第九話「折れかけた剣は、夜明けの前に立っていた。」
エルノートに来て、一週間ほどが過ぎた頃だった。
町の空気が、少しずつ変わり始めていた。
最初は気のせいだと思った。市場の声は相変わらず聞こえていたし、石畳には荷車の音が転がり、パン屋の煙突からは朝になるたび白い煙が上がっていた。子どもたちも走っていたし、戸端では女の人たちが水桶を置き、畑へ向かう男たちは眠そうに鍬を担いでいた。
表面だけなら、町はいつも通りだった。
けれど、その「いつも通り」が少しだけ硬い気がした。
市場の人たちは、丘の上の屋敷の話題を明らかに避けるようになった。
誰かがクレアの名を出すと、会話の端がすぐに別の話へ折れる。笑い声はあるのに、その終わりが少し早い。大人たちが目を合わせる時間が、ほんの少しだけ長い。
人は、見たくないものがある時ほど、よく働くのだと思った。
見ないために野菜を並べる。見ないために桶を運ぶ。見ないために笑う。
その中心にあるのが、丘の上の屋敷なのだと気づくまでに、そう時間はかからなかった。
宿の一階で朝食を取っている時、父さんは窓の外を見ていた。固いパンを手にしているのに、今日はそれを悪く言わない。父さんがパンに文句を言わない朝は、だいたい何かある。
「何かあったの?」
僕が聞くと、父さんは窓から目を離さないまま言った。
「古いものを欲しがる人間が来た」
「古いもの?」
「この町には、まだ残っているものがある」
その言葉だけで、僕は丘の屋敷を思い浮かべた。
錆びた門。蔦に覆われた壁。剣と月桂樹の紋章。崩れかけているのに、まだ倒れようとしない場所。クレアが、守ると決めている場所。
僕は椅子から腰を浮かせた。
「クレアは?」
「市場にいるはずだ」
「行ってくる」
父さんは、すぐには止めなかった。ただ、僕が扉へ向かう前に一度だけ名前を呼んだ。
「アレン」
振り返ると、父さんはようやくこちらを見た。その目は、僕を止めたいというより、僕がどこまで行くつもりなのか見定めているようだった。
「見るだけだ」
「分かってる」
「お前の分かってるは、時々信用できない」
「父さんに言われたくない」
父さんは少しだけ笑った。
でも、その笑いは短かった。
「無茶はするな」
僕は頷いた。
その返事がどれほど信用されていたのかは、分からない。
市場には人だかりができていて、中心にいたのはクレアだった。
彼女の前には、見慣れない男が三人立っている。一人は細身で、黒い外套を着ていた。残りの二人は護衛らしく、革鎧を身につけ、腰に剣を下げている。
彼らは、この町の人間ではなかった。
外から来た人間特有の、空気の踏み方をしていた。町の石畳の上に立っているのに、まるでそこがすでに自分たちのものだとでも思っているような立ち方だった。
「ですから、お断りします」
クレアの声は静かだった。
昨日も、その前の日も、彼女は同じような声で子どもたちに文字を教えていた。市場の店主に礼を言い、屋敷の柵を直し、夕方には木剣を振っていた。
でも今日の声は、少し違う。
静かなのに、張りつめていた。
「この屋敷は、売り物ではありません」
黒い外套の男は、口元だけで笑った。
「売り物ではない、ですか。ですが、維持する金も人手もないのでしょう。壁は崩れ、門は錆び、屋根は雨を通す。あれを屋敷と呼ぶには、いささか無理がある」
「それでも、私の家です」
「家名など、腹の足しにはなりませんよ」
市場の空気が、沈んだ。
クレアは表情を変えなかった。ただ、指先だけがほんの少し握られた。
僕はそれに気づいた。
けれど、その意味をすぐには分からなかった。怒っているのか、悔しいのか、それとも、何度も同じような言葉で傷つけられて、その痛み方だけが先に身体へ染み込んでしまっているのか。
黒い外套の男は、町の人々の視線を楽しむように少しだけ間を置いた。
「あの屋敷の地下に、古い紋章具が残っているはずです。先代が管理していたものだ。我々は、それを正当な手続きで引き取りに来ている」
「そのような手続きは聞いていません」
「聞かされる立場ではない、ということですよ」
護衛の一人が笑った。
その笑い方が、嫌だった。
市場には何人もの大人がいた。クレアを心配している者もいた。眉を寄せている者もいた。何か言いたそうに口を開きかける者もいた。
けれど、誰も前には出なかった。
相手が剣を持っているから。
外から来た人間だから。
そしてたぶん、クレアの家にはもう、町の人々を動かすだけの力が残っていないから。
