第三十二話「古い屋敷は、役目を終えてはいなかった。」
クレアが門を押すと、古い鉄が低く鳴った。重い音だった。けれど、思っていたよりは抵抗が少ない。
前に見た時のエルノート家の門は、もっと頑固だった気がする。開くこと自体を恥じているみたいで、こちらが押すたびに、嫌そうな音を立てていた。
今でも古くて傷んでいる。でも、以前より少しだけ素直だった。
「……油が差されています」
クレアが、門の蝶番に指を触れながら言った。
「誰かが?」
「はい。私ではありません」
クレアの声は、少しだけ不思議そうだった。
自分の家のはずなのに、知らない手入れがされている。嬉しいような、申し訳ないような、そんな顔だった。
「町の誰かかもしれないな」
「そう、ですね」
クレアは小さく頷いた。
門が開く。
屋敷の庭は、やはり荒れていた。草は伸び、石畳の隙間には小さな雑草が顔を出している。噴水らしきものは水を失い、縁に薄く苔がついていた。けれど、完全に放置されているわけではなかった。
玄関へ続く道だけは、草が少し払われていて、窓の一部には、新しい板が打ちつけられていた。古い屋敷はまだ痛んでいる。けれど、「完全に終わった」とは思っていない。
それが、少しだけ分かった。
メル先輩は、屋敷の壁と窓の継ぎ目をじっと見ていた。
「古い書庫がある家の匂いがします」
「匂いで分かるんですか?」
「少しだけ」
「すごいですね」
「湿気と紙と、閉じた扉の匂いです」
それはもう、ほとんど本の精霊の発言ではないだろうか。
言ったら喜びそうなので、黙っておいた。
アイリスは、門の外と屋敷を交互に見ていた。
「どうした?」
「ううん。何でもない」
「何でもない顔か?」
「あなたに言われたくない」
それはそうだった。
俺たちは玄関の前に立つ。扉には、エルノート家の紋章が薄く刻まれていた。昔はもっとはっきりしていたのだろう。今は年月に削られて、輪郭が少しやわらかくなっている。
クレアは、その紋章にそっと手を置いた。しばらく、何も言わなかった。
それから、鍵を取り出す。
古い鍵だった。黒ずんだ金属に、細かな紋様が彫られている。
「鍵、ずっと持ってたのか」
「はい。学園へ行く時も、預かっていました」
「重そうだな」
「実際、少し重いです」
クレアは小さく笑った。
「父は、鍵は軽すぎない方がいいと言っていました。軽い鍵は、閉じているものの重さを忘れさせるから、と」
言ってから、クレアは少しだけ目を伏せた。
「昔は、よく分かりませんでした」
鍵が回る。
扉が開いた。
―――
屋敷の中は、夏の光が斜めに入っていた。
埃はある。床も鳴る。壁紙はところどころ剥がれている。
でも、廃墟ではなかった。
玄関には古い敷物が敷かれ、階段の手すりには布がかけられている。誰かが最近、軽く拭いたのかもしれない。完全に綺麗とは言えないが、人の手が一度通った気配がある。
前に来た時、この屋敷は壊れかけた剣みたいだった。今は、折れたまま立てかけられた剣に見えた。
使えないわけではない。ただ、握るには少し勇気がいる。
「お邪魔します」
アイリスが小さく言った。
「どうぞ」
クレアは答えてから、少しだけ戸惑った顔をした。
「……自分の家に、人を招くのは久しぶりです」
「緊張してる?」
「礼を欠かないように、と思っています」
「便利だな、その返事」
「はい」
クレアは真面目に頷いた。
メル先輩は、玄関に入った瞬間から視線が忙しかった。
壁や棚、階段から床の継ぎ目。そして天井の梁。
人の家に入ってすぐそんなに観察するのは、礼を欠いているのではないだろうか。ただ、メル先輩の場合は、相手が人ではなく紙と建物なので、その判断は難しい。
「地下書庫は、玄関の近くではなさそうです」
「分かるんですか?」
「玄関近くにある書庫は、客に見せる書庫です。隠す書庫は、生活の奥か、家の記憶の奥にあります」
「家の記憶の奥」
俺は繰り返した。
メル先輩は、こくりと頷く。
「たぶん、書斎か、紋章具室です」
クレアが少しだけ驚いた顔をした。
「父の書斎は、東側にあります。紋章具室は……地下へ降りる途中にあったはずです」
「行けるのか?」
「はい。ただ、地下の奥は、私はほとんど知りません」
クレアは、廊下の奥を見た。
「父からは、まだ早いと言われていました」
まだ早い。
その言葉は、屋敷の中に置かれると、少し重かった。
―――
まず、クレアは食堂へ案内してくれた。
