第十一話「木剣は、隠し事に向いていなかった。」
折れた木剣は、布に包まれて門のそばに置かれていた。
あの夜までは、それはただの使い古された木剣だった。屋敷の庭で何度も振られ、柄の部分だけが少し黒ずみ、折れるその時まで、クレアの手の中で真っ直ぐであろうとした木剣。けれど今のエルノートでは、それは少しだけ違う意味を持ち始めていた。
市場へ向かう人々は、屋敷の門の前を通るたびに足を緩める。井戸へ向かう女の人たちは声を潜め、子どもたちは遠くから「クレア先生」と呼んで手を振る。
少し前まで、町の人たちはクレアを遠くから見ていた。憐れみと遠慮と、少しばかりの諦めを混ぜた目で。
昔は立派な家のお嬢様だったのに。
今はあんな屋敷に一人で。
誇りだけでは、生きていけないのに。
そういう言葉が、町の隅に薄く積もっていた。
けれど今は違う。
クレアが屋敷を守った。
あの家は、まだ終わっていなかった。
空に浮かんだ剣と月桂樹の紋章を、確かに見た。
噂は、朝の湯気みたいに町のあちこちから立ち上っている。
それは、悪いことではないはずだった。
けれど距離というものは、不思議だった。
遠ざけられることで生まれる距離もあれば、近づかれることで生まれる距離もある。
町の人たちは、前よりクレアに近づいた。
でもその近さは、彼女を普通の少女から少しだけ遠ざけてもいた。
僕が屋敷へ向かう坂道を上っていると、門の前で、年配の男がクレアに話しかけているのが見えた。
「クレア様。あの時の光は……やはり、お屋敷の紋章具だったんですか」
クレアはすぐには答えなかった。
門のそばに置かれた折れた木剣へ、一度だけ視線を落とす。
「私にも、すべては分かりません」
彼女の声は静かだった。
「ただ、あの時、確かに屋敷の奥から何かが応えてくれたのだと思います」
「では、やはりクレア様が」
「いいえ」
クレアは、そこで首を振った。
「私が守ったなどと、胸を張れるほどの力はありません。ですが、退かなかったことだけは、無意味ではなかったのだと……そう思いたいのです」
男は感心したように頭を下げた。
「ご立派でした」
その言葉に、クレアは困ったように微笑んだ。
僕は坂の途中で足を止めた。
違う。
僕がやった。
あの青黒い光の向きを変えたのは、僕だった。町へ届くはずだったものを、空へ逃がしたのは、僕だった。
そう言いたかった。
けれど、完全には違わない。
クレアが立っていたから、町の人たちは彼女を見た。クレアが退かなかったから、あの紋章は彼女のものとして空に浮かんだ。僕が何かをしたとしても、彼女の背中がそこになければ、あの朝焼けは別の色をしていた気がする。
だから僕は、何も言えなかった。
ただ、胸の奥だけが少し騒がしかった。
「アレンさん」
気づかれていた。
クレアは男を見送ってから、こちらへ向き直った。
「聞いていましたか」
「少しだけ」
「そうですか」
彼女は少し恥ずかしそうに、けれど逃げるようには見えない顔で、布に包まれた木剣を見た。
「あまり、胸を張れる話ではありません」
「でも、嘘ではないと思う」
僕がそう言うと、クレアは少しだけ目を丸くした。
「そうでしょうか」
「うん。きっと」
「きっと、ですか」
「そこは自信ない」
クレアは小さく笑った。
けれど、その笑いはすぐに静まった。
「ですが、私は弱いです」
彼女は折れた木剣を、そっと布の上へ戻した。
「退かないことと、守れることは、やはり違います。あの夜、それを思い知りました」
その手つきは、壊れたものを悼むというより、まだ終わっていないものを置くようだった。
「でも、町の人たちはクレアを見る目を変えたよ」
「はい。ありがたいことです」
クレアは門の向こうへ目を向けた。
「それ自体は、嬉しくないわけではありません。ですが……少しだけ、やりにくさもあります」
「やりにくい?」
「はい。子どもたちは私を前より褒めてくれます。大人の方々も、何かと気にかけてくださいます。でも、そのせいか、私が失敗しても、誰も失敗として扱わなくなりました」
クレアは、布に包まれた木剣を見下ろした。
「私はまだ、強くなったわけではありません。なのに、少しだけ強くなった人のように扱われています」
その言葉は静かだった。
誇らしさではなく、困惑に近かった。
「だから、鍛錬をします」
「……うん」
「アレンさん」
嫌な予感がした。
「よければ、少し付き合っていただけませんか」
「僕が?」
「はい」
「剣、得意じゃないよ」
「得意だとは思っていません」
「それもなかなか傷つくね」
「すみません。ですが、悪い意味ではありません」
クレアは少しだけ目を伏せた。
「アレンさんは、私を変に褒めません。あの夜のことで、私を特別な人のようにも扱いません。それが、ありがたいのです」