「お帰りください」
クレアは言った。
「ここは、あなた方が踏み荒らしていい場所ではありません」
男の笑みが消えた。
「まだ、自分が守れると思っているのですか」
「守ります」
クレアは即答した。
「守れるかどうかではありません。守ると決めているのです」
その言葉は、まっすぐだった。
まっすぐすぎて、危うかった。
折れかけた剣を、無理に正面へ構えているように見えた。
男たちは、その場では引き下がった。
けれど、諦めたようには見えなかった。黒い外套の男は去り際に一度だけ丘の屋敷を見上げた。その目つきは、まだ手に入れていないものを、もう自分の所有物として眺める人間のものだった。
クレアはしばらく市場に立っていた。
そして、町の人たちへ小さく頭を下げた。
「お騒がせしました」
誰かが「大丈夫かい」と声をかける。
クレアは微笑んだ。
「大丈夫です」
その言葉を聞いた瞬間、僕は少しだけ嫌な気持ちになった。
大丈夫。
彼女はよくそう言う。
重い木箱を抱えても、大丈夫。屋敷の柵を直していても、大丈夫。木剣を振る手が震えていても、大丈夫。見知らぬ男たちに家を奪われそうになっても、大丈夫。
本当に大丈夫な人は、そんなに何度も大丈夫と言うのだろうか。
僕はようやく、そんなことを思った。
「クレア」
声をかけると、彼女は振り返った。
「アレンさん。見ていたのですか」
「うん」
「そうですか」
彼女は視線を落とさなかった。背筋も曲げなかった。けれど、その顔には確かに疲れがあった。
いや、違う。
疲れていたのは、きっと最初からだった。
僕が今まで、ちゃんと見えていなかっただけだ。
「手伝えること、ある?」
僕は聞いた。
クレアはすぐに首を振った。
「ありません」
「でも」
「ありません」
その言葉は、拒絶というより、防御に近かった。
「これは、私の家の問題です」
「町の人たちも心配してる」
「だからこそ、これ以上巻き込めません」
「僕は町の人じゃないよ」
「だからこそ、巻き込めません」
同じような言い方なのに、意味が少し違った。
クレアは僕を見た。
「あなたは旅の途中なのでしょう。なら、ここで足を止める理由はありません」
理由なら、ある気がした。
でも、それを言葉にできなかった。
心配だから。
そんな言い方は、たぶん彼女を傷つける。
助けたいから。
それも違う気がした。彼女は、ただ助けられるために立っているわけではない。
「それでも」
僕は言った。
「倒れそうになったら、拾うくらいはできる」
クレアは少しだけ目を丸くした。
林檎の時と、重い木箱の時と同じだった。
けれど、今度は笑わなかった。
「私は、落ちません」
静かな声だった。
強い声だった。
でも、その奥に小さな震えがあった。
その夕方、クレアは屋敷の庭で木剣を振っていた。
空は赤を通り過ぎ、紫に近づいている。屋敷の壁に絡まった蔦は黒く沈み、壊れた石畳には夜の気配が溜まり始めていた。
彼女は一人だった。
踏み込む。振る。戻る。また踏み込む。
いつもと同じ動きだった。けれど、今日は少しだけ違う。力が入りすぎている。足の運びが硬い。肩に余計な力が入っている。木剣が空を切る音も、いつものように揃っていなかった。
見ているうちに、胸の奥が少し苦しくなった。
やめないことが強さなのか。
やめられないことが弱さなのか。
僕には、まだ分からなかった。
「何をしているのですか」
クレアが言った。
気づかれていた。
「見てた」
「それは分かっています」
「声をかけるか迷ってた」
「では、声をかけない選択をしていただけると助かります」
「ごめん」
クレアは木剣を下ろした。額には汗が浮かび、呼吸も少し乱れていた。けれど、僕の方を向く時にはもう背筋を伸ばしている。
その早さが、かえって痛々しかった。
「今日はもう休んだ方がいいと思う」
「必要な鍛錬です」
「でも、疲れてる」
「疲れていても、必要なことはあります」
「疲れてる時にやったら、怪我するかも」
「怪我を恐れていたら、何も守れません」
その言葉は、正しいのかもしれない。
でも、正しい言葉がいつも人を助けるわけではないと、父さんの昔話で聞いた気がした。
「クレア」
僕は少しだけ迷った。
言わない方がいい。
そう思ったのに、口は止まらなかった。
「守るって、一人で全部持つことなの?」
クレアの表情が止まった。
言いすぎたと思った。けれど、もう遅い。
彼女は木剣を握る指に力を込めた。
「あなたに、何が分かるのですか」
