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世界最強の俺を、幼馴染が全力で落ちこぼれにしてくる件  作者: 浪留
第二章:没落貴族の少女

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第十一話「木剣は、隠し事に向いていなかった。」

 折れた木剣は、布に包まれて門のそばに置かれていた。


 あの夜までは、それはただの使い古された木剣だった。屋敷の庭で何度も振られ、柄の部分だけが少し黒ずみ、折れるその時まで、クレアの手の中で真っ直ぐであろうとした木剣。けれど今のエルノートでは、それは少しだけ違う意味を持ち始めていた。


 市場へ向かう人々は、屋敷の門の前を通るたびに足を緩める。井戸へ向かう女の人たちは声を潜め、子どもたちは遠くから「クレア先生」と呼んで手を振る。


 少し前まで、町の人たちはクレアを遠くから見ていた。憐れみと遠慮と、少しばかりの諦めを混ぜた目で。

 昔は立派な家のお嬢様だったのに。

 今はあんな屋敷に一人で。

 誇りだけでは、生きていけないのに。

 そういう言葉が、町の隅に薄く積もっていた。


 けれど今は違う。

 クレアが屋敷を守った。

あの家は、まだ終わっていなかった。

 空に浮かんだ剣と月桂樹の紋章を、確かに見た。

 噂は、朝の湯気みたいに町のあちこちから立ち上っている。

それは、悪いことではないはずだった。

 けれど距離というものは、不思議だった。

 遠ざけられることで生まれる距離もあれば、近づかれることで生まれる距離もある。

 町の人たちは、前よりクレアに近づいた。

でもその近さは、彼女を普通の少女から少しだけ遠ざけてもいた。




 僕が屋敷へ向かう坂道を上っていると、門の前で、年配の男がクレアに話しかけているのが見えた。


「クレア様。あの時の光は……やはり、お屋敷の紋章具だったんですか」


 クレアはすぐには答えなかった。

 門のそばに置かれた折れた木剣へ、一度だけ視線を落とす。


「私にも、すべては分かりません」

 彼女の声は静かだった。


「ただ、あの時、確かに屋敷の奥から何かが応えてくれたのだと思います」


「では、やはりクレア様が」


「いいえ」

 クレアは、そこで首を振った。


「私が守ったなどと、胸を張れるほどの力はありません。ですが、退かなかったことだけは、無意味ではなかったのだと……そう思いたいのです」


 男は感心したように頭を下げた。

「ご立派でした」


 その言葉に、クレアは困ったように微笑んだ。

 僕は坂の途中で足を止めた。


 違う。

 僕がやった。

 あの青黒い光の向きを変えたのは、僕だった。町へ届くはずだったものを、空へ逃がしたのは、僕だった。


 そう言いたかった。

 けれど、完全には違わない。

 クレアが立っていたから、町の人たちは彼女を見た。クレアが退かなかったから、あの紋章は彼女のものとして空に浮かんだ。僕が何かをしたとしても、彼女の背中がそこになければ、あの朝焼けは別の色をしていた気がする。

