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世界最強の俺を、幼馴染が全力で落ちこぼれにしてくる件  作者: 浪留
第二章:没落貴族の少女

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第十二話「朝の別れは、白い丘へ続いていた。」

 父さんの鞄は、もう口を閉じていた。


 乾いたパン。替えの布。古びた地図。小さな薬瓶。旅に必要なものは、いつも驚くほど少ない。けれど、そこに詰められなかったものほど、なぜか背中に重く残る。


 窓の外には、エルノートの朝があった。

 市場へ向かう荷車の音。井戸端で水を汲む女の人たちの声。屋根の上を渡っていく白い鳥。あの夜、松明の赤に染まっていた町は、もう何事もなかったみたいに朝の色をしている。

 丘の上の屋敷も、静かだった。

 空に浮かんだ剣と月桂樹の紋章はもうない。青黒い光もない。誰かの怒声も、松明の火もない。ただ、少し煤けた門と、蔦に覆われた壁が、朝の中に残っていた。


「行くのか」


 父さんが言った。

 僕は頷いた。


「言ってくる」


 父さんはすぐには何も言わなかった。ただ、鞄の結び目を一度だけ指で押さえて「別れは、ちゃんと置いていけ」と口を開いた。


「置いていく?」


「黙って去ると、あとで重くなる」


 僕は扉へ向かった。すると、また背中に父さんの声がした。


「アレン」


「何?」


「言い残しはするな。だが、言えないことまで無理に言うな」


 振り返ると、父さんはもうこちらを見ていなかった。窓の外を見ていた。丘の上の屋敷を見ているようで、その向こうにある、僕にはまだ見えない場所を見ているようだった。



 宿を出ると、町はいつも通りだった。

 石畳を荷車が鳴らし、パン屋の煙突から白い煙が上がり、通りの端では子どもたちが昨日と同じように走っている。

 何も変わっていない。


 町は、別れの気配なんて知らない顔をしていた。


 僕は丘の上の屋敷へ向かった。そんなに長くこの町にいたわけじゃないけど、何度も歩いた道だった。石畳の欠けた場所も、曲がり角の古い看板も、坂の途中にある小さな井戸も、もう覚えている。


 なのに、その日は少しだけ遠かった。

 一歩進んでも、屋敷が近づかない気がした。角を曲がれば門が見えるはずなのに、坂道がいつもより長く伸びているように見える。


 足が重いわけではない。

 道に迷っているわけでもない。

 ただ、僕の中のどこかが、屋敷に着くことを少しだけ嫌がっていた。

 会いたくないわけじゃないのに。


 ふと、足元の影が揺れた。

 風のせいではなかったと思う。石畳の隙間が、一瞬だけ深くなって、坂の先が薄い靄の向こうへ引っ込んだように見えた。


 世界が、僕の気持ちを拾ったのかもしれない。

 ほんの少しだけ、道を遠ざけるみたいに。

 僕は立ち止まって、息を吸った。


「だめだ」

 小さく呟く。


 別れを先に延ばしたって、別れがなくなるわけじゃない。

 僕はもう一度、丘の上を見た。屋敷は、ちゃんとそこにあった。少し煤けた門。蔦に覆われた壁。朝の光を受けて、古い屋敷は何も知らない顔で立っている。

 僕は歩き出した。

 さっきより少しだけ、坂は短くなった気がした。



 屋敷の門の内側に、折れた木剣が立てかけられていた。

 布はもう外されている。折れた先もそのままだ。無理に直してもいないし、どこかへ片付けてもいない。あの夜、クレアの手の中で折れたものが、まるで最初からそこに置かれることを決められていたみたいに、古い壁にもたれていた。

 クレアは、その少しそばにいた。


 今日は木剣を振っていなかった。壊れた石畳の隙間に生えた草を抜き、倒れた鉢を直し、門の傷に残った煤を布で拭っている。戦うためではなく、ここで生きていくための動きだった。

