第二十二話「落ちこぼれは、一振りの剣に近づいた。」
白冠杯の申請が終わると、学園の空気は少しずつ変わっていった。
中庭では、木剣を打ち合わせる音が増えた。
魔術演習室の前には、いつもより長い列ができた。
食堂では、誰がどの部門に出るのか、誰が有力なのか、そんな話ばかりが飛び交っている。
白冠杯まで、数か月。
まだ遠いようで、けれど、学園中の生徒にとってはもう始まっているらしい。
第一寮の生徒たちは、決まった相手と決まった時間に訓練をしていた。
第四寮の生徒たちは、記録や過去の対戦表を広げていた。
第三寮の方からは、朝早くから素振りの音が聞こえる。
それぞれの寮に、それぞれの白冠杯がある。
そして第七寮へ続く道は、相変わらず少し静かだった。
第七寮は、第七課程の寮ではない。
同じ学年でそこに住んでいるのは、今のところ俺とアイリスだけだ。シオンも、エリオも、ノアも、フィーネも、セラも、それぞれ別の寮へ帰っていく。
だから放課後、教室を出たあとにひとりで第七寮の方へ歩くと、学園の賑やかさから少しずつ切り離されていくような気がする。
白かったらしい、という過去形の似合う建物。
第七寮は、今日もそんな顔をして立っていた。
その坂道の途中に、小さな石敷きの中庭がある。
正式な訓練場ではない。誰かが昔、剣でも振っていたのか、古い木の柵と、半分苔に沈んだ踏み石だけが残っている。
そこで、シオン・エルレインが木剣を二本持って立っていた。
「アレン」
「何だ」
「我と打て」
急だった。
「……急だな」
「白冠杯は待ってくれん」
「いや、それはそうだけど」
シオンは右腕の包帯を押さえた。
夕方の風に、包帯の端が少しだけ揺れる。
「第三寮の者どもは、我が封印を恐れて近づかん」
「第七課程を避けてるだけじゃないか?」
「同じことだ」
違う気もしたが、シオンの中では同じらしい。
シオンは第七課程だが、第七寮の住人ではない。剣術適性が高いからか、剣士系の生徒が多い第三寮に入っている。
…本人は自分を剣士ではなく、封印されし魔術師だと言い張っているが。
剣士の寮にいる。
もちろん、剣は強い。それも恐ろしく。
でも、魔術師を名乗る。
なるほど、どこに置いても扱いづらい。
「実戦相手がいないのか?」
「恐れられる者の宿命だ」
「煙たがられてるだけじゃないか?」
「宿命だ」
言い切った。
でも、少し分かる気もした。
シオンもまた、どこかの輪の中にきれいに収まりきれないのだろう。
第三寮にいても、第七課程。
第七課程にいても、第七寮ではない。
剣士として強いのに、魔術師を名乗る。
名前と中身が、少しずれている。
俺は木剣を受け取った。
「分かった」
「ふっ。ようやく貴様も、剣という深淵の入口に立つか」
「入口が多いな、お前の世界」
「深淵とは、常に入口だ。そして、たまに同じ深淵へ辿り着く」
「何を言ってるのか分からないけど、ちょっと格好いいのが腹立つ」
シオンは笑った。
そして、次の瞬間、空気が変わった。
言葉は飾りだらけなのに、構えには飾りがなかった。
木剣を握る手、足の位置、肩の落とし方、目線。どれも静かで、無駄がない。
―来る
そう思った時には、シオンは踏み込んでいた。
速い。
俺は木剣を上げる。
どこへ来るかは分かった。どこを止めればいいかも分かった。けれど、身体がそこへ届かない。
木剣が肩の横を叩いた。
「痛っ」
「一本」
「今の、速すぎないか」
「遅い」
「俺が?」
「貴様の剣が」
シオンは木剣を下ろす。
「目は追っている。だが、剣がそこにいない」
「剣がそこにいない」
「剣とは、己の意思を通す器だ。貴様は答えだけを先に掴み、器を置き去りにしている」
その言葉で、ふと父の姿を思い出した。
旅の途中、父は時々、何もない草地で剣を振っていた。
誰に見せるわけでもない。何かを倒すためでもない。ただ、呼吸をするみたいに、静かに剣を動かしていた。
あの時の父の剣は、速いとか、強いとか、そういうものではなかった。
剣が、父のいる場所に最初からあった。