なぜ食堂なのかと思ったが、入ってすぐに分かった。そこには、生活の名残があった。
長い食卓に、色の薄くなった椅子。壁際の食器棚。
窓辺には、乾いた花の束が吊るされている。
貴族の食堂というよりは、家族がかつて食事をした場所だった。
クレアは、食器棚の横にある小さな引き出しを開けた。
中には、古い帳面が一冊入っている。
「母の手入れ帳です」
クレアはそう言った。
「お母さんの?」
「はい。屋敷の管理、食料、薬、地下の湿気、そういうものを書いていました」
帳面を開くと、細い文字が並んでいた。読みやすい字だった。整っているが、冷たくはない。
クレアはゆっくりと頁をめくる。
―夏季、地下書庫は三日に一度、風を通すこと。
―紋章具室は湿気を嫌う。
―北窓の戸板、雨前に確認。
―クレアの礼服、袖直し。
―客間の布、虫干し。
それは、生活の記録だった。
英雄名も、王国史も、殉職もない。けれど、こちらの方が人の気配は濃かった。
メル先輩が、帳面を見つめている。
「良い記録です」
「こういうものも、記録なんですか?」
「はい。人が生きていた証拠です」
その言葉に、クレアの指が止まった。
頁の端に、少し擦れた文字があった。
―クレアが、ひとりで――
そこから先は、滲んで読めなかった。
クレアは、その文字を指で撫でた。何かを思い出そうとしているようにも、思い出すのを怖がっているようにも見えた。
「……母は、こういうことをよく書きました」
「どういうこと?」
「私に直接言えばいいことを、帳面に残すのです」
クレアは、少しだけ困ったように笑った。
「父も母も、紙を信用しすぎでした」
それは冗談の形をしていたけれど、冗談だけではなかった。
俺は何か言おうとして、やめた。
―聞けなくなってから残る問いは、紙より重い。
昨日、クレアが言った言葉を思い出した。
紙に残るものは、救いになる。でも、紙にしか残らないものは、時々、手に余る。
メル先輩がそっと帳面を閉じた。
「生活を守る記録です」
クレアは小さく頷いた。
「はい。母は、家をそういう場所として守っていました」
「お父さんは?」
俺が聞くと、クレアは廊下の奥を見た。
「父は、別のものを守っていました」
―――
クレアの父の書斎は、東側の廊下の奥にあった。
扉の前に立つと、クレアは少しだけ息を整えた。
「入っていいのか?」
「はい」
そう言いながら、クレアはすぐには扉を開けなかった。
「昔、父に言われました。ここは、家の中で一番静かで、一番うるさい部屋だと」
「うるさい?」
「紙が多いからだそうです」
それは少し分かる気がした。紙は黙っているようで、時々、うるさい。
クレアが扉を開ける。
書斎は、食堂より空気が重かった。
壁一面の本棚。中央の机。窓際の古い椅子。机の上には、乾いたインク壺と、羽根ペンの残骸が置かれている。
本棚には、紋章学、王国貴族法、英雄認定制度、契約紋章、記録保存術式に関する本が並んでいた。
メル先輩の目が、はっきり輝いた。
「……住めます」
「住まないでください」
クレアが即答した。
「少しだけ」
「少しでもだめです」
メル先輩は残念そうだった。この人は本棚を見ると他のことを考えなくなるらしい。
机の上に、一冊の本が置かれていた。他の本より使い込まれている。
クレアがそれを手に取る。
「父の注釈書です」
「注釈書?」
「英雄認定制度の書式について、父が書き込みをしていたものだと思います」
頁を開く。
本文は硬い。英雄名、認定年、功績分類、紋章照合、公開範囲。どの語も、ヴァイスグラン家で見た資料に近かった。
けれど、余白には別の文字があった。
―英雄名は、記録の入口であって、終点ではない。
俺は、その一文から目を離せなかった。
英雄名が入口なら、その奥には誰がいるのだろう。
クレアは、父の文字を見つめていた。
「父の字です」
その声は、小さかった。
メル先輩が、身を乗り出す。
「これは、注釈というより、異議に近いです」
「異議?」
「はい。英雄庁の書式に対する異議です。表には出せない種類の」
クレアの指が、頁の端を握る。
「父は、英雄庁に逆らっていたのでしょうか」
「分かりません」
メル先輩は正直に言った。
「でも、少なくとも、英雄庁の記録をそのまま信じてはいなかったと思います」
クレアは黙った。
父親のことを知る。それは、たぶん優しいだけのことではない。
父が正しかったと知ることもある。父が何かを隠していたと知ることもある。父が守ったもののせいで、自分が残されたと知ることもあるかもしれない。
