手すりには布がかけられている。誰かが最近、軽く拭いたのかもしれない。完全に綺麗とは言えないが、人の手が一度通った気配がある。

 前に来た時、この屋敷は壊れかけた剣みたいだった。今は、折れたまま立てかけられた剣に見えた。

 使えないわけではない。ただ、握るには少し勇気がいる。


「お邪魔します」

 アイリスが小さく言った。


「どうぞ」

 クレアは答えてから、少しだけ戸惑った顔をした。


「……自分の家に、人を招くのは久しぶりです」

「緊張してる?」

「礼を欠かないように、と思っています」

「便利だな、その返事」

「はい」

 クレアは真面目に頷いた。


 メル先輩は、玄関に入った瞬間から視線が忙しかった。

 壁や棚、階段から床の継ぎ目。そして天井の梁。

 人の家に入ってすぐそんなに観察するのは、礼を欠いているのではないだろうか。ただ、メル先輩の場合は、相手が人ではなく紙と建物なので、その判断は難しい。


「地下書庫は、玄関の近くではなさそうです」

「分かるんですか?」

「玄関近くにある書庫は、客に見せる書庫です。隠す書庫は、生活の奥か、家の記憶の奥にあります」

「家の記憶の奥」

 俺は繰り返した。


 メル先輩は、こくりと頷く。

「たぶん、書斎か、紋章具室です」


 クレアが少しだけ驚いた顔をした。

「父の書斎は、東側にあります。紋章具室は……地下へ降りる途中にあったはずです」

「行けるのか?」

「はい。ただ、地下の奥は、私はほとんど知りません」


 クレアは、廊下の奥を見た。

「父からは、まだ早いと言われていました」


 まだ早い。

 その言葉は、屋敷の中に置かれると、少し重かった。


―――


 まず、クレアは食堂へ案内してくれた。

 なぜ食堂なのかと思ったが、入ってすぐに分かった。そこには、生活の名残があった。

 長い食卓に、色の薄くなった椅子。壁際の食器棚。

 窓辺には、乾いた花の束が吊るされている。

 貴族の食堂というよりは、家族がかつて食事をした場所だった。


 クレアは、食器棚の横にある小さな引き出しを開けた。

 中には、古い帳面が一冊入っている。


「母の手入れ帳です」

 クレアはそう言った。


「お母さんの?」

「はい。屋敷の管理、食料、薬、地下の湿気、そういうものを書いていました」


 帳面を開くと、細い文字が並んでいた。読みやすい字だった。整っているが、冷たくはない。

 クレアはゆっくりと頁をめくる。

 ―夏季、地下書庫は三日に一度、風を通すこと。

 ―紋章具室は湿気を嫌う。

 ―北窓の戸板、雨前に確認。

 ―クレアの礼服、袖直し。

 ―客間の布、虫干し。


 それは、生活の記録だった。

 英雄名も、王国史も、殉職もない。けれど、こちらの方が人の気配は濃かった。


 メル先輩が、帳面を見つめている。

「良い記録です」

「こういうものも、記録なんですか?」

「はい。人が生きていた証拠です」

 その言葉に、クレアの指が止まった。


 頁の端に、少し擦れた文字があった。

 ―クレアが、ひとりで――

 そこから先は、滲んで読めなかった。


 クレアは、その文字を指で撫でた。何かを思い出そうとしているようにも、思い出すのを怖がっているようにも見えた。


「……母は、こういうことをよく書きました」

「どういうこと?」

「私に直接言えばいいことを、帳面に残すのです」


 クレアは、少しだけ困ったように笑った。

「父も母も、紙を信用しすぎでした」


 それは冗談の形をしていたけれど、冗談だけではなかった。

 俺は何か言おうとして、やめた。

 ―聞けなくなってから残る問いは、紙より重い。

 昨日、クレアが言った言葉を思い出した。

 紙に残るものは、救いになる。でも、紙にしか残らないものは、時々、手に余る。


 メル先輩がそっと帳面を閉じた。

「生活を守る記録です」


 クレアは小さく頷いた。

「はい。母は、家をそういう場所として守っていました」

「お父さんは?」


 俺が聞くと、クレアは廊下の奥を見た。

「父は、別のものを守っていました」


―――


 クレアの父の書斎は、東側の廊下の奥にあった。

 扉の前に立つと、クレアは少しだけ息を整えた。


「入っていいのか?」

「はい」

 そう言いながら、クレアはすぐには扉を開けなかった。


「昔、父に言われました。ここは、家の中で一番静かで、一番うるさい部屋だと」

「うるさい?」

「紙が多いからだそうです」

 それは少し分かる気がした。紙は黙っているようで、時々、うるさい。


 クレアが扉を開ける。

 書斎は、食堂より空気が重かった。

 壁一面の本棚。中央の机。窓際の古い椅子。机の上には、乾いたインク壺と、羽根ペンの残骸が置かれている。

 本棚には、紋章学、王国貴族法、英雄認定制度、契約紋章、記録保存術式に関する本が並んでいた。


 メル先輩の目が、はっきり輝いた。

「……住めます」

「住まないでください」

 クレアが即答した。


「少しだけ」

「少しでもだめです」

 メル先輩は残念そうだった。この人は本棚を見ると他のことを考えなくなるらしい。


 机の上に、一冊の本が置かれていた。他の本より使い込まれている。

 クレアがそれを手に取る。


「父の注釈書です」

「注釈書?」

「英雄認定制度の書式について、父が書き込みをしていたものだと思います」


 頁を開く。

 本文は硬い。英雄名、認定年、功績分類、紋章照合、公開範囲。どの語も、ヴァイスグラン家で見た資料に近かった。

 けれど、余白には別の文字があった。

 ―英雄名は、記録の入口であって、終点ではない。

