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世界最強の俺を、幼馴染が全力で落ちこぼれにしてくる件  作者: 浪留
第五章:夏休み

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第三十四話「そういえば、紙は普通戻らない。」

 戻った文字たちは、紙の上に残っていた。

 完全に戻ったわけではない。読めない箇所はまだ多く、黒く潰れた行も、削られた跡も、そのまま残っている。けれど、さっきまでなかった言葉が、今は確かにそこにある。


 メル先輩は、それを食い入るように見ていた。

 たぶん本当は、この場で紙に頬を寄せたいくらいなのだろう。やらないのは、クレアの家の記録だからだと思う。たぶん。


「今日は、ここまでにしましょう」

 クレアが言った。


 その声は、思ったより落ち着いていた。

 でも、指先はまだ本の端に触れている。


「いいのか?」

「はい」

 クレアはゆっくり頷いた。


「読めるものが増えたからこそ、読み急ぐべきではありません。今の私たちは、まだ何を読んだのかを整理できていません」

「真面目だな」

「記録の前では、真面目でいた方が安全です」


 それは、たぶん正しい。

 俺はさっき、紙を戻したばかりだ。記録の前で不真面目にしたら、何が起きるか分からない。

 いや、真面目にしていても起きたのだけれど。


 メル先輩は、本を閉じる前に、戻った文字を小さな紙に写していた。

 手が速い。なのに字は崩れない。こういうところを見ると、メル先輩は本当にすごい人なのだと思う。

 普段、棚の前で住もうとする人だという一点を除けば。


「メル先輩、全部写せましたか?」

「全部ではありません。読めたものだけです」

「それでも十分じゃないか?」

「十分ではありません。ですが、今日は十分にしておきます」


 メル先輩は名残惜しそうに本を見た。

「本は、読まれる時を選びます」

「本が?」

「はい。少なくとも、読めない時に無理やり読まれるのは嫌います」


 そういうものなのか。

 俺には分からないが、今日の地下書庫にいると、少しだけ信じそうになる。


 クレアが『王国名録補遺』を閉じようとした時、メル先輩の視線が別の棚へ動いた。


「……すみません」

「どうしました?」

「もう一つだけ、確認してもいいですか」


 クレアは少し迷った。

 アイリスは、俺の袖を掴む手に力を込めた。


「触らない」

「まだ何も言ってない」

「先に言っておく」


 さっきのアイリスの返しが移ってしまった。

 これはあまりよくない。人は一緒にいると似るらしい。


 メル先輩は、棚の下段にある細い引き出しを指した。


「索引です」

「索引?」

「この書庫に何があるかを示すものです。中身は読まなくても、記録の存在だけは確認できます」


 クレアは頷いた。

「それなら」


 メル先輩は慎重に引き出しを開けた。

 中には、細長い札が何枚も並んでいた。革紐でまとめられたものもあれば、木片に文字を焼きつけたものもある。古いのに、意外と整っていた。


 メル先輩の指が、いくつかの札をたどる。


 名標関連―

 名授け制度補遺―

 英雄認定前照合控―

 黒門残滓戦役記録―


 その中で、彼女の指が止まった。


「……ありました」

 声が少し低くなる。


「何が?」

 俺が聞くと、メル先輩は札をそっと抜いた。


 英雄レクシオン功績補遺―

 黒門残滓討滅戦記録抜粋―

 認定前照合控、別箱―


 レクシオン。

 その名を見た瞬間、地下書庫の空気がまた少し冷たくなった気がした。


 白冠杯の記録板で見た名前。ヴァイスグラン家の資料で見た名前。

 その下に、レクシスという名が眠っていた名前。


 俺は、まだそれを父の名だと決めつけているわけではない。

 それなのに、心は勝手にそちらへ傾いていく。


「中身は見ない方がいいんじゃない?」

