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世界最強の俺を、幼馴染が全力で落ちこぼれにしてくる件  作者: 浪留
幕間:三

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32/40

第二十六,五話「父は、我が子のいない道を歩いた。」

 あの子がいない道は、速かった。


 夜明け前に宿を出る。朝食を待つ必要はない。靴紐を結び直す小さな背中もない。川辺で妙な形の石を拾う少年を呼び戻す必要もなければ、焚き火の前で昔話の続きをせがまれることもない。荷は軽く、歩幅は戻った。休む理由は、ずいぶん少なくなった。

 人は一人になると、これほど無駄なく進めるものだったのかと、私は思う。そして、すぐにその考えを打ち消した。


 無駄ではなかった。

 子どもと歩く道は、確かに進みこそ遅いが、そこには、見落とさずに済むものがある。道端の草の匂いや、石の形。知らない町のパン屋から漂う朝の煙。そして、夜の森で、子どもが眠りに落ちる直前にこぼす、意味のない問い。

 そういうものは、速く歩けば簡単に置き去りにできる。しかし、置き去りにできてしまうからこそ、私はずっと、あの子の歩幅に合わせていたのだと、今さらのように思った。


 だが、今は一人だった。だから、速く歩く。


………


 あの門を越えた我が子は、今頃、何かに測られているのだろう。水晶に、答案用紙に、木剣に、あるいは人の目に。

 もちろん、傷つく事だろう。怒る事だろう。納得できない事もあるだろう。

 それでも、私は戻らない。


 戻れば、あの子はまた私の背中の後ろに戻る。

 父親の後ろというのは、安全すぎる。そして、安全な場所は、時に、自分の足の長さを分からなくさせる。


―――


 私は、北へ向かった。次に西へ折れた。その後、古い街道を外れ、人が使わなくなった山道へ入った。

 そこには、地図に載らない仕事が残っていた。


 ―黒門紀の残り物


 王国史では、黒門紀は過ぎ去った時代として語られる。白礎の王アルヴィオンが立ち、黒門災厄を越え、王国は形を得た。人々はそう覚えている。教科書はそこで線を引く。祭りの旗はそこで物語を閉じる。

 だが、時代というものは、紙の上ほど綺麗には終わらない。終わったはずの夜は、井戸の底に沈んでいる。封じたはずの声は、山の洞に残っている。倒されたはずの獣は、骨になり損ねて、土の下で息を潜めている。…世界は、思っているよりもしつこい。



 最初の村では、井戸が夜だけ黒くなった。

 昼の水は澄んでいる。汲めば冷たく、飲めば喉を潤す。けれど夜になると、井戸の底だけが墨を落としたように暗くなり、そこから名前を呼ぶ声がした。

 名を呼ばれた者は夢を見る。夢の中で、自分の名前を井戸の底へ落とす。翌朝には、その者だけが、自分の名前を少し言いづらそうにする。

 これはまだ、災害ではなかった。しかし、その名前が徐々につきかけていた。


 私は夜を待ち、井戸の底へ降りた。

 水は透き通るように冷たかった。底には、小さな黒い欠片が沈んでいた。石ではない。骨でもない。かつて黒門の向こうからこぼれ、誰にも見つからないまま、村の水をゆっくり覚えようとしていたもの。


 私はその名を呼ばなかった。

 名を呼べば、残り物は形を強くする。災害は名を与えられた瞬間、自分が何であるかを思い出す。思い出せば、暴れる。暴れれば、人はそれを恐れ、恐れにはまた名前がつく。

 だから、名を呼ばない。語らないし、飾らない。

 ただ―閉じる。


 私が指を沈めると、黒い水は一度だけ震えた。それから、井戸の底はただの暗さに戻った。

 翌朝、村人たちは「水が澄んだ」とだけ言った。

 私は頷き、その日のうちに村を出る。


 拍手はない。感謝もない。もちろん、記録もない。

 だが、それでいい。



 次の古戦場では、夜ごと足音だけが歩いていた。

 草の上を、見えない軍勢が進む。鎧の音はない。声もない。ただ、ざっ、ざっ、と足音だけが夜を横切る。近くの村の者は、あれを「帰れない兵士」と呼んでいた。

 兵士ではない。兵士だった形だけが、まだ帰れずに行軍している。


 黒門紀の末期、そこでは多くの名が失われた。

 名簿は焼け、墓標は崩れ、誰がどこで倒れたのかも分からなくなった。残ったのは、帰る場所を探す足音だけだった。


 私は、折れた旗の下で剣を抜いた。斬るためではない。止まる場所を教えるために。

 剣先が地面に触れる。足音が、一つ、また一つと止まっていく。誰もいない草原で、私はしばらく立っていた。夜明け前に、最後の足音が消えた。

 そこに兵士の名前は戻らない。墓が立つわけでもない。王国史に一行が足されることもない。それでも、足音は止まった。

 私は剣を収めた。



 北の湖では、氷の下で鐘が鳴っていた。

 季節はまだ夏に近かった。それなのに、その湖だけは凍っていた。薄い氷ではない。冬を何年も閉じ込めたような、青黒く厚い氷だった。

 鐘の音を聞いた者は眠る。それも、目覚めることを忘れるほど深く。


 村の老人は「あの鐘は、眠れない死者のために鳴っているのだ」と言った。私はそれを否定しなかった。

 眠れない者のための鐘なら、残してもよかったのかもしれないが、それはもう人の眠りではなかった。生きている者の朝まで奪い始めた時点で、それは祈りではなくなる。


 私は湖面に立った。氷の下で、黒い鐘がゆっくり揺れている。

 剣を抜く―氷へ差す。

 鐘は一度だけ、大きく鳴った。音は湖の底から空へ抜け、山の尾根を震わせた。眠っていた鳥が飛び立つ。足元の氷に、蜘蛛の巣のような亀裂が走る。それでも、私は剣を引かなかった。