「ありがたいんだ」
「はい」
クレアは真面目な顔で頷いた。
「私も、変に格好をつけずに済みます」
その言い方は、少しだけ意外だった。
「格好をつけてたの?」
「つけています」
クレアはあっさり言った。
「かなり」
「そうなんだ」
「そうです」
彼女は折れた木剣を見た。
「だから、たまには羽を休めていい相手が必要なのだと思います」
そこまで言われると、断りづらかった。
「それ、僕でいいの?」
「はい」
「理由は?」
「剣が得意ではなさそうなので」
「結局そこなんだ」
「それに、あなたは笑わないと思いました」
その一言だけ、少し声が柔らかかった。
悪意はなかった。
悪意がないから、余計に逃げ場がなかった。
最初の日、僕は木剣の持ち方から直された。
屋敷の庭は、朝の光を受けてもまだ少し暗かった。蔦の影が壁を這い、壊れた石畳の隙間から細い草が伸びている。門の方には踏み荒らされた土が残り、松明の煤が風に薄く流れていた。
クレアは古い物置から予備の木剣を二本持ってきた。
その一本を受け取った瞬間、僕は少しだけ困った。
思っていたより重い。
ただの木なのに、手の中で妙に居心地が悪かった。石ならまだ分かる。投げるものだ。けれど木剣は、握った瞬間に「どう振るのか」を問うてくる。
僕は、その問いに答えられなかった。
「構えてください」
言われて、僕は木剣を前に出した。
たぶん、剣士っぽく。
たぶん、普通に。
けれど、クレアはその瞬間、少しだけ黙った。
「……何?」
「いえ」
「今の沈黙、かなり嫌だったんだけど」
「すみません。考えていました」
「何を?」
「どこから直すべきかを」
「そんなに?」
「はい」
即答だった。
木剣は、持っているだけで人を傷つけることがあるらしい。
「アレンさんは、剣を誰かに教わったことがありますか?」
「ないと思う」
「思う?」
「父さんが木の枝を持ってるのは見たことある」
「それは教わったとは言いません」
「だよね」
クレアは僕の足元を見た。
「まず、足です。今のままだと、押された時にすぐ崩れます」
「そんなに変?」
「はい」
「少しは迷って」
「迷うと危ないので」
クレアは僕の足の位置を示しながら、丁寧に直してくれた。
真面目で、容赦がなくて、でも馬鹿にするようなところは一つもなかった。
「重心はもう少し低く。握りは硬すぎます。剣先だけを見ると動きが遅れます。相手の肩と足を見てください」
「情報が多い」
「戦う時はもっと多いです」
「向いてない気がしてきた」
「今のところは、向いていません」
「励まして」
「向いていないことと、できないことは違います」
「励まし方が先生っぽい」
「先生ではありません」
「クレア先生って呼ばれてるのに?」
「それは子どもたちが勝手に呼んでいるだけです」
クレアは少しだけ不満そうだった。
その顔が少しおかしくて、僕は笑いそうになった。
けれど次の瞬間、クレアの木剣が動いた。
軽い打ち込み。
受けるつもりだった。
でも、遅れた。
木剣が肩に当たる。
「痛っ」
「今のは避けるか受けるか、どちらかにしてください」
「どっちもできなかった」
「それが一番危険です」
クレアは本気で心配していた。
だから、余計に少し悔しかった。
次の日も、その次の日も、僕は屋敷の庭にいた。
最初は、鍛錬に付き合うというより、鍛錬の邪魔をしに行っているようなものだった。クレアが打ち込む。僕が遅れる。受け損なう。足の置き方を間違える。たまに変な避け方をする。
そのたびに、クレアは眉を寄せた。
「今の動きは……」
「変だった?」
「変でした」
「もう少し柔らかく言えない?」
「不自然でした」
「柔らかくなってない」
クレアは真面目な顔のまま、僕の足元を見た。
「身体の使い方を知らない人の動きです。ですが、距離だけは妙に取れています」
「偶然だと思う」
「偶然でそれができるなら、なおさら危ないです」
「危ない?」
「自分で分からずに動けてしまう人は、自分で自分を壊します」
その言い方に、少しだけ胸が詰まった。
クレアは、僕を責めているわけではない。ただ、見ている。木剣を持った僕の不器用さを、まっすぐに見ている。
「アレンさんは、目はいいです。反応も悪くありません。でも、身体がついてきていないというより……身体だけが、勝手に逃げているように見えます」
僕は何も言えなかった。
その目に、嘘は通じなかった。
鍛錬が続くうちに、町の人たちが庭の外を通りかかることも増えた。子どもたちは「クレア先生、がんばれ」と声をかける。大人たちは微笑ましそうに見守る。
誰もクレアの失敗を、失敗として見ようとはしない。