 アイリスが言った。


 メル先輩は頷く。

「本体は、今日は見ません。ですが、抜粋の一部だけなら、この索引に短い説明があります」


 クレアは俺を見る。

「読むだけにしましょう。復元はしません」

「分かった」


 俺は両手を少し上げた。

「触らない」

「本当に?」

「本当に」


 アイリスが疑わしそうにこちらを見る。

 信用がない。いや、最近の俺は信用される材料を自分で燃やしている気もする。燃やしたつもりはないのに燃えている。困る。


 メル先輩は札の裏側を読んだ。

「英雄レクシオン。黒門残滓討滅戦において、複数の黒門性反応を鎮静。主たる発露は剣戟を介す。術式反応、明瞭ならず。魔力分類、既存分類に収まらず」


 ―魔力分類、既存分類に収まらず。

 その言葉に、俺は少しだけ引っかかった。


 入学試験の水晶。

 触る前に黒く反応して、ひびが入った。


 ―魔力量微弱。

 ―術式反応不明瞭。

 ―総合判定、要観察。


 あの時の紙は、俺を落ちこぼれにするのがずいぶん上手かった。

 いや、正確には、上手かったのは紙ではなく、それを書く人たちだったのかもしれない。


 メル先輩は続ける。

「黒門性を帯びた獣型残滓、剣撃後に活動停止。対象は崩壊せず、現世定着を失う。残留反応、過去化傾向」


 ―獣型残滓。

 ―現世定着を失う。

 ―過去化傾向。


 その三つの言葉が、妙に胸に引っかかった。


 森の奥で、黒い獣がアイリスへ爪を伸ばした夜。俺は、あれを倒したのだろうか。

 倒した、という言葉は、どうにも合わない。

 斬ってもいなければ、燃やしてもいない。

 術式で封じたわけでもない。


 ただ、そこにいてはいけないものが、そこから外れた。

 そんな感じだった。


 隣で、アイリスが小さく息を吐く。

「……あの時の、覚えてる?」

 アイリスは札を見たまま聞く。


「忘れるわけない」


 忘れるわけがなかった。あの夜から、俺たちは共犯者になったのだ。

 そして俺は、救ったはずの出来事を、自分の名前で語れないままここまで来た。


「レクシオンの記録では、剣がある」

 俺は小さく言った。


「黒門紀の残り物を、剣で鎮めたって書かれてる」

「うん」

 アイリスは短く答える。


「でも、あの時の俺には剣なんてなかった」


 あったのは、アイリスに触るな、という気持ちだけだ。

 それでも、黒い獣は消えた。


 似ている。似ているのに、同じとは言えない。

 その曖昧さが、妙に気味悪かった。


 メル先輩は札を見つめたまま言う。

「レクシオンの力は、少なくともこの記録では、黒門残滓を鎮静させるものとして扱われています」

「鎮静」

「はい。討滅ともありますが、壊した、というより活動を終えさせた記述です」

「終えさせた」


 その言葉も、胸に引っかかった。


 クレアが静かに言った。

「ただし、この札だけで判断はできません」

「分かってる」

「認定前照合控が別箱にあるなら、詳細はそちらでしょう。ですが、今日は読みません」

「読むために止める、か」

「はい」


 クレアは頷いた。

「読むために、今日は止めます」


 その判断は、きっと正しい。

 けれど、札の文字はもう俺の中に残ってしまった。


 レクシオンの力。


 名標の記録は、アイリスの沈黙に引っかかった。

 レクシオンの記録は、俺の手に引っかかった。


―――


 俺たちは、地下書庫を出た。

 扉を閉める時、クレアは長く息を吐いた。

 まるで、誰かに「また来ます」と言っているようだった。


 階段を上がる。

 父の書斎を通る。

 廊下を抜ける。

 玄関の扉を開ける。


 外の光は、思っていたより強かった。

 地下にいた時間は長くなかったはずなのに、夏の匂いが少し懐かしく感じた。庭の草が風に揺れ、遠くで町の子どもの声が聞こえる。


 屋敷は、外から見ればまだ古い。壁は傷み、窓枠は歪み、庭は整っていない。

 けれど、もう同じ屋敷には見えなかった。


