第八話「誇り高き少女は、助けてとは言わなかった。」
エルノートの朝は、少しだけ錆びた匂いがした。
雨上がりの石畳は鈍く光り、家々の軒から落ちる雫が、ぽつぽつと細い音を立てている。市場の準備をする人々の声はあるのに、どこか遠慮がちで、町全体がまだ昔の賑わいを思い出せずにいるようだった。
僕と父さんは、町外れの安い宿にしばらく泊まることになった。
理由を聞くと、父さんは「様子を見る」とだけ言った。何の様子かは教えてくれない。父さんがそういう言い方をする時は、大抵、本当に何かを見ている時で、だから僕は、深く聞かないことにした。
聞いたところで、たいてい「昔の話だ」と言われるだけだ。
宿の窓からは、丘の上の古い屋敷が見えた。白い壁はところどころ灰色に汚れ、蔦が窓枠まで這い上がっている。門扉には、剣と月桂樹を組み合わせたような紋章が残っていた。錆びて、欠けて、形は少し曖昧になっている。けれど、その屋敷は倒れていなかった。
朽ちている、というより、耐えている。僕は何度も、そう思った。
クレアを見かけるようになったのは、それからすぐだった。
朝、市場へ行くと、彼女は店先の木箱を運んでいた。昼前には、集会所で町の子どもたちに読み書きを教えていた。午後になると、屋敷の裏手で壊れた柵を直していた。そして夕方には、屋敷の庭で木剣を振っていた。
それを初めて見た時、僕は少し驚いた。
クレアは、古びた稽古着に着替え、細い木剣を両手で握っていた。庭の土は雨で柔らかく、靴の底が少し沈む。彼女はそこに足を取られながらも、何度も同じ動きを繰り返していた。
踏み込む―
振る―
戻る―
また踏み込む―
決して速くはない。力強いわけでもない。けれど、その動きには妙な硬さがあった。誰かに見せるためではなく、自分が崩れないように同じ形をなぞり続けているような硬さ。
その木剣が空を切る音は、軽かった。けれど、その軽さの中に、何か重いものが混ざっていたような気がした。
「鍛錬してるんだ」
僕が呟くと、隣にいた父さんが頷いた。
「しているな」
「強いの?」
「まだ分からん」
「父さんでも?」
「強さにも、色々ある」
父さんはそう言った。
また何かをごまかされたと思ったけれど、その時は少しだけ分かった気がした。
クレアは僕から見ても、強そうには見えなかった。剣の腕だけを見れば、きっと町の大人の方が強い。足取りも時々乱れるし、振り下ろした木剣の先もわずかに震えている。
でも、やめない。それが、少し怖いくらいだった。
―――
翌日、僕は市場でクレアに会った。彼女は古い木箱を運んでいた。中身は本らしい。揺れるたび、紙の重なる乾いた音がする。昨日の鍛錬のせいか、腕の動きが少しぎこちなかった。けれど、彼女は背筋を伸ばしたままだった。
「持とうか?」
気づけば、僕はそう言っていた。
クレアは足を止め、こちらを見る。まっすぐな目だった。よく磨かれた硝子みたいに澄んでいるのに、どこか触れたら切れそうな硬さがある。
「ありがとうございます。でも、大丈夫です」
「大丈夫そうには見えないけど」
「見え方と事実は、必ずしも一致しません」
「……難しいこと言うね」
「そうでしょうか」
彼女は少しだけ首を傾げた。
箱の角が腕に食い込んでいる。袖口の擦り切れた布が、少し歪んでいた。
「でも、それ重いでしょ」
「重いです」
「じゃあ」
「ですが、私が運ぶと決めたものです」
言葉に隙がなかった。
強がりではあるのだと思う。けれど、ただの強がりではなかった。誰かに頼れない弱さではなく、頼る前に自分で立っていたいという意地のようなものが、彼女の細い腕に込められている気がした。
僕は少し困った。助けるな、と言われたわけではない。でも、助けてほしいとも言われていない。アイリスなら、たぶん勝手に持つ。そして怒られる。怒られても持つ。それから「見張り役だから」と言う。
