第二十三話「白き冠は、名前の隣に剣を置いた。」
翌朝。
廊下の床板は、相変わらず踏む場所によって返事をするし、洗面所の水は以前よりずっと素直に出る。窓の隙間風も少ない。第七寮の調子がずっと良い事に、やっぱり、疑問を持つ者はいなかった。
今日が少し特別な日であることを除けば、それは不自然なくらいにいつも通りだった。
「今日は晴れてよかったわね」
マルタさんは、今日も変わらず、穏やかに言った。
食堂の窓からは、白い丘の朝が見える。学園の方角には、いつもより多くの旗が立っていた。
白地に銀の冠。風を受けるたび、光が揺れる。
――白冠杯。
年に二度、学園中の生徒が、自分の力を記録される場所に立つ日。
今日はそれが行われる日だった。
「顔、硬い」
隣でアイリスが言った。
「そうか?」
「うん。昨日の木剣くらい硬い」
「折れかけてないだけましだな」
「折れないでね」
何気ない言葉だった。
けれど、少しだけ遅れて胸に残った。
「剣の話か?」
アイリスは何も応えず、パンをちぎった。
いつもなら、そこで何か余計な一言を足す。俺が落ちこぼれっぽく倒れないように、とか、審判に要観察されすぎないように、とか。
でも、その朝のアイリスは、それ以上言わなかった。
俺は手元の木剣を見る。
白冠杯の剣術部門で使われる、学園指定の木剣だ。昨日まで振っていた練習用より少しだけ重く、柄の部分には小さな刻印が入っている。
王立エリュシオン学園―白冠杯剣術部門。
その文字を指でなぞると、妙に落ち着かなかった。
今まで、俺の名前が紙に載らなかったわけではない。
いや、名前なら、何度も書かれた。
けれど、その隣に並んでいた言葉は、いつも俺の知らない俺だった。
もちろん、間違いだけではないのかもしれない。それは分かっていた。俺の剣は間違いなく未成熟だったし、術式は不明瞭だったし、要観察なのも、まあ否定しきれない。
でも、そこには俺が何をしたのかは書かれていなかった。
俺が止めたもの、俺が戻したもの、俺が守ろうとしたもの。
そういうものは、紙の上では別の名前になったり、不明になったり、何もなかったことになったりした。
だから、嫌だった。
名前が残らないことではない。
名前と中身が、いつもずれていることが。
「アレン」
アイリスが俺を見る。
「何?」
「今日は、ちゃんと見てるから」
「ごまかすために?」
「見張り」
「答えになってない」
「私は見張り、だから」
二回言った。
たぶん、それ以上の答えをまだ持っていないのだと思った。
俺は木剣を持ち上げる。
「行ってくる」
「うん」
アイリスは、少しだけ笑った。
「いってらっしゃい。落ちこぼれ剣士」
「せめて剣士の前を別にしてくれ」
「要訓練剣士」
「それなら少し許す」
「許すんだ」
軽口を交わして、俺は第七寮を出た。
―――
寮を一歩出ると、白い丘の朝はいつもより少しだけ眩しかった。
学園中央広場には、すでに多くの生徒が集まっていた。
部門ごとに掲示板が立ち、教師や記録官が忙しそうに行き来している。観覧席には上級生や他部門の生徒たちが座り始めていて、白い旗が風に鳴っていた。
祭りのようだった。
けれど、ただ楽しいだけの空気ではない。
ここで勝てば、名前が残る。ここで負けても、名前は残る。
そして、その記録は課程評価や推薦や、将来の道に繋がる。
白冠杯は、笑い声の中に、紙と羽根ペンの音が同じくらいの重さで混じる行事だった。
「アレンさん!」
声がして振り返ると、ノアがコルちゃんを抱えて立っていた。今日は魔術部門の受付へ向かうらしく、胸元に小さな札を下げている。
「コルちゃん、公式魔術です」
「おめでとう」
「ありがとうございます。本人は緊張しています」
コルちゃんはノアの腕の中で寝ていた。
「寝てるように見えるけど」
「緊張で眠くなっているんです」
「便利な緊張だな」
少し離れた場所では、フィーネが医療班補助の腕章をつけていた。
「怪我をしないようにしてください」
「優しいな」
「怪我人が増えると、私の仕事が増えます」
「優しくなかった」
「ただし、怪我をした場合は来てください。治します。ついでに、なぜ怪我をしたのか反省もしてもらいます」
「怪我よりも辛そうだ」
フィーネは否定しなかった。
戦術部門の掲示板前では、エリオが腕を組んで盤面を見ていた。
「初戦はどうするんだ?」
「正面突破だ」
「聞く前から分かっていた気がする」
「ただし、今回は三方向から正面突破する」
「正面の定義が壊れてきたな」
「定義とは、必要に応じて拡張するものだ」
…どこまでも都合よく解釈している気がする。
セラは観覧席へつながる入口の端にいた。
出場札は下げていない。まだ、出ることは選ばなかったのだろう。
目が合うと、彼女は何かを言おうとして、唇を小さく動かした。
「……が……って…」
かすかに聞こえた。たぶん、がんばって、と言おうとしたのだと思う。
俺は小さく頷いた。
セラはほっとしたように、さらに小さく頷いた。
剣術部門の受付へ向かう途中、シオンが木剣を肩に担いで待っていた。
「来たか、アレン」
「来たよ」
「白き冠よ、我が仮初めの剣を記録せよ」