 鐘の音が、細くなり、やがて、消える。

 湖の氷が音もなくほどけ、水面に朝の光が落ちた。私は水面に映る自分の顔を見た。知らない老人に見えた。

 いや、老人というほどではない。けれど、若くもない。


 あの子が生まれた時、私は三十五だった。

 そして今、あの子は十五になった。


 ―五十年。


 年月は、剣の刃には残らない。だが、手には残る。

 私は濡れた手を握り、湖を離れた。



 その後も、旅は続いた。


 山道では、黒い骨が眠っていた。獣になり損ねた災害だった。名を持つ前に封じられ、誰にも語られないまま地面の下で腐らずに残っていたもの。私はそれを、動き出す前に終わらせた。


 海辺の洞では、人の声を真似る風が吹いていた。それは旅人の母の声で呼び、子どもの声で泣き、恋人の声で待っていると言った。

 私は耳を貸さなかった。声は、聞く者がいて初めて声になる。誰にも届かなければ、ただの震えだ。

 洞の奥に残っていた黒い裂け目を塞ぐと、それは普通の潮の匂いに戻った。


 廃村では、誰もいない家々の窓に灯りがともっていた。黒門紀に焼けた村だった。そこに住んでいたはずの生活だけが、まだ夜ごと戻ってきていた。

 私は一軒ずつ灯りを消した。最後の家の灯りを消す時、幼い笑い声が聞こえた気がした。…振り返らなかった。振り返れば、名をつけてしまう。名をつければ、終われなくなる。


 災害が名前を持てば―英雄も名前を求められる。

 危機が大きくなれば―それを救う者の物語が必要になる。

 物語が必要になれば―誰かがその中へ押し込められる。


 だから、災害が名乗る前に終わらせる。英雄を作らせないために。もう誰も、英雄にされなくていいように。


―――


 私は歩いた。あの子のいない道を、速く。速く歩きながら、古い闇を一つずつ閉じていった。

 あの子をあの場所へ置いてから、いくつもの夜が過ぎた。それから閉じた残り物は、片手では数えられなくなっていた。それでも、地図の印は減らない。減るどころか、眠りの浅いものが増えている。



 最初の報せが届いたのは、夏の匂いが道に混じり始めた頃だった。

 夜明け前の街道に、黒い外套の配達人が立っていた。急いでいるが、騒がしくはない。暗い道に慣れた者の立ち方だった。言葉はなかった。

 配達人は、細く折られた紙片を差し出した。私は受け取る。封はない。宛名もない。ただ、紙の端に、王立エリュシオン学園で使われる小さな印が押されていた。学園長からだった。

 私はその場で紙を開いた。文字は少なかった。少なすぎるほどだった。


 アレン・ノーツ

 第百四十六回白冠杯―剣術部門―三回戦敗退

 備考―剣として記録。


 私は、その数行をしばらく見ていた。

 街道の土。朝の薄い光。遠くから近づいてくる夏の匂い。その中で、あの場所の記録だけが、妙に遠く、妙に近かった。


「負けたか」


 声は、思ったより穏やかだった。

 勝てなかった。届かなかった。悔しがっているだろう。怒っているかもしれない。あるいは、何も言えずに記録板を見ているかもしれない。

 だが、私は知っている。勝つよりも、大事な負け方がある。負けたことでしか、自分の足元を知れない時がある。

 あの子はたぶん、自分の名前で負けたのだ。


 私は小さく息を吐いた。

 いや、笑ったのかもしれない。自分ではよく分からなかった。


「よくやった」

 誰にも聞こえない声だった。


 戻って守ることはできる。あの子が傷つく前に、悔しがる前に、力を隠されて苦しむ前に、私が前へ出ることはできる。だが、それではまた、あの子は私の背中の後ろに戻る。

 父親の後ろというのは、安全だ。安全すぎる。安全な場所は、時に、自分の足の長さを分からなくさせる。


 あの子は、もう門を越えた。あの場所で測られ、傷つき、負け、それでも、自分の名前を手放さずに立とうとしている。ならば、私がすべきことは一つだった。

 あの子が自分の名前で立つ日まで、世界の方を押しとどめる。


 私は紙片を折り、懐へ戻した。

 配達人は、すでに姿を消していた。足音すら残っていない。


 私は、鞄から古い地図を取り出した。

 黒門紀の残滓が眠る場所には、小さな印がついている。人の手で書かれたものではない。昔、そういうものを追っていた頃につけた、私だけが分かる印だった。

そのうちの一つが、黒く滲んでいた。私は指で押さえる。墨ではない。地図の中から、染みが浮いている。

 続いて、別の場所が滲む。……さらに一つ。…また一つ。

 一つなら、偶然と言えた。二つなら、連鎖と呼べた。だが、三つ目が滲んだ時、私は地図を閉じた。


 点と点は、まだ線にはなっていない。だが、呼び合っている。黒門時代の残り物が、眠りの底で互いの声を聞き始めている。


 街道の風が止まった。

 朝が来る直前の世界が、ほんの少しだけ息を潜める。


 私は剣の柄に手を置いた。


「負けじと、か」

 小さく呟く。


 誰に向けた言葉だったのかは、自分でも分からなかった。

 あの場所で自分の名前を少し取り戻し始めたあの子になのか。今も誰かを英雄にしたがる王国になのか。それとも、終わったはずの時代の底で、もう一度物語を始めようとしている闇になのか。


 黒門時代の残り物は、負けじと目を覚まし始めていた。


―――


 私は歩き出した。

 あの子のいない道は、やっぱり速かった。

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