 ここには、地下書庫がある。誰かが消えぬために残した文字がある。クレアの父の注釈があり、母の手入れ帳があり、まだ読まれていない箱がある。

 過去というものは、背中の後ろにあるだけではないらしい。

 時々、足元にもある。


「……ところで、アレン」

 屋敷の門を出たところで、クレアが立ち止まった。


「何?」

「今さらですが」

「今さら?」

「あなたは先ほど、紙の記録を戻しましたね」

「あ…、うん。……戻した、らしい」

「らしい、で済ませてよいことではないと思います」


 確かに、記録に夢中で気付いていなかった。

 俺はアイリス以外に力を見られたのだ。


 メル先輩が、胸に抱えた写しを見ながら言う。

「修復ではありませんでした。保存術式でもありません」

「…やっぱり?」

「はい。紙が、消される前の自分を思い出したように見えました」

「紙が、自分を?」

「そう表現するしかありません」


 メル先輩は少しだけ目を伏せた。

「それと、さきほどのレクシオンの記録も、少しだけ気になります」

「レクシオンの?」

「はい。現世定着を失う。過去化傾向。活動を終えさせる。……壊す、燃やす、封じるとは少し違う言葉です」


 メル先輩は、俺の手を見た。

「アレンさんが紙に起こしたことも、直したというより、消される前の状態へ紙が近づいたように見えました」

「つまり、同じ力ってことか?」

「いいえ」


 メル先輩は、すぐに首を振った。

「同じとは言えません。レクシオンの記録は、黒門残滓を終わらせるものです。アレンさんの力は、紙や建物にも作用しています。範囲が違います」

「じゃあ、似てるだけ?」

「似ているかもしれない、という段階です」


 似ているかもしれない。

 最近、そういうものばかり増える。

 アレクシスとレクシス。迷わない石と標石。レクシオンの力と、俺の力。


 全部、同じだと決めるには早い。

 でも、別物だと忘れるには近すぎる。


「危ない、ということですか?」

 アイリスが、少し平らな声で聞いた。


 俺は彼女を見る。

 アイリスは、クレアでもメル先輩でもなく、俺の方を見ないようにしていた。


 クレアは首を横に振る。

「危ないと決めつけるつもりはありません。ただ、分からないものを、分からないまま便利に使うのはよくないと思います」

「……それは、そうですね」

 アイリスは、少しだけほっとしたように見えた。


 そして、すぐにいつもの顔を作る。

「でも、ほら。古い記録庫ですし、保存術式も残っていましたし、エルノート家の紋章も反応していましたし。アレンだけの力とは限りません」

「今、俺を庇った?」

「違う。事実を多角的に見てるだけ」

「言い方が急に難しくなった」

「うるさい」


 アイリスは、俺の袖を軽くつまんだまま、小さな声で付け足した。

「……危ない力みたいに見られたくないの」

「誰の力が?」

「あなたのに決まってるでしょ」

「心配してくれてるのか?」

「見張る側の立場を守ってるだけ」

「やっぱり見張りなんだな」

「…うるさい」

 小声の「うるさい」は、さっきより少し弱かった。


 クレアが、少し考えてから言う。

「一旦、色々置いておきましょう。記録のことも、アレンの力もことも。そして、次に地下書庫を読む時は、決めてからにしましょう」

「何を?」

「何を知りたいのかです。アレンの力を借りるなら、なおさら。目的もなく触れるのではなく、読むべき場所を定めてからにした方がいいと思います」

「止めるためじゃなくて?」

「止めるためではありません」


 クレアは静かに首を横に振った。

「読むためです。読んでよい形で読むために、準備をします」


 読むための準備。

 その言葉は、少しだけ優しかった。


 俺の力を危険なものとして遠ざけるのではない。

 かといって、便利なものとして使うのでもない。


 何なのか分からないから、時間をおいて、雑に扱わない。

 たぶん、それが一番正しい。