「今日くらい普通に剣って言えないのか」
「仮初めであることに意味がある」
「ないと思う」
シオンは笑った。
ただ、その目はいつもより少しだけ真面目だった。
「恐れるな。白冠杯は魂に名を刻む戦場だ」
「また大げさな」
「だが、貴様はそこへ来た」
そう言って、シオンは掲示板を指した。
剣術部門―一回戦
そこに、名前が並んでいた。
アレン・ノーツ。
その隣には、微弱とも、不明とも、要観察とも書かれていなかった。
ただ、剣術部門と書かれていた。
俺が選んだ場所。剣で立つと決めた場所。
名前だけが先に歩いているわけではない。
少なくとも今日は、その名前の隣に置かれた言葉が、少しだけ俺の方を向いている気がした。
まだ何もしていない。勝ったわけでも、強いと認められたわけでもない。
それでも、胸の奥が少しだけ熱くなったのを感じた。
掲示板を見て固まっていると、後ろから聞き覚えのある声が聞こえた。
「アレンさん」
振り返ると、クレアが立っていた。総合部門の出場札を胸に下げている。背筋は変わらずまっすぐで、制服の襟もきちんと整っていた。
エルノートの屋敷前で折れかけた木剣を握っていた少女は、今、白い学園の中央に立っている。
「剣術部門に出るのですね」
「ああ」
「では、以前より少しだけ、まっすぐ構えられるようになったか、見せていただきます」
「なんだか緊張するな」
クレアは少しだけ微笑んだ。
「剣の話ではありますが、剣だけの話じゃありませんよ」
その言葉に、俺は自然と背筋を伸ばしていた。
クレアは満足したように、小さく頷く。
その少し後ろに、ヴァイスグランがいた。
白金の髪が朝の光を受けている。彼は俺を見ると、静かに言った。
「剣術部門にしたんだね」
「ああ。剣なら、剣として残るかもしれないから」
「なら、見ているよ」
短い言葉だった。
けれど、不思議と重かった。
その時、中央広場に鐘が鳴った。生徒たちのざわめきが少しずつ引いていく。たくさんの音でごまかされていた緊張感が、漂い始めた。
壇上には、学園長が立っていた。銀の髪を風に揺らし、いつもの少し疲れたような顔で、それでも今日はまっすぐに生徒たちを見ている。
「諸君」
声は大きくない。
けれど、広場の隅まで届いた。
「白冠杯は、ただ勝者を飾るためだけの場ではない」
記録官たちが羽根ペンを構える。白い旗が風に鳴る。
「ここには、勝った名も、負けた名も残る。届いた者の名も、届かなかった者の名も残る」
俺は、自分の名前が載った掲示板を思い出した。
「測られるものは、それがすべてではない。したがって、測られることを恐れて、何も示さぬまま終わる必要はない」
父の声が、少しだけ胸の奥で重なった。
―測られたものを、全部だと思うな
けれど、今日は少しだけ違う。
全部ではないとしても、ここで示せるものがあるなら…それを、俺は自分の名前の横に置きたかった。
「諸君の名が、諸君の行いと共に記録されることを願う」
学園長はそこで、少しだけ息を吐いた。
「ではここに、第百四十六回、白冠杯の開幕を宣言する」
歓声が上がった。恐ろしく整えられた楽器の音がそれに重なる。
白い丘が、一瞬で、激しく空気を揺らす音の嵐に包まれた。
―――
それから、剣術部門の第一試合は、すぐに始まった。
いくつもの試合場で木剣が打ち合わされる音が響く。勝者の名が呼ばれ、敗者の名も記録されていく。
俺の番は、思ったよりも早く訪れた。
「剣術部門、一回戦。アレン・ノーツ」
名前が呼ばれる。俺は息を吸った。
俺の名前を呼んだその音は、前の測定の時とは違って聞こえた。
触れる前に終わらされる声でも、不明として片づけられる声でもない。
試合場へ上がれ。そして剣を構えろ。ただ、そう言われている声だった。
相手は同じ学年の、第二課程の男子生徒だった。背は俺より少し高く、木剣の握り方も慣れている。俺の顔を見て、少しだけ眉を上げた。
「ああ、要観察の」
やっぱり知っているらしい。
俺より、俺の評価の方が有名だ。
「剣術部門に出るんだな」
「ああ」
「まあ、よろしく」
悪意は薄かった。
ただ、軽く見られている。
それは分かった。
俺は木剣を構えた。
肩の力を抜く。
足を置く。
相手の剣先だけを見るな。肩と足。重心を見る。間合いで読む。
シオンの声が蘇る。
―目は追っている。だが、剣がそこにいない。
エリオの声も。
―評価されるのは途中式だ。
クレアの声。
―まっすぐ構えていてください。
そして父の声。
―剣は、相手を止めるためだけにあるんじゃない。自分がそこへ行くためにもある。
奥の方で、いつもの感覚が揺れた。
止めればいい。そう思ってしまえば、相手の踏み込みも、剣も、何もかも、きっと一瞬止められる。でも、それは剣ではない。
今日は、お休みだ。
――審判が右手を上げる。
「始め」
相手が踏み込んだ。
速い。
けれど、見える。
俺は、止めなかった。
ただ、足を出した。半歩、外へ。
腰を落とす。
剣を上げる。
木剣と木剣がぶつかった。
乾いた音が、白い試合場に響く。
それはたぶん、俺の名前の隣に残る、最初の音だった。