 だから僕は、何も言えなかった。

 ただ、胸の奥だけが少し騒がしかった。


「アレンさん」


 気づかれていた。

 クレアは男を見送ってから、こちらへ向き直った。


「聞いていましたか」


「少しだけ」


「そうですか」


 彼女は少し恥ずかしそうに、けれど逃げるようには見えない顔で、布に包まれた木剣を見た。


「あまり、胸を張れる話ではありません」


「でも、嘘ではないと思う」

 僕がそう言うと、クレアは少しだけ目を丸くした。


「そうでしょうか」


「うん。きっと」


「きっと、ですか」


「そこは自信ない」


 クレアは小さく笑った。

 けれど、その笑いはすぐに静まった。


「ですが、私は弱いです」

 彼女は折れた木剣を、そっと布の上へ戻した。


「退かないことと、守れることは、やはり違います。あの夜、それを思い知りました」

 その手つきは、壊れたものを悼むというより、まだ終わっていないものを置くようだった。


「でも、町の人たちはクレアを見る目を変えたよ」


「はい。ありがたいことです」


 クレアは門の向こうへ目を向けた。

「それ自体は、嬉しくないわけではありません。ですが……少しだけ、やりにくさもあります」


「やりにくい?」


「はい。子どもたちは私を前より褒めてくれます。大人の方々も、何かと気にかけてくださいます。でも、そのせいか、私が失敗しても、誰も失敗として扱わなくなりました」


 クレアは、布に包まれた木剣を見下ろした。

「私はまだ、強くなったわけではありません。なのに、少しだけ強くなった人のように扱われています」


 その言葉は静かだった。

 誇らしさではなく、困惑に近かった。


「だから、鍛錬をします」


「……うん」


「アレンさん」

 嫌な予感がした。


「よければ、少し付き合っていただけませんか」


「僕が?」


「はい」


「剣、得意じゃないよ」


「得意だとは思っていません」


「それもなかなか傷つくね」


「すみません。ですが、悪い意味ではありません」


 クレアは少しだけ目を伏せた。

「アレンさんは、私を変に褒めません。あの夜のことで、私を特別な人のようにも扱いません。それが、ありがたいのです」


「ありがたいんだ」


「はい」


 クレアは真面目な顔で頷いた。

「私も、変に格好をつけずに済みます」


 その言い方は、少しだけ意外だった。


「格好をつけてたの?」


「つけています」

 クレアはあっさり言った。


「かなり」


「そうなんだ」


「そうです」


 彼女は折れた木剣を見た。

「だから、たまには羽を休めていい相手が必要なのだと思います」


 そこまで言われると、断りづらかった。

「それ、僕でいいの?」


「はい」


「理由は?」


「剣が得意ではなさそうなので」


「結局そこなんだ」


「それに、あなたは笑わないと思いました」


 その一言だけ、少し声が柔らかかった。

 悪意はなかった。

 悪意がないから、余計に逃げ場がなかった。




 最初の日、僕は木剣の持ち方から直された。


 屋敷の庭は、朝の光を受けてもまだ少し暗かった。蔦の影が壁を這い、壊れた石畳の隙間から細い草が伸びている。門の方には踏み荒らされた土が残り、松明の煤が風に薄く流れていた。


 クレアは古い物置から予備の木剣を二本持ってきた。

 その一本を受け取った瞬間、僕は少しだけ困った。

 思っていたより重い。

 ただの木なのに、手の中で妙に居心地が悪かった。石ならまだ分かる。投げるものだ。けれど木剣は、握った瞬間に「どう振るのか」を問うてくる。

 僕は、その問いに答えられなかった。


「構えてください」


 言われて、僕は木剣を前に出した。

 たぶん、剣士っぽく。

 たぶん、普通に。

 けれど、クレアはその瞬間、少しだけ黙った。


「……何?」


「いえ」


「今の沈黙、かなり嫌だったんだけど」


「すみません。考えていました」


「何を?」


「どこから直すべきかを」


「そんなに?」


「はい」

 即答だった。


 木剣は、持っているだけで人を傷つけることがあるらしい。


「アレンさんは、剣を誰かに教わったことがありますか?」


「ないと思う」


「思う?」


「父さんが木の枝を持ってるのは見たことある」


「それは教わったとは言いません」


「だよね」


 クレアは僕の足元を見た。

「まず、足です。今のままだと、押された時にすぐ崩れます」


「そんなに変?」


「はい」


「少しは迷って」


「迷うと危ないので」


 クレアは僕の足の位置を示しながら、丁寧に直してくれた。

 真面目で、容赦がなくて、でも馬鹿にするようなところは一つもなかった。


「重心はもう少し低く。握りは硬すぎます。剣先だけを見ると動きが遅れます。相手の肩と足を見てください」


「情報が多い」


「戦う時はもっと多いです」


「向いてない気がしてきた」


「今のところは、向いていません」


「励まして」


「向いていないことと、できないことは違います」


「励まし方が先生っぽい」


「先生ではありません」


「クレア先生って呼ばれてるのに?」


「それは子どもたちが勝手に呼んでいるだけです」


 クレアは少しだけ不満そうだった。

 その顔が少しおかしくて、僕は笑いそうになった。


 けれど次の瞬間、クレアの木剣が動いた。

 軽い打ち込み。

 受けるつもりだった。

 でも、遅れた。

 木剣が肩に当たる。


「痛っ」


「今のは避けるか受けるか、どちらかにしてください」


「どっちもできなかった」


「それが一番危険です」


 クレアは本気で心配していた。

 だから、余計に少し悔しかった。



 次の日も、その次の日も、僕は屋敷の庭にいた。

 最初は、鍛錬に付き合うというより、鍛錬の邪魔をしに行っているようなものだった。クレアが打ち込む。僕が遅れる。受け損なう。足の置き方を間違える。たまに変な避け方をする。

