第二十一話「剣なら、剣として。」
例の合同演習から数日が経ったある日。
ヴィオラ先生はいつものように教壇の前に立ち、いつものように冷たい声で言った。
「数か月後、白冠杯がある」
その一言で、第七課程の何人かが顔を上げた。
――白冠杯
王立エリュシオン学園で、各学期の後半に行われる実技競技会。
学園は二学期制だから、年に二回あるらしい。
つまり、一年に二度、学園中の生徒が、自分の力を記録される場所に立つ。
「正式部門は四つだ」
ヴィオラ先生は黒板に文字を書いた。
―剣術部門
―魔術部門
―戦術部門
―総合部門
「召喚、治癒、術式解析のような専門技能は、それぞれの部門内で評価される。独立部門はない」
ノア・アニマが、コルちゃんを抱いたまま小さく手を上げた。
「あの、召喚部門は……」
「ない」
ヴィオラ先生は即答した。
ノアは腕の中のコルちゃんを見下ろした。
「コルちゃん、公式部門ありませんでした」
コルちゃんは、小さく鳴いた。
たぶん、少し安心していた。
「召喚術を使うなら魔術部門で評価される。召喚獣の制御、維持、術式運用。それらも含めて魔術だ」
「魔術……」
ノアは少しだけ不安そうにコルちゃんを抱き直す。
「コルちゃん、魔術でした」
コルちゃんは、もう一度小さく鳴いた。
今度は少し不満そうだった。
フィーネ・アステルが静かに手を上げる。
「治癒支援部門はないのですか」
「ない」
ヴィオラ先生は即答した。
「怪我人が出る行事なのに?」
「怪我人を出すための行事ではない。言い方を直せ」
ヴィオラ先生の目が細くなる。
「治癒士は医療班補助として参加できる。競技者ではなく、支援側だ」
「つまり、壊れた人間の後始末ですね」
「言い方を直せと言った」
とても治癒士の会話とは思えない。
セラ・リュミエルは、後方で小さく口を開きかけた。
けれど、言葉を選んでいるうちに、黒板の文字を見つめたまま固まってしまう。
ヴィオラ先生はそれに気づいたようだった。
「リュミエル。術式干渉は魔術部門の評価内に含まれる」
「……はい」
セラは小さく頷いた。でも、その顔はまだ少し怖そうだった。
自分の声が届いてしまうこと。何かを止めてしまうこと。セラはまだ、それを自分の力として扱うことに慣れていない。
「出場は強制ではない。だが、逃げたこともまた記録には残る」
ヴィオラ先生はそう言った。
厳しい。
でも、突き放しているわけではない声だった。
記録。
その言葉だけが、妙に耳に残る。
白冠杯の成績は、公式記録に残る。
課程評価、推薦、進路にも関わる。
遊びではない。
俺は黒板の文字を見ていた。
並べられているのはただの部門名のはずだった。でも今の俺には、それが問いかけのように見える。
〈 お前は、どの形で自分の名を残すのか 〉
俺の名前には、何も残らない。
数日前、ヴァイスグランと話した時の言葉が、胸の奥でまだ小骨みたいに引っかかっている。
―記録できる形
剣なら、剣として。
術式なら、術式として。
戦術なら、戦術として。
学園が読める言葉。少し腹が立つ。けれど、完全には無視できない。
俺がどれだけ何かをしても、それが記録に残らなければ、後から見た人間には何もしていないのと同じに見える。
それの方が嫌だった。
「部門の申請は今週中に出せ」
ヴィオラ先生が言った。
その時、シオン・エルレインがゆっくりと立ち上がった。右腕の包帯を押さえ、やけに真剣な顔をしている。
「決まったな」
何かが始まる気配がした。
だいたい、よくない何かだ。
「我は、魔術部門に出る」
教室が止まった。
「……何?」
ヴィオラ先生の声が、ほんの少しだけ素に戻った。
珍しいものを聞いた。白冠杯の公式記録に残していいかもしれない。
フィーネが静かに椅子を引いた。
「シオン」
「何だ、治癒士」
「座ってください」
「なぜだ」
「治療では手遅れだからです」
「そんなに悪いのか」
「ええ、自己認識を司る脳が壊滅的です」
エリオ・クローデルが、盤面を見るような目でシオンを見た。
「シオン。確認するが、君の魔術成功率は?」
「封印中だ」
「つまり?」
「今は使えん」
「それは成功率ではなく未実装だ」
ノアが不安そうに手を上げる。
「あの、シオンさんは剣術部門の方がいいと思います」
「ノアまで我が封印を恐れるか」
「恐れているというか、心配しています。シオンさんの心が」
「ふっ。優し……心が?」