 俺は今まで、自分の力を雑に扱っていたのかもしれない。

 いや、扱うというより、起きたことを起きたこととして流していた。

 力は勝手に出るものだった。ふとした時に漏れるものだった。見つかったら面倒だから隠されるものだった。測られれば、測定不能になるものだった。

 でも、今日、俺の力は紙を戻した。誰かが消した文字を、紙の上へ戻した。

 そしてそれは、レクシオンの記録に、少しだけ似たものだった。


 俺の力は全部、別々の変な出来事だと思っていた。

 でも、もしかすると、それは一つの分からないものが、違う顔で出ているだけなのかもしれない。


「俺は、戻そうと思ったわけじゃない」

 俺は言った。


「じゃあ、何を思ったのですか?」

 クレアが聞く。


「読めたらいい、とは思った」

「それで紙が戻ったのですか」

「俺が聞きたい」

 少しだけ、空気が緩んだ。


 アイリスが、小さくため息をつく。

「本当に、あなたは」

「何だよ」

「見張る側の身にもなって」

「なってるつもりだけど」

「足りない」

「厳しい」

「当然」


 そのやり取りは、クレア達には聞こえていない。

 俺たちだけの会話だった。


 軽く扱える話ではない。


 俺は小袋の中の迷わない石に触れた。

 いつものように、石は何も教えてくれない。標石なのか、ただの石なのかも分からない。

 けれど、手の中にある重さだけは確かだった。


「父さんのことを知りたい」

 俺は、ゆっくり言った。アイリスがこちらを見る。


「レクシオンのことも。レクシスのことも。あれが父さんと関係あるのか、ないのかも」

 言葉にすると、少し胸が苦しかった。でも、言わないままにはできなかった。


「でも、その前に」

 俺は自分の手を見る。


「俺は、自分の力を知らなきゃいけない気がする」


 紙を戻す手。寮を直す手。

 魔物を、そこから外してしまったかもしれない手。

 知らないまま、誰かに説明されるのを待っていたら、たぶんまた別の名前がつく。


 落ちこぼれ

 要観察

 異常

 英雄


 どれも、俺が選んだ名前ではない。


 父は言った。

 ―測られたものを、全部だと思うな。

 今なら、その言葉の続きが少しだけ分かる気がする。

 測られないからといって、知らなくていいわけではない。


「アレン」

 アイリスの声は静かだった。


「うん」

「知るなら、勝手に一人で行かないで」

「行かない」

 そう答えてから、俺は少しだけ胸の奥で引っかかった。


 なぜか、その言葉が未来のどこかで破れる気がした。

 根拠はない。

 ただ、石が少し重かった。


「今は」

 俺は言い直した。


「今は、行かない」


 アイリスは目を細めた。

「そこ、言い直す必要あった?」

「嘘をつくよりは」

「正直すぎるのも困る」

「難しいな」

「あなたがね」


 クレアは、屋敷を振り返った。

「次に読むべきものは、おそらくレクシオン関係の記録です」

「認定前照合控、別箱」


 メル先輩が補足する。

「でも、それを読む前に、私たちも準備が必要です。記録を読む準備と、アレンさんの力をどう扱うかを決める準備です」

「俺の力、扱う前提なのか」

「扱わない選択も含めて、決めるべきです」



 屋敷の門の向こうで、折れた木剣が小さな屋根の下に置かれている。

 クレアが立った証。町が覚えている証。


 俺には、まだそういう証が少ない。いや、あるのかもしれない。

 ただ、よく隠されているだけで。


 それを怒るには、アイリスの横顔は少し苦しそうだった。

 だから俺は、今は何も言わなかった。


 レクシオンの記録には、黒門紀の残り物を過去へ沈めたような言葉があった。

 俺の手は、紙を消される前へ戻した。森の奥で、魔物をそこから外した。

 似ている。

 でも、やっぱり、言えない。


 なら、俺の力は何なのだろう。

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