 僕に気づくと、クレアは手を止めた。


「アレンさん」

 いつものように背筋を伸ばす。けれど、その手には布が握られていた。


「今日は、鍛錬じゃないんだ」


「はい。休むことも鍛錬だと、昨日思い出しました」


「それ、忘れてたんだ」


「少しだけ」


 クレアはそう言って、ほんの少し笑った。

 その笑い方は、初めて会った時より柔らかい。けれど、その柔らかさの奥に、まだ疲れが残っていることも分かった。

 前なら、気づかなかったと思う。

 強い人は、疲れないわけではない。

 そういう当たり前のことを、この町で何度か見せられた。


 僕は、門の内側に立てかけられた木剣へ視線を移した。

「あれ、まだそこにあるんだ」


 そう言うと、クレアも木剣を見た。

「はい」


「捨てないの?」


「捨てません」

 返事は早かった。


 少しだけ意外だった。折れた木剣なんて、使えない。使えないものは、普通ならしまうか、捨てるか、直すかする。

 けれどクレアは、そうしなかった。


「直すの?」


「いいえ」


「じゃあ、どうするの?」


 クレアは少しだけ黙った。

 それから、折れた木剣を見たまま言った。


「見えるところに、置いておきます」


「どうして?」


「忘れないためです」

 その声は静かだった。


「私はあの夜、折れました。木剣だけではなく、たぶん私も少しだけ。けれど、折れたことを忘れたら、また同じ折れ方をする気がします」


 僕は何も言えなかった。

 折れたものを隠さない。けれど、折れたまま抱えて歩くわけでもない。見えるところに置いて、ときどき振り返る。

 たぶんクレアは、そうやって強くなる子なのだと思った。


 僕は少し黙ってから、言った。

「僕たち、そろそろこの町を出る」


 クレアは一度だけ瞬きをした。

 それだけだった。

 驚かなかったわけではないと思う。ただ、驚いた顔を、すぐにしまったのだと思う。彼女はそういうことを、とても静かにやる。


「そうですか」


 クレアは手にしていた布を畳んだ。端と端をそろえて、指先で皺を伸ばす。ほんの少しだけ、時間を稼いでいるように見えた。


「旅の方ですものね」


「うん」


「いつですか」


「明日か、明後日。父さん次第だけど、もう長くはないと思う」


「……寂しくなりますね」


 その声は落ち着いていた。

 落ち着いているからこそ、少し胸が痛かった。

 僕は何かを言おうとして、うまく出てこなかった。寂しいね、と返すのは簡単だった。けれど、それだけだと少し軽くなる気がした。

 だから、別のことを聞いた。


「クレアは、これからどうするの」


 クレアはすぐには答えなかった。

 庭に落ちた朝の光を見る。石畳の欠けた部分を見る。門の傷を見る。折れた木剣を見る。

 それから、顔を上げた。


「この屋敷を守ります」


 それは前にも聞いた言葉だった。

 けれど、今日はそこで終わらなかった。


「でも、ここにいるだけでは守れないものがあるのだと分かりました」


 風が、蔦の葉を小さく揺らした。


「あの夜、私は退きませんでした。けれど、退かなかっただけです。屋敷が応えてくれなければ、きっと私は何も守れなかった」


 僕は少しだけ息を止めた。

 その言葉は、正しい。

 正しいのに、胸の奥が少しだけ騒がしくなる。

 クレアは、自分一人の手柄にはしていなかった。それは嬉しいことのはずだった。けれど、その中に僕の名前はない。

 当たり前だ。

 僕は、そこに名前を置かないために黙っていたのだから。


「守りたいなら、守れるだけの力を持たなければなりません」

 クレアは言った。


「だから、外へ出ます」


「外?」


「王立エリュシオン学園を目指します」


 エリュシオン。

 初めて聞く名前だった。

 なのに、耳の奥に残る。白い響きだった。遠くにある丘の上で、知らない旗が風に揺れているような名前。


「そこに行けば、強くなれるの?」


「分かりません。私次第です」


 クレアは答えた。

 けれど、不安だけの声ではなかった。


「家の古い推薦状が、まだ残っていました。使えるかは分かりません。試験もあります。準備しなければならないことも、足りないものも多いです」


「それでも行くの?」


「はい」

 クレアは頷いた。


「弱いことを知ったのなら、次は強くなる番です」


 その言葉は、きれいごとではなかった。

 折れた木剣の前で言うには、少し痛すぎるくらい、ちゃんと現実の重さを持っていた。

 それからクレアは、なぜか僕を見た。


「アレンさんも、剣の基礎は続けた方がいいと思います」


「今、それ言う?」


「はい」


「別れの空気だったよね」


「別れの前だからこそ、言っておくべきかと」


 真面目だった。

 真面目すぎて、少しだけ笑いそうになった。