静かな声だった。
怒鳴られるより痛かった。
「分からない」
僕は答えた。
「でも、分からないから聞いた」
「なら、聞かないでください」
クレアは背を向けた。
「これは、私が守るべきものです。私が背負うべきものです。助けてほしいなどと、言うわけにはいきません」
言いたくない、ではなく、言うわけにはいかない。
その違いが、胸に引っかかった。
僕は何も返せなかった。
クレアは再び木剣を構える。
夕暮れの中で、その切っ先はほんの少しだけ震えていた。
夜、宿に戻ると、父さんは窓辺に立っていた。丘の上の屋敷を見ている。
僕が何も言わないで椅子に座ると、父さんも何も聞かなかった。部屋には、古い床板が軋む音と、窓の外を通る風の音だけがあった。
沈黙が長くなる。
でも、不思議と嫌な沈黙ではなかった。父さんは僕から言葉が出てくるのを待っているようだった。いつものように、先に答えを置こうとはしなかった。
「クレア、助けてって言わない」
ようやく僕が言うと、父さんは静かに頷いた。
「だろうな」
「でも、疲れてる」
「ああ」
「僕は、ちゃんと見てなかった」
その言葉は、自分で思っていたより苦かった。
クレアはずっと疲れていた。市場で荷を運ぶ時も、子どもたちに文字を教える時も、木剣を振る時も。けれど彼女は背筋を伸ばしていたから、僕はそれを強さだと思っていた。
強い人間は、疲れないのだと思っていた。
そんなはずがないのに。
父さんは窓の外を見たまま言った。
「気づいたなら、次から見ればいい」
「遅くない?」
「遅いことはある」
父さんの答えは、優しくなかった。
でも、そこで終わりではなかった。
「だが、気づいた時が一番早いとも言える」
僕は布袋の中の石を握った。
アイリスからもらった、迷わない石。こんな時ほど何も言ってくれない。石だから当たり前なのに、少しだけ腹が立つ。
「あの屋敷には、古い紋章具がある」
父さんが言った。
「家に伝わる魔道具のようなものだ。力が残っているかは分からん。だが、欲しがる人間はいる」
「今日の男たち?」
「ああ」
「クレアは、それを守ろうとしてるの?」
「屋敷も、家名も、過去も、たぶんな」
父さんの声は静かだった。
僕は、夕暮れに見たクレアの切っ先を思い出した。まっすぐ構えているのに、ほんの少し震えていた。あれは木剣の震えではなく、彼女自身の震えだったのかもしれない。
「人は時々、残っているものを守っているつもりで、自分の方を削っていることがある」
父さんの言葉が、ゆっくり落ちてきた。
僕はすぐには返せなかった。
クレアは、自分を削っているのだろうか。それとも、削られてでも立っていることを選んでいるのだろうか。その違いが分からないまま手を伸ばすことは、彼女の立っている場所を奪うことになるのかもしれない。
「父さん」
「何だ」
「倒れそうな人に手を伸ばすのと、その人が立っている場所を奪うのは、どう違うの?」
父さんは答えなかった。
代わりに、窓の向こうを見続けた。
その沈黙は、分からないという意味だったのかもしれない。あるいは、自分で考えろという意味だったのかもしれない。
しばらくして、父さんは言った。
「たぶん、手を伸ばした後に、その人がまだ自分の足で立てるかどうかだ」
「難しいね」
「難しい」
父さんは、珍しくごまかさなかった。
「だから、人を助けるのは難しい」
僕は石を握る手に少し力を込めた。
―力を隠すこと。
―誰かを守ること。
その二つは、どうしていつも同じ方を向いてくれないのだろう。
深夜、町のどこかで鐘が鳴った。
低く、短く、眠っている家々の屋根を無理やり揺らすような音だった。
父さんは、僕より先に窓を開けていた。夜気が部屋へ流れ込み、燭台の火が小さく震える。
丘の上が、赤かった。
古い屋敷の門前に、いくつもの松明が集まっている。昼間は灰色に沈んでいた壁が、その火に照らされて、まるで傷口を開かれたみたいに赤く見えた。
僕は窓枠を掴んだ。
「父さん」
「来たな」
その声は低かった。
門の前に、小さな影が立っている。
遠くて表情までは見えない。けれど、分かった。あの背筋。あの立ち方。誰かに支えられることを拒むように、たった一人で夜の前に立つ姿。
クレアだ。
彼女はきっと、助けてとは言わない。
そしてその姿は、夜明けの前に立つ―折れかけた一筋の剣のように見えた。
僕は布袋の中の石を握った。
迷わない石は、何も言わなかった。
だから僕は、自分で決めるしかなかった。