 俺は、その一文から目を離せなかった。


 英雄名が入口なら、その奥には誰がいるのだろう。


 クレアは、父の文字を見つめていた。

「父の字です」


 その声は、小さかった。

 メル先輩が、身を乗り出す。


「これは、注釈というより、異議に近いです」

「異議?」

「はい。英雄庁の書式に対する異議です。表には出せない種類の」


 クレアの指が、頁の端を握る。

「父は、英雄庁に逆らっていたのでしょうか」

「分かりません」


 メル先輩は正直に言った。

「でも、少なくとも、英雄庁の記録をそのまま信じてはいなかったと思います」


 クレアは黙った。

 父親のことを知る。それは、たぶん優しいだけのことではない。

 父が正しかったと知ることもある。父が何かを隠していたと知ることもある。父が守ったもののせいで、自分が残されたと知ることもあるかもしれない。

 俺は、レクシスの名を思い出した。俺もいつか、父のことをそうやって知るのだろうか。



 アイリスは、書斎の隅に立っていた。棚には近づかず、部屋全体を見ている。


「アイリス?」

「ここ、隠す場所じゃないね」

「え?」

「残す場所」


 アイリスは、自分でも少し驚いたような顔をした。

「たぶん」

「分かるのか?」

「分からない。でも、隠す時の空気とは違う」


 その言葉に、クレアが顔を上げた。

「隠す時の空気、ですか」

「うん」


 アイリスは少しだけ言いにくそうにした。

「見えないようにするのと、消えないようにするのは、似てるけど違うから」


 資料室の「非公開」という文字を思い出した。

 あれは、見えないようにする文字だった。でも、この屋敷の紙は、たぶん違う。

 見えない場所に置いてでも、消えないようにしている。


 そんな気がした。


―――


 地下書庫の入口は、すぐには見つからなかった。

 メル先輩は本棚を見て回り、クレアは父の机の引き出しを調べた。アイリスは壁の紋章を見ている。

 俺は、とりあえず邪魔にならない場所に立っていた。

 こういう時、自分が役に立たないことを認識するのは大事だ。無理に動くと、本棚を倒したり、古い紙に触れてまた何かを戻したりする可能性がある。

 なんだか、可能性が具体的すぎるのが嫌だった。


「アレン」

 アイリスがすぐにこちらを見た。


「何もしてない」

「今、何かしようとしてた顔」

「考えてただけだ」

「それも時々危ない」

 否定しきれないのがまた腹立たしい。


 メル先輩が、本棚の一角で止まった。

「ここです」

「何かありましたか?」

 クレアが近づく。


「本棚に、本を置くためではない隙間があります」


 メル先輩はそう言って、棚の下段を指した。

 確かに、そこだけ奥行きが少し違う。言われなければ気づかないくらいの差だ。


「本棚に詳しい人の発言だ」

「本棚は、時々嘘をつきます」

「そうなんですか?」

「はい。でも、下手です」

 木剣と同じようなことを言う。世の中には案外、嘘が下手なものが多いらしい。


 クレアが、本棚の横にある小さな紋章板を見つけた。

 エルノート家の紋章が刻まれている。


「これ……」


 彼女が手を置く。

 紋章板が、薄く光った。けれど、すぐに消えた。


「開かないのか?」

「反応はしました。でも、足りないようです」

 クレアの声が少し硬くなる。


 もう一度、彼女は手を置いた。

 紋章は光る。しかし、扉は動かない。


 クレアの表情がわずかに曇った。

「私の家なのに」


 その言葉は、とても小さかった。けれど、屋敷の中ではよく聞こえた。

 アイリスが何か言いかけて、やめる。メル先輩も、口を閉じた。

 クレアは、もう一度手を置こうとした。その時、机の上に置かれていた注釈書の頁が、風もないのに少しだけめくれた。

 俺は息を止めた。自分のせいではない。たぶん。いや、今は触っていない。俺の指は潔白だ。


 頁が止まった場所に、クレアの父の文字があった。

 ―記録は、守るためだけに閉じるものではない。読まれるべき時に、開くために閉じるのだ。

 クレアは、その文字を見た。長い間、動かなかった。


 それから、ゆっくりと息を吸う。

「父は、よく分かりにくいことを言う人でした」


 声は静かだった。

「当時の私は、守るなら閉じておけばいいと思っていました。誰にも触らせなければ、失われないと」


 クレアは紋章板に手を置く。

「でも、それでは、誰にも読まれません」


 彼女の背筋が伸びる。

「エルノートの名において、預かった記録を―――」


 クレアは一度だけ息を吸った。

「読みます」


 紋章板が、先ほどより強く光った。


「守るためではなく」

 クレアは、もう一度言った。


「残すために、開きます」


 音がした。古い木が軋む音。歯車のようなものが、壁の奥でゆっくり動く音。

 本棚が、わずかに震える。

 そして、棚の一部が奥へ沈んだ。

 冷たい空気が、隙間から流れてくる。古い紙の匂い。乾いた革の匂い。閉じられていた時間の匂い。


 メル先輩が、小さく息を吸った。

「……あります」


 その声は、祈りに少し似ていた。


 クレアは、開いた入口を見つめていた。

 怖がっているようにも見えた。でも、逃げる顔ではなかった。

 俺は、父の名前を探しに来た。けれど最初に開いたのは、クレアの家が抱えていた沈黙だった。


 地下へ続く階段は、暗かった。

 それでも、そこにある空気はまだ息を残していた。


 地下書庫は、役目を終えてはいなかった。

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