 そのたびに、クレアは眉を寄せた。


「今の動きは……」


「変だった?」


「変でした」


「もう少し柔らかく言えない?」


「不自然でした」


「柔らかくなってない」


 クレアは真面目な顔のまま、僕の足元を見た。

「身体の使い方を知らない人の動きです。ですが、距離だけは妙に取れています」


「偶然だと思う」


「偶然でそれができるなら、なおさら危ないです」


「危ない?」


「自分で分からずに動けてしまう人は、自分で自分を壊します」


 その言い方に、少しだけ胸が詰まった。

 クレアは、僕を責めているわけではない。ただ、見ている。木剣を持った僕の不器用さを、まっすぐに見ている。


「アレンさんは、目はいいです。反応も悪くありません。でも、身体がついてきていないというより……身体だけが、勝手に逃げているように見えます」


 僕は何も言えなかった。

 その目に、嘘は通じなかった。


 鍛錬が続くうちに、町の人たちが庭の外を通りかかることも増えた。子どもたちは「クレア先生、がんばれ」と声をかける。大人たちは微笑ましそうに見守る。

 誰もクレアの失敗を、失敗として見ようとはしない。

 クレアはそのたびに礼儀正しく頷いた。

 けれど、木剣を握る手に、ほんの少しだけ力が入るのを僕は見た。

 優しくされることが、いつも楽なこととは限らない。

 失敗を笑われない場所は、優しい。

 でも、失敗を見てもらえない場所は、少し寂しい。

 だから彼女は、僕の下手な構えに付き合った。

 僕は弱いから。

 特別扱いを知らない旅人だから。

 そしてたぶん、彼女が崩れたところを見ても、笑わないと思われているから。



 三度目の鍛錬の日、僕はすっかり疲れていた。

 肉体的にというより、気を遣うことに疲れていた。普通より少し遅く。でも、遅すぎないように。避けすぎず、受けすぎず、力を入れず、入れなさすぎず。

 そんなことを考えながら木剣を振ると、剣というより、嘘を振っているみたいだった。

 そして木剣は、嘘をつくのが下手だった。



「一度休みましょう」

 クレアが言った。


 庭の端に腰を下ろすと、昼に近い光が石畳の上で揺れていた。クレアは少し離れた場所に立ったまま、木剣の柄を布で拭いている。


「アレンさん」


「何?」


「失礼な言い方かもしれませんが」


「今日だけで何回目?」


「戦うことには、あまり向いていないのかもしれません」


 やっぱり刺さった。

 分かっていたのに。

 そう見えるようにしていたのに。

 それでも、実際にそう言われると、胸の奥が少しだけ熱くなる。


「そっか」


「ですが、向いていないことと、価値がないことは違います」


 クレアはまっすぐ言った。


「弱いことは恥ではありません。弱い自分を認めないまま、強いふりだけをすることの方が危ういのです」


 それは優しさだった。

 たぶん、励ましだった。

 でも僕は、少しだけ言いたくなった。

 違う。

 僕は弱いわけじゃない。

 あの夜、君を守った。

 青黒い光の向きを変えた。

 屋敷に届くはずだったものを、空へ逃がした。

 そう言いたかった。

 けれど、言えなかった。


 言った瞬間、あの朝クレアが守ったものを、僕が奪ってしまう気がしたから。


「クレアはさ」


「はい」


「弱い自分を、強いと言い聞かせてない?」


 言ってから、しまったと思った。

 クレアの手が止まる。

 庭の草が、風に小さく揺れた。


「……そんな時も、あると思います」


 意外な答えだった。

 クレアは怒らなかった。ただ、折れた木剣の置かれた方を見る。


「でも、強くあろうとすることまで、嘘だとは思いたくありません」


 クレアは静かに言った。

「最初は形だけでも、何度も繰り返しているうちに、本当にその形に近づけることもある。そうでなければ、私は困ります」


 その言葉は、少しだけ笑っていた。でも、その笑いには影があった。

 僕は何も言えなかった。

 クレアは弱い自分を知っている。知っていて、それでも立っている。だからこそ、僕の不器用さを笑わないのだと思った。

 そして、だからこそ僕は、自分のことを言えなくなった。

 弱いと思われることは悔しい。

 でも、弱くないと言うために彼女の立った場所を奪うのは、もっと違う気がした。



 宿へ戻ると、父さんは荷物をまとめていた。

 旅に出る時の手つきだった。

 急いでいるわけではない。けれど、確かに終わりへ向かう手つきだった。

 この町にも、もう長くはいない。

 そういうことなのだと、言葉にされなくても分かった。


「そろそろ?」


「ああ」

 父さんは短く答えた。


「まだ、クレアに何も言ってない」


「すぐではない。だが、長くもない」


 父さんは荷紐を結び終えると、鞄を部屋の隅へ置いた。

「別れは、早すぎても遅すぎても重くなる。だが、少しずつ重くなる時間も必要だ」


 僕は窓の外を見た。

 丘の上の屋敷は、昼の光の中で静かに立っている。あの朝、空に浮かんだ剣と月桂樹の紋章はもうない。けれど、あの光を見た町の人たちは、きっとしばらく忘れないだろう。


「クレアは、これからどうするのかな」


「立ち続けるだろうな」


「ずっと、この町で?」


 父さんはすぐには答えなかった。

「あの子がどこに立つかは、あの子が決めることだ」


 僕は何も言えなかった。

 数日間、クレアは僕を戦うことに向いていない人として見た。父さんは、クレアは自分で立つ場所を決めると言った。

 その二つの言葉が、胸の中で妙に並んで残った。


 僕はいつか、自分で立つ場所を選べるのだろうか。

 それともずっと、誰かに隠される場所でしか、立てないのだろうか。



 父さんの荷物が、部屋の隅にある。

 ただそれだけなのに、部屋の広さが少し変わったように感じた。


 別れは、まだ来ていない。

 けれど、もう部屋の中に入ってきている。


 丘の上の屋敷は、昼の光の中で静かに立っていた。

 クレアは、これから自分の立つ場所を決める。

 僕はまだ、自分がどこに立ちたいのかも分からない。


 ただ、荷物の置かれた音だけが、しばらく耳の奥に残っていた。

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