第十二.五話「二通の手紙は、まだ名前を呼ばなかった。」
エルノートでの別れの夜、アレンはよく眠っていた。
火の向こうで、小さな寝息が聞こえる。昼間は別れをあれほど重たそうに背負っていたくせに、眠ってしまえばただの子どもになる。
父は、その顔をしばらく見ていた。
まだ、自分の力に名前を持たない顔だった。
夜の街道は静かだった。
町を出て、半日ほど進んだ先の野営地。細い川が近くを流れ、石を撫でる水音だけが、火のはぜる音に混じっている。
父は鞄を開けた。
取り出したのは、二枚の紙だった。
一枚は厚く、白い紙だった。旅の途中で使うには上等すぎる、折り目をつけることさえ少しためらうような紙。火の色を受けても、そこだけ夜から浮いて見えた。
もう一枚は薄い紙だった。どこにでもある、折り目のつきやすい紙。けれど父は、そちらも同じくらい慎重に火のそばへ置いた。
父は筆を持ったまま、しばらく何も書かなかった。
書くべきことは多い。
書いてはいけないことは、それより多い。
火が小さく爆ぜた。火の向こうで、アレンが少しだけ寝返りを打つ。髪の毛先は、今はもう黒い。森の祠で漏れた白も、あの夜の紋章具の光も、今はどこにも見えない。
やっぱり、ただの子どもに見える。だからこそ、父は少しだけ目を細めた。ただの子どもとして眠っていられる時間を、どれほど守れるだろうか。
力に名前をつける者は、いつも外からやってくる。
呼び名は違っても、どれも似たようなものだった。名前を与えた瞬間、人はその子を、その名の形でしか見なくなる。
父が守りたいのは、力ではない。アレンという名の方だ。
父はようやく、厚い紙に筆を下ろした。
文字は少なかった。少なすぎるほどだった。けれど、その数行を書くのに、長い時間がかかった。何度も筆が止まり、何度も言葉が削られた。
父は読み返さなかった。
読み返せば、余計な一文を書き足したくなる。
昔の名を、昔の借りを、昔の約束を、紙の上に引きずり出したくなる。
それをしてはいけない。
父は封をした。
宛名は書かなかった。
書かなくても届く相手だった。
次に、薄い紙を手に取る。
こちらには、さらに長く筆が落ちなかった。
火の向こうで、アレンの寝息が続いている。
薄い紙には、厚い紙より少しだけ長く書いた。けれど、それでも短かった。
頼みを言葉にしすぎれば、願いは命令に似てくる。
だから父は、頼みを減らした。
言葉を減らした。
最後に、小さく名を書く。
その名は、火の揺れに隠れて読めなかった。
父は封をしようとして、ふと手を止めた。
何かを思い出したように、もう一度だけ紙を開く。
筆の先が、迷うように宙で止まった。
それから、端の方に小さく書き添える。
迷わない石は、まだ彼の手の中にある。
父は、その一文をしばらく見ていた。
それ以上は書かなかった。
薄い紙を折り、封をする。
二通の手紙が、火のそばに並んだ。
一通には、宛名がなかった。
もう一通には、名があった。
けれど、どちらの手紙も、まだアレンの名前を呼んではいなかった。
それでいい、と父は思った。
まだ、呼ばせるわけにはいかない。
夜明け前、街道の向こうから馬の蹄の音が近づいてきた。
音は一つ。
急いでいるのに、騒がしくはない。暗い道に慣れた者の走り方だった。
父は火を小さくし、二通の手紙を懐に入れて立ち上がった。
アレンはまだ眠っている。起こす必要はなかった。
道の端に、黒い外套の配達人が止まった。
顔は見えない。
言葉もない。
父は二通の手紙を渡した。
配達人は封を確かめると、一度だけ浅く頷いた。
それだけだった。
手紙は、言葉の少ない者に預ける方がいい。
配達人は馬首を返した。
東の空は、まだ青くなる前だった。夜と朝の境目に、細い白が一筋だけ差している。
蹄の音が遠ざかっていく。
誰へ送ったのか、アレンは知らない。
どこへ届くのかも知らない。
そこに何が書かれていたのかも、まだ知らない。
ただ、二通の手紙だけが、彼より先に未来へ向かった。
父は野営地へ戻った。
火はほとんど灰になっていた。アレンはまだ眠っている。何も知らない顔で、何も知らないまま朝を待っている。
父は毛布を、ほんの少しだけ肩まで引き上げた。
「まだだ」
誰に向けた言葉だったのか、自分でも分からなかった。
アレンにか。
世界にか。
それとも、まだ名を呼ぼうとしている誰かにか。
夜明けの風が、灰を少しだけ揺らした。
父は立ち上がる。
朝が来る。
旅は続く。
そして、二通の手紙はもう戻らない。