俺はそれを、ただ綺麗だと思って見ていた。
今なら少しだけ分かる。あれは、力ではなく、剣だった。
俺は肩をさすった。
止めようと思えば、たぶん止められた。シオンの踏み込みも、木剣も、空気の流れも、〈止まれ〉と少し思えば、止められたかもしれない。
でも、それは剣ではない。
俺は剣術部門に出る。
なら、剣で残さなければならない。
「もう一本」
「よかろう。我が仮初めの剣で、貴様の未熟を暴いてやる」
「仮初めに何回負けるんだろうな、俺」
「安心しろ。数えきれぬ」
「安心できるか」
―――
白冠杯までの日々は、少しずつ速度を増していった。
朝は授業を受ける。
昼は掲示板や過去記録を見る。
放課後は、第七寮へ続く坂道の途中で剣を振る。
シオンに打たれる。
フィーネに治される。
エリオに指摘される。
リゼに観測される。
アイリスに心配される。
そして時々、俺の力は勝手に世界へ触れた。
―――
最初は、授業中だった。
机の端に置かれていたインク瓶が、誰かの肘に当たって倒れかけた。
床に落ちれば、隣の生徒の答案用紙まで黒く染まる。
大したことではない。大したことではないのに、俺は反射的に思ってしまった。
〈止まれ〉
インク瓶が、空中でぴたりと止まった。ほんの一瞬。それから、何事もなかったように机の上へ戻った。
教室が静かになる。
アイリスがすぐに言った。
「インク瓶が反省したのね」
無理がある。
物に反省を求めるな。
エリオが、少し離れた席からこちらを見る。
「反省には外力が必要だ」
「そこに突っ込むのか?」
「反省は内省だが、物体の運動変化には外力がいる。これは事実だ」
エリオはノートに何かを書き込んだ。
「今のは、アレンが勝とうとした時ではない」
「勝とうとした?」
「倒れるものを止めようとした時だ」
俺は少しだけ黙った。
それは、たぶん当たっていた。
―――
別の日には、図書館前でセラが本を落としかけた時だった。
腕いっぱいに抱えた本が崩れ、数冊が彼女の足元へ落ちる。
セラは声を出そうとした。
けれど、その声が間に合う前に、俺の方が反応した。
〈止まれ〉
本が空中で一瞬だけ止まった。落ちるはずだった数冊が、まるで自分で棚を思い出したみたいに、ゆっくりと重なっていく。
セラが目を丸くする。
「……あ」
その声は、小さかった。
アイリスが息を吸う。ごまかす準備の音だった。しかし、それより早く、横から羽根ペンの音がした。
「今、記録波形が抜けました」
リゼ・オルブレインだった。
「おまえ、どこにでもいるな」
「観測地点を増やしています」
「迷惑だな」
「必要です」
必要らしい。
リゼは手帳を開いたまま、本と俺を交互に見る。
「やはり、あなたの反応は、守ろうとした時に出やすいように見えます」
「守ろうとした時」
「はい。制御核の停止時も、魔導人形の停止時も、今の本も。攻撃ではなく、被害の停止に反応している」
言われて、少しだけ胸の奥がざわついた。
俺は自分の力を、まだよく分かっていない。何ができるのか。どこまで届くのか。どこから危ないのか。
でも、リゼは少しずつ輪郭を引こうとしている。
面倒ではある。本当に面倒ではある。
けれど、「何もなかった」で終わらせない誰かがいることは、やっぱり少しだけ救いでもあった。
「……ありがとう」
言うと、リゼが一瞬止まった。
「何に対する感謝ですか」
「さあ」
「記録不能です」
「そこは記録しなくていい」
―――
夕方の中庭では、シオンに何度も打たれた。
肩、腕、脇、太腿。
木剣とはいえ、当たれば普通に痛い。
フィーネは何度目かの治療で、俺の腕を見ながら言った。
「珍しく普通の怪我ですね」
「褒めてるのか?」
「進歩です。普通に痛めるようになりました」
「嬉しくない進歩だな」
「でも、記録には残ります」
「打撲が?」
「はい。打撲、肩、右腕、未熟」
「最後の項目いる?」
「一番重要です」
フィーネの手から、淡い治癒の光が流れる。
口は悪い。けれど、処置は速く、正確だった。
少し離れたところで、アイリスがこちらを見ていた。