「そのままだと、危ないです。目はいいのに、身体の動き方が不安定ですから」


「やっぱり、戦うことには向いてない?」


「向いていないかもしれません」


 やっぱり刺さった。

 でも、前ほど痛くはなかった。

 クレアは少しだけ言葉を選ぶように、目を伏せた。


「けれど、あなたが弱い人だとは思いません」


 僕は黙った。

「剣が苦手なことと、弱いことは違います。うまく言えませんが……アレンさんは、逃げる人ではないと思います」


 その言葉は、思っていたより深いところに落ちた。

 僕は逃げている。

 力を隠している。言えないことも、言わないことも、たくさんある。それでもクレアは、逃げる人ではないと言った。

 それが正しいのかは分からない。

 けれど、そう見えているなら。

 少しだけ、嬉しかった。



 門の外に出ると、父さんがいた。待っていたのだと思う。

 父さんはクレアに軽く頭を下げた。クレアも丁寧に礼を返す。旅人と、この町に残る者の挨拶だった。


「世話になった」


 父さんが言った。

 それだけなのに、不思議と礼にはなっていた。


「こちらこそ。アレンさんには、鍛錬に付き合っていただきました」


「迷惑をかけなかったか」


「少しだけ」


「そこは否定してほしかったな」


「ですが、助かりました」


 クレアは真面目に答えた。

 父さんは少しだけ笑った。

 その笑みが消える前に、クレアは静かに言った。


「私は、王立エリュシオン学園を目指そうと思います」


 父さんの表情が、ほんの少しだけ変わった。

 本当に、ほんの少しだけだった。けれど僕には分かった。知らない名前を聞いた顔ではなかった。知っている名前を、聞きたくない時に聞いてしまった顔だった。


「……そうか」

 父さんは短く言った。


「ご存じですか」


「少しだけな」


 少しだけ。

 父さんの少しだけは、だいたい少しではない。


「悪い場所ではない」

 父さんは言った。


「だが、優しい場所でもない」


 クレアは静かに頷いた。

「承知しています」


「そうか。なら、いい」


 父さんはそれ以上、止めなかった。

 止める権利がないからなのか。止めるべきではないと思ったからなのか。それとも、止めても彼女が行くと分かったからなのか。

 僕には分からなかった。

 ただ、エリュシオンという名前の周りに、父さんの沈黙が薄く影を落とした。


 父さんは門の内側を見た。

 折れた木剣が、壁に立てかけられている。


「折れたものを持っていくな」


 ふいに、父さんが言った。

 クレアは少しだけ目を丸くした。


「木剣のことですか」


「ああ」


「捨てろ、ということですか」


「違う」

 父さんは首を振った。


「置いていけ。忘れないために」


 クレアはしばらく黙っていた。

 やがて、折れた木剣を見た。


「はい」

 彼女は静かに答えた。


「そうします」




別れはやっぱり予定通りで、その翌日に訪れた。


 その日、エルノートはよく晴れていた。

 雲は薄く、町の屋根には朝の光がかかっている。市場では店が開き始め、石畳の上を荷車がゆっくり通っていた。


 僕と父さんは、町の門へ向かった。

 荷物は少ない。

 けれど、背中は少し重かった。

 坂の上を振り返ると、クレアが屋敷の門の前に立っていた。

 あの夜とは違う。

 松明の赤もない。青黒い光もない。ただ、朝の中に立っている。

 折れかけた剣みたいな背筋ではなかった。まだ細くて、まだ危うくて、それでも前を向くことを決めた背中だった。


「アレンさん」


 遠くから、クレアが声をかけた。

 僕は足を止めた。


「また会う時は、今より少しだけ、まっすぐ構えていてください」


「……それ、剣の話?」


 クレアは少しだけ笑った。

「剣の話です」


 それから、朝の光の中で背筋を伸ばした。

「でも、それだけではありません」


 その言い方が、少しだけ彼女らしかった。

「では、また」


 また。


 その言葉が、思ったより胸に残った。


「うん。また」

 僕もそう返した。


 約束というには頼りない。

 でも、嘘ではなかった。

 父さんが歩き出す。

 僕もその後を追う。

 町の門を抜ける前に、もう一度だけ振り返った。クレアはまだ、屋敷の前に立っていた。



 彼女はこれから、白い丘を目指す。

 僕はまだ、その場所がどんなところなのか知らない。でも、いつかまた会う気がした。

 その時、彼女はきっと、僕のことを覚えている。

 剣の基礎が怪しい、戦うことに向いていない旅の少年として。

 それが少しだけ悔しかった。

 でも、不思議と嫌ではなかった。


 ―エリュシオン。


 その名前だけが、朝の光の中で、小さく胸に残っていた。

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