クレアはそのたびに礼儀正しく頷いた。
けれど、木剣を握る手に、ほんの少しだけ力が入るのを僕は見た。
優しくされることが、いつも楽なこととは限らない。
失敗を笑われない場所は、優しい。
でも、失敗を見てもらえない場所は、少し寂しい。
だから彼女は、僕の下手な構えに付き合った。
僕は弱いから。
特別扱いを知らない旅人だから。
そしてたぶん、彼女が崩れたところを見ても、笑わないと思われているから。
三度目の鍛錬の日、僕はすっかり疲れていた。
肉体的にというより、気を遣うことに疲れていた。普通より少し遅く。でも、遅すぎないように。避けすぎず、受けすぎず、力を入れず、入れなさすぎず。
そんなことを考えながら木剣を振ると、剣というより、嘘を振っているみたいだった。
そして木剣は、嘘をつくのが下手だった。
「一度休みましょう」
クレアが言った。
庭の端に腰を下ろすと、昼に近い光が石畳の上で揺れていた。クレアは少し離れた場所に立ったまま、木剣の柄を布で拭いている。
「アレンさん」
「何?」
「失礼な言い方かもしれませんが」
「今日だけで何回目?」
「戦うことには、あまり向いていないのかもしれません」
やっぱり刺さった。
分かっていたのに。
そう見えるようにしていたのに。
それでも、実際にそう言われると、胸の奥が少しだけ熱くなる。
「そっか」
「ですが、向いていないことと、価値がないことは違います」
クレアはまっすぐ言った。
「弱いことは恥ではありません。弱い自分を認めないまま、強いふりだけをすることの方が危ういのです」
それは優しさだった。
たぶん、励ましだった。
でも僕は、少しだけ言いたくなった。
違う。
僕は弱いわけじゃない。
あの夜、君を守った。
青黒い光の向きを変えた。
屋敷に届くはずだったものを、空へ逃がした。
そう言いたかった。
けれど、言えなかった。
言った瞬間、あの朝クレアが守ったものを、僕が奪ってしまう気がしたから。
「クレアはさ」
「はい」
「弱い自分を、強いと言い聞かせてない?」
言ってから、しまったと思った。
クレアの手が止まる。
庭の草が、風に小さく揺れた。
「……そんな時も、あると思います」
意外な答えだった。
クレアは怒らなかった。ただ、折れた木剣の置かれた方を見る。
「でも、強くあろうとすることまで、嘘だとは思いたくありません」
クレアは静かに言った。
「最初は形だけでも、何度も繰り返しているうちに、本当にその形に近づけることもある。そうでなければ、私は困ります」
その言葉は、少しだけ笑っていた。でも、その笑いには影があった。
僕は何も言えなかった。
クレアは弱い自分を知っている。知っていて、それでも立っている。だからこそ、僕の不器用さを笑わないのだと思った。
そして、だからこそ僕は、自分のことを言えなくなった。
弱いと思われることは悔しい。
でも、弱くないと言うために彼女の立った場所を奪うのは、もっと違う気がした。
宿へ戻ると、父さんは荷物をまとめていた。
旅に出る時の手つきだった。
急いでいるわけではない。けれど、確かに終わりへ向かう手つきだった。
この町にも、もう長くはいない。
そういうことなのだと、言葉にされなくても分かった。
「そろそろ?」
「ああ」
父さんは短く答えた。
「まだ、クレアに何も言ってない」
「すぐではない。だが、長くもない」
父さんは荷紐を結び終えると、鞄を部屋の隅へ置いた。
「別れは、早すぎても遅すぎても重くなる。だが、少しずつ重くなる時間も必要だ」
僕は窓の外を見た。
丘の上の屋敷は、昼の光の中で静かに立っている。あの朝、空に浮かんだ剣と月桂樹の紋章はもうない。けれど、あの光を見た町の人たちは、きっとしばらく忘れないだろう。
「クレアは、これからどうするのかな」
「立ち続けるだろうな」
「ずっと、この町で?」
父さんはすぐには答えなかった。
「あの子がどこに立つかは、あの子が決めることだ」
僕は何も言えなかった。
数日間、クレアは僕を戦うことに向いていない人として見た。父さんは、クレアは自分で立つ場所を決めると言った。
その二つの言葉が、胸の中で妙に並んで残った。
僕はいつか、自分で立つ場所を選べるのだろうか。
それともずっと、誰かに隠される場所でしか、立てないのだろうか。
父さんの荷物が、部屋の隅にある。
ただそれだけなのに、部屋の広さが少し変わったように感じた。
別れは、まだ来ていない。
けれど、もう部屋の中に入ってきている。
丘の上の屋敷は、昼の光の中で静かに立っていた。
クレアは、これから自分の立つ場所を決める。
僕はまだ、自分がどこに立ちたいのかも分からない。
ただ、荷物の置かれた音だけが、しばらく耳の奥に残っていた。