いつもなら軽口の一つでも飛んでくる。でもその日は、少しだけ言葉が遅かった。
「痛そう」
「痛い」
「いつもの変な力を使えば、たぶん避けられたよね」
「たぶん」
「それでも使わなかったんだ」
「剣術部門だから」
アイリスは黙った。
俺は少しだけ、彼女の顔を見る。アイリスは、俺が力を使うことだけを怖がっているのではない。たぶん、俺が普通に傷つくことも怖いのだ。
それでも、止めなかった。
「これは記録に残る痛みだ」
言うと、アイリスは少しだけ眉を寄せた。
「……痛みまで記録しなくていいのに」
「でも、痛いのは本当だ」
「そこは威張らないで」
アイリスの声はいつも通りだった。
でも、目だけは少し違っていた。
―――
数日が過ぎた。
シオンの剣は、相変わらず速かった。俺は、相変わらず何度も打たれた。
ただ、少しずつ変わったこともある。
最初は、どこを止めればいいかだけを見ていた。次に、そこへどう動けばいいかを考えるようになった。そして、考えるより先に足を動かす練習をした。
ある日、エリオが中庭の端に立っていた。
「見に来たのか?」
「記録しに来た」
「リゼみたいなこと言うな」
「彼女ほどに細かくはない」
エリオは俺とシオンの足元を見ていた。
「アレンは、答えを見ている」
「答え?」
「相手がどこへ来るか、どこを止めればいいか。それは見えている。だが、そこへ剣で至る途中式がない」
「数学みたいに言うな」
「どの世界も、評価されるのは途中式だ」
その言葉は、思っていたより深く刺さった。
途中式
俺は今まで、答えだけを見ようとしていたのかもしれない。
でも、学園が見るのはそこに至る道だ。
足をどう置いたか
剣をどう振ったか
相手の動きをどう読んだか
自分の身体をどう使ったか
それを飛ばしてしまえば、俺の名前には残らない。
「途中式か」
「そうだ」
「面倒だな」
「面倒なものほど、記録に残る」
エリオは真顔で言った。
正面突破が好きな男の言葉とは思えないほど、正論だった。
―――
また数日が過ぎた。
第七寮の近くの中庭には、俺とシオン以外も時々顔を出すようになった。
トーマス先輩は、折れかけた木剣を見るなり目を輝かせた。
「お、いい割れ方だね! 芯に反発式の補助術式を入れれば、振った時に加速するよ!」
「入れないでください」
「なぜだい?」
「剣術部門だからです」
「剣を補助する剣なら剣術じゃないか!」
「違います」
トーマス先輩は心底不思議そうだった。
この人は、仕組みを見つけるとすぐに触りたがる。たぶん、世界が全部、開けていい箱に見えている。
ハーブ先輩は、夕方の石段に腰かけて眠っていた。
眠っている。はずなのに、俺が力を漏らしかけると、薄く目を開ける。
「……今、地面が少し、息を止めたね」
「起きてたんですか」
「寝てるよ」
「寝てる人は返事しません」
「そうかな」
そしてまた寝た。
どうやら第二課程の人らしい。感知や観測に寄った性質なのだと聞いたことがある。
ただし、生活習慣は完全に第七寮だった。
剣を振るようになってから、俺は図書館にも足を運ぶようになった。
剣術指南書と、白冠杯の過去記録を読むためだ。
そこで、メル先輩を見かけることが増えた。
メル・アーカイブ。
第七寮の上級生で、たいてい図書館にいる人だ。
寮ではほとんど見たことがなく、他の寮生からは「図書館に住んでいる」とまで言われている。図書館に寄るようになった最近までは、話したことがなかった。
話しかけようとすると、視線が本の背表紙へ逃げる。
けれど、本や記録の話になると、逆に言葉が止まらなくなるらしい。
その日も、俺が白冠杯の過去記録を眺めていると、メル先輩がふいに立ち止まった。
「白冠杯の原本は、古いものほど写しと違うことがあります」
突然だった。
「原本?」
「はい。掲示板に貼られるものは、読みやすく整えられた写しです。けれど、原本には筆跡や修正跡や、消された名前の残りがあります。そういうものは、とても大事で、消えたように見えるものも、紙の奥には残っていて、あの、つまり、名前というものは――」