セラが後方で、小さく口を開いた。
「……剣、すごいのに」
たぶん、教室で一番まともな一言だった。
シオンは目を伏せる。
「我が剣は、魔術を封じるための仮の器にすぎない」
ヴィオラ先生が額に指を当てる。
「エルレイン。お前は剣術部門だ」
「しかし先生、我が真なる力は――」
「剣術部門だ」
「だが、封印されし魔力が――」
「剣術部門だ」
三回言った。
ヴィオラ先生が同じ言葉を三回言うのは、たぶんかなり危ない状態だ。
シオンは少し考え込んだあと、重々しく頷いた。
「なるほど。我の封印を守るため、あえて剣の舞台に立てということか」
「違う」
ヴィオラ先生は即答した。
「お前の適性が剣だからだ」
「適性すら、封―」
「剣術部門だ」
四回目だった。
さすがのシオンも、それ以上は言わなかった。
ただ、椅子に座りながら小さく呟いた。
「白き冠よ、我が仮初めの剣を見届けよ」
シオンは、自分を魔術師だと言い張っている。
けれど、誰が見ても、あいつの剣は本物だった。
剣なら、剣として。
ヴァイスグランの言葉が、また胸の奥で鳴った。
―――
昼休み、廊下の掲示板前には人だかりができていた。
白冠杯の告知が貼り出されていたのだ。
四つの正式部門それぞれの申請欄には、すでにいくつかの名前が書かれていた。
総合部門の欄に、ヴァイスグランの名前がある。そのすぐ近くに、クレア・エルノートの名前もあった。
「クレアも総合部門か」
思わず呟く。
総合部門は、剣も、術式も、判断も求められる。
つまり、一つだけ得意でも勝てない。全部を、一定以上の形で示さなければならない。
クレアは、そこに出る。
きっと、あれ以降も剣を鍛え続けていたのだろう。
紋章学も、術式も、貴族法も、ただ知識として持っているだけではない。彼女は、自分の持っているものを全部積み上げて、そこに立つつもりなのだ。
ちゃんと測られる場所に。
その名前が、俺より少し先の場所にあるように見えた。
さらに下には、戦術部門の欄がある。
そこには、エリオ・クローデルの名前がもう書かれていた。
早い。たぶん、迷っていない。
エリオのことだから、出場申請の時点で既に正面突破の経路を三つくらい考えている気がする。
魔術部門の欄には、ノア・アニマの名前があった。
その横に、少し小さな字で「召喚術使用」と補足されている。きっとノアが自分で書いたのだろう。コルちゃん、公式部門はなかったけれど、公式補足はできたらしい。
セラの名前は、まだなかった。それが少しだけ気にかかった。
出ないのか。出られないのか。まだ、出るのが怖いのか。
俺には、どれも分かる気がした。力を持っていることと、それを人前に出せることは違う。そのことを、俺も少しずつ知っている。
掲示板の端には、過去の優勝者の名が並んでいた。
勝った者の名前。
負けた者の名前。
どの部門で、どこまで進んだのか。
名前が、残っている。
それだけのことが、今の俺にはひどく大きく見えた。
その中に、王国史で聞いた名があった。
『レクシオン』
英雄の名だ。
いくつもの欄に、その名前があった。
「……すごいな」
思わず呟いた。
同じ名前が、いくつもの部門に残っている。
まるで学園そのものが、その名前を覚えているみたいだった。
けれど、少しだけ妙な感じがした。
その名前だけ、記録というより、後から置かれた石のように見えた。
王国史の授業を思い出す。
過去にも、後から名前がつく。なら、名前がつく前のものは、一体どこにあるのだろう。
あの時引っかかった言葉が、白い掲示板の前で、もう一度胸に戻ってきた。
「アレン」
アイリスが横から覗き込む。
「何見てるの?」
「過去記録」
「白冠杯、気になる?」
「気になるというか」
俺は少し黙った。
「名前が残るんだなって」
アイリスは、少しだけ目を伏せた。
「……うん。残るね」
いつもの軽口が返ってこなかった。
だから俺は、少しだけ掲示板から目を離せなくなった。
俺の名前には、今まで何も残らなかった。でも、ここには残る。
勝っても、負けても、何かをした者の名前が残る。
それが正しい記録なのかは分からない。
王国史みたいに、後から名前が変わるものもあるのかもしれない。
それでも。
記録に残る場所がある。そのことが、今はただ、眩しかった。
―――
放課後、ヴィオラ先生に呼び止められた。
「ノーツ、お前はまだ、白冠杯の申請を出していないな」
「迷ってます」
「そうか」