俺は、レクシスの名を思い出した。俺もいつか、父のことをそうやって知るのだろうか。
アイリスは、書斎の隅に立っていた。棚には近づかず、部屋全体を見ている。
「アイリス?」
「ここ、隠す場所じゃないね」
「え?」
「残す場所」
アイリスは、自分でも少し驚いたような顔をした。
「たぶん」
「分かるのか?」
「分からない。でも、隠す時の空気とは違う」
その言葉に、クレアが顔を上げた。
「隠す時の空気、ですか」
「うん」
アイリスは少しだけ言いにくそうにした。
「見えないようにするのと、消えないようにするのは、似てるけど違うから」
資料室の「非公開」という文字を思い出した。
あれは、見えないようにする文字だった。でも、この屋敷の紙は、たぶん違う。
見えない場所に置いてでも、消えないようにしている。
そんな気がした。
―――
地下書庫の入口は、すぐには見つからなかった。
メル先輩は本棚を見て回り、クレアは父の机の引き出しを調べた。アイリスは壁の紋章を見ている。
俺は、とりあえず邪魔にならない場所に立っていた。
こういう時、自分が役に立たないことを認識するのは大事だ。無理に動くと、本棚を倒したり、古い紙に触れてまた何かを戻したりする可能性がある。
なんだか、可能性が具体的すぎるのが嫌だった。
「アレン」
アイリスがすぐにこちらを見た。
「何もしてない」
「今、何かしようとしてた顔」
「考えてただけだ」
「それも時々危ない」
否定しきれないのがまた腹立たしい。
メル先輩が、本棚の一角で止まった。
「ここです」
「何かありましたか?」
クレアが近づく。
「本棚に、本を置くためではない隙間があります」
メル先輩はそう言って、棚の下段を指した。
確かに、そこだけ奥行きが少し違う。言われなければ気づかないくらいの差だ。
「本棚に詳しい人の発言だ」
「本棚は、時々嘘をつきます」
「そうなんですか?」
「はい。でも、下手です」
木剣と同じようなことを言う。世の中には案外、嘘が下手なものが多いらしい。
クレアが、本棚の横にある小さな紋章板を見つけた。
エルノート家の紋章が刻まれている。
「これ……」
彼女が手を置く。
紋章板が、薄く光った。けれど、すぐに消えた。
「開かないのか?」
「反応はしました。でも、足りないようです」
クレアの声が少し硬くなる。
もう一度、彼女は手を置いた。
紋章は光る。しかし、扉は動かない。
クレアの表情がわずかに曇った。
「私の家なのに」
その言葉は、とても小さかった。けれど、屋敷の中ではよく聞こえた。
アイリスが何か言いかけて、やめる。メル先輩も、口を閉じた。
クレアは、もう一度手を置こうとした。その時、机の上に置かれていた注釈書の頁が、風もないのに少しだけめくれた。
俺は息を止めた。自分のせいではない。たぶん。いや、今は触っていない。俺の指は潔白だ。
頁が止まった場所に、クレアの父の文字があった。
―記録は、守るためだけに閉じるものではない。読まれるべき時に、開くために閉じるのだ。
クレアは、その文字を見た。長い間、動かなかった。
それから、ゆっくりと息を吸う。
「父は、よく分かりにくいことを言う人でした」
声は静かだった。
「当時の私は、守るなら閉じておけばいいと思っていました。誰にも触らせなければ、失われないと」
クレアは紋章板に手を置く。
「でも、それでは、誰にも読まれません」
彼女の背筋が伸びる。
「エルノートの名において、預かった記録を―――」
クレアは一度だけ息を吸った。
「読みます」
紋章板が、先ほどより強く光った。
「守るためではなく」
クレアは、もう一度言った。
「残すために、開きます」
音がした。古い木が軋む音。歯車のようなものが、壁の奥でゆっくり動く音。
本棚が、わずかに震える。
そして、棚の一部が奥へ沈んだ。
冷たい空気が、隙間から流れてくる。古い紙の匂い。乾いた革の匂い。閉じられていた時間の匂い。
メル先輩が、小さく息を吸った。
「……あります」
その声は、祈りに少し似ていた。
クレアは、開いた入口を見つめていた。
怖がっているようにも見えた。でも、逃げる顔ではなかった。
俺は、父の名前を探しに来た。けれど最初に開いたのは、クレアの家が抱えていた沈黙だった。
地下へ続く階段は、暗かった。
それでも、そこにある空気はまだ息を残していた。
地下書庫は、役目を終えてはいなかった。