そこまで言って、メル先輩ははっとした顔をした。
たぶん、人と話していることを思い出したのだ。
「……失礼しました」
そう言って、小走りで去っていく。
俺はその背中を見る。
白冠杯の原本
消された名前の残り
レクシオンの名を思い出した。その名前だけ、後から置かれた石のように見えたことも。
気にはなった。けれど、今はまだ追いかけなかった。
白冠杯は近い。
今の俺に必要なのは、まず剣だった。
―――
さらに日々は進んだ。
朝は授業。昼は記録。放課後は中庭。
シオンに打たれ、フィーネに治され、エリオに途中式を突かれ、リゼに観測され、アイリスに心配される。
トーマス先輩に木剣を改造されかけ、ハーブ先輩に寝言のような指摘をされ、メル先輩に古い記録の話を途中まで聞かされる。
そして時々、俺の力は勝手に世界へ触れた。
でも、そのたびに少しだけ分かっていった。
俺の力は、勝つために出る時より、守るために出る時の方が早い。
止めようとした時。壊れる前に戻そうとした時。誰かが傷つく前に、間に合えと思った時。
その時、世界のどこかが、ほんの少しだけ俺の手に近づく。
けれど、剣は違う。剣は、世界を近づけない。自分が動かなければ届かない。
足を出す
腰を回す
肩を落とす
手首だけで振らない
目で追わず、間合いで読む
面倒だった。でも、少しずつ、楽しくもなっていた。
―――
白冠杯の数日前。
夕方の中庭は、いつもより静かだった。
シオンが木剣を構える。
「来い、アレン」
「ああ」
何度も見た構えだった。けれど、今日は少し違って見える。
シオンが踏み込む。
速い。相変わらず速い。
俺の奥で、いつもの感覚が動きかける。
止めればいい。そう思えば、たぶん止まる。シオンの木剣も、踏み込みも、空気ごと。
けれど、俺は奥へ伸びかけた感覚を引き戻した。
その時、昔の父の声が戻ってきた。
「剣は、相手を止めるためだけにあるんじゃない。自分がそこへ行くためにもある」
当時の俺には、よく分からなかった。
けれど今、シオンの木剣が目の前に迫る中で、その言葉だけが妙にはっきりしていた。
止めるな。動け。
足を半歩、外へ。
腰を落とす。
剣をぶつけるのではなく、角度をずらす。
シオンの木剣が、俺の木剣を滑る。
乾いた音がした。衝撃が腕に残る。でも、抜けた。
シオンの一撃が、俺の肩を打たずに、横へ流れた。
初めてだった。
止めたのではない。止まらせたのでもない。俺が動いて、剣で外した。
シオンは木剣を下ろさず、そのまま少しだけ黙った。
それから、口元を上げる。
「今のは、剣だった」
たったそれだけの言葉だった。
けれど、胸の奥に、ゆっくり落ちた。
「少しだけか?」
「少しだけだ」
「厳しいな」
「剣の世界は厳しい」
シオンは右腕の包帯を押さえた。
「だが、悪くない。貴様の剣は、ようやく貴様の手に戻り始めた」
何を言っているのか、半分くらい分からない。
でも、たぶん褒められていた。
「ありがとう」
俺が言うと、シオンは少しだけ目をそらした。
「礼は不要だ。我はただ、封印されし剣の声に従っただけだ」
「剣の声って何だ」
「聞こえぬのか」
「聞こえない」
「未熟だな」
少し笑った。
腕は痛い。肩も重い。でも、それは俺の身体が動いた証拠だった。
―――
翌日、ヴィオラ先生は俺の簡易記録を見た。
正式な成績ではない。白冠杯前の、訓練経過の記録だ。
アレン・ノーツ
剣術基礎―未成熟
間合い判断―可
身体操作―要訓練
異常反応―要観察
「要観察、残るんですね」
「残る」
「ですよね」
「だが、全部ではない」
ヴィオラ先生は、記録板の一行を指で叩いた。
「剣は、要訓練だ」
要訓練。
高い評価ではない。むしろ低い。
でも、不明ではなかった。判定不能でもなかった。
俺の名前の横に、今日の俺がしたことが、少しだけ残っていた。
要観察ではなく、要訓練。
それは、落ちこぼれの評価としては、少しだけ眩しかった。
そして白冠杯は、気が付けば明日に迫っていた。