ヴィオラ先生は、少しだけ俺を見る。
「魔術部門か?」
「……考えました」
正直に言う。
俺の力を見せたいなら、魔術部門の方が近いのかもしれない。
俺の力は術式とも、魔力とも違う。でも、何かを起こすという意味では、そちらの方が近い気がした。
けれど、たぶん違う。
俺の力は、魔術として記録されない。測定水晶にも、術式反応にも、まともに残らない。
魔術部門に出ても、またそれは同じかもしれない。
不明
判定不能
要観察
俺の名前の横に、またそれが並ぶだけかもしれない。
「戦術部門は?」
「エリオに怒られそうです」
「お前が気にするところはそこか」
「半分冗談です」
「半分か」
ヴィオラ先生は、ほんの少しだけ息を吐いた。
「総合部門は」
「まだ無理だと思います」
言ってから、少しだけ悔しかった。
総合部門には、ヴァイスグランがいる。クレアもいる。
剣も、術式も、判断も、全部を持っている生徒たちが集まる場所だ。
俺のあの力なら、何かできるだろう。でもそれは、総合部門の記録にはならない。
俺はまだ、自分の力を学園が読める形にできていない。
総合部門は、今の俺が一番出たい場所で、一番出てはいけない場所のように思えた。
「なら、何を選ぶ」
俺は黒板に書かれていた文字を思い出す。
剣なら、剣として。
そして、シオンの動きを思い出す。
あいつは自分を魔術師だと言い張っている。けれど、剣を握った時のシオンは、誰が見ても剣士だった。
―見える形
―記録できる形
俺は、そこに立ちたいと思った。
「剣術部門に出ます」
言葉にした瞬間、自分でも少し驚いた。
ヴィオラ先生は表情を変えなかった。
「理由は」
「まずは、見える形で残したいからです」
それだけ言うと、胸の奥が少しだけ熱くなった。
「俺の力は、たぶん記録に残りにくいです。説明もできない。自分でもまだ、全部分かってるわけじゃない。でも、剣なら」
俺は自分の手を見る。
「剣なら、振ったことが残る。勝ったか負けたかも、たぶん残る」
「たぶん、か」
「はい。まだ自信はないです」
「正直でいい」
ヴィオラ先生はそう言った。
「だが、甘くはないぞ」
「分かってます」
「分かっていない」
即答だった。
「剣術部門は、全学年が参加する。上級生もいる。第一課程もいる。お前より長く、剣を剣として振ってきた者が山ほどいる」
その言葉は、響きほど冷たかくはなかった。
「お前は勝てないかもしれない」
「それでも出ます」
今度は、すぐに答えられた。
「勝てなくても、記録には残りますか」
ヴィオラ先生の目が、少しだけ細くなった。
「残る」
短い言葉だった。
けれど、今の俺には十分だった。
「なら、出ます」
ヴィオラ先生は少しだけ沈黙したあと、申請用紙を一枚渡してきた。
「書け」
俺はその紙を受け取った。そこに、アレン・ノーツ、と書く。参加部門の欄に、剣術部門、と書く。
まだ何も勝っていない。
まだ何も証明していない。
それでも、その紙の上には、俺の名前があった。
俺が、自分で選んだ部門の隣に。
「ノーツ。剣で残すなら、剣で勝て」
ヴィオラ先生は言った。
「お前の不可解な力で勝ったものは、少なくとも剣術部門の記録にはならない」
分かっている。
いや、分かり始めている。
それは少し悔しいけれど、だからこそ意味があるのだと思った。
「はい」
俺は頷いた。
教室の後ろで、アイリスがこちらを見ていた。
少し不安そうな顔だった。
でも、止めなかった。
それが、少しだけ嬉しかった。
―――
帰り際、シオンが俺の隣に並んだ。
「聞いたぞ、アレン。貴様も剣術部門に出るらしいな」
「ああ」
「ふっ。ついに貴様も、剣という仮面の深淵に足を踏み入れるか」
「普通に大会に出るだけだ」
「甘い。白冠杯は、魂に名を刻む戦場だ」
言い方は大げさだった。
でも、今日は少しだけ分かる気がした。
「シオン」
「何だ」
「剣術部門、よろしく」
シオンは一瞬だけ黙った。
それから、右腕の包帯を押さえ、いつもの顔で笑った。
「よかろう。我が封印されし剣が、貴様の未熟を暴いてやる」
「封印されているのは魔術じゃなかったか」
「そこは別枠だ」
「便利だな、封印」
シオンは笑った。
俺も少しだけ笑った。
――剣なら、剣として
白冠杯。年に二度、学園の実技が記録される場所。
そこで俺は、剣術部門に出る。
俺の力ではなく。
俺の剣で。
俺の名前に、俺のしたことを残すために。