僕はそこまで強引にはなれない。
「じゃあ、落としそうになったら拾う」
僕が言うと、クレアは少しだけ目を丸くした。
「それは、助けるということでは?」
「落としたものを拾うだけだから」
「林檎と同じ理屈ですね」
「たぶん」
クレアは、ほんの少しだけ笑った。
笑ったというより、口元の硬さがほどけたくらいだった。けれど、それだけで彼女の印象は少し変わった。古い屋敷の窓に、一瞬だけ灯りが入ったみたいだった。
「では、お願いします。落とした場合だけ」
「うん。落とした場合だけ」
そうして僕は、彼女の少し後ろを歩いた。
何をしているのか、自分でもよく分からなかった。荷物を持っているわけでもない。道案内をしているわけでもない。ただ、箱を抱えた少女の後ろを、落とした時だけ拾う係として歩いている。
…かなり変だ。アイリスがいたら、絶対に何か言われていた。
―――
クレアが向かったのは、町の小さな集会所だった。古い石造りの建物で、壁にはひびがあり、扉の蝶番は少し傾いている。中には数人の子どもたちがいた。彼らは机代わりの板を囲み、退屈そうに足を揺らしている。
「クレア先生、遅い」
子どもの一人が言った。
「先生ではありません」
クレアは箱を机の上に置いた。
「今日は読み書きの練習をします。昨日の続きです」
「えー」
「読み書きできなくても林檎は食えるよ」
「食べ物を売る時に数が分からないと困ります」
「じゃあ数だけでいい」
「文字が読めないと、契約で騙されます」
その言い方があまりに真面目だったので、子どもたちは黙った。僕も少し黙った。
クレアは箱から本と古い紙を取り出し、子どもたちの前に並べる。紙は何度も使われたものらしく、薄くなった文字の跡が残っていた。
彼女は貴族の娘だった。少なくとも、そういう家の生まれなのだろう。でも今は、町の子どもたちに読み書きを教え、木箱を自分で運び、市場で落ちた林檎を拾い、夕方には庭で木剣を振っている。
その姿を哀れだと思うのは簡単だった。けれど、僕にはそう見えなかった。
彼女は失ったものを数えているのではなく、まだ残っているもので何かを支えようとしているように見えた。
それが、ひどく不器用で、少しだけ眩しかった。
―――
その次の日も、僕はクレアを見た。
朝、市場の店主に頭を下げているところ。
昼、屋敷の門に絡まった蔦を切っているところ。
夕方、やっぱり木剣を振っているところ。
さらにその次の日には、町の小さな教会で古い帳簿を整理していた。文字が読める者が少ないから頼まれたのだと、宿の女将が教えてくれた。
「クレア様は、何でも引き受けちまうからねえ」
女将は、困ったように笑った。
「昔は本当に立派なお屋敷だったんだよ。けど、今はもう人手も金もない。それでもあの子は、昔の家の娘みたいに振る舞うんだ」
「偉いってこと?」
「偉いさ。偉いけどね」
女将は少し声を落とした。
「偉いだけじゃ、身体はもたないよ」
僕はその意味を、半分も分かっていなかったと思う。
クレアはいつ見ても背筋を伸ばしていた。言葉もはっきりしていた。誰かに笑われても、困ったようにはしても、崩れはしなかった。
だから僕には、彼女が疲れているようには見えなかった。
ただ、夕方の鍛錬の時、木剣を握る指が少しだけ遅れて閉じることがあった。集会所で子どもに文字を教えている時、紙の端を整える手が一瞬だけ止まることがあった。市場で荷物を運ぶ時、曲がり角を抜けたあと、誰も見ていないところでほんの短く息を吐くことがあった。
僕はそれを見ていた。でも、それが何を意味するのか、まだよく分かっていなかった。
強い人は、疲れないのだと思っていた。いや、正しくは、疲れても強いままでいられるのだと思っていた。
その考えが少し残酷だと、僕はまだ知らなかった。
―――
何日目かの夕方、僕は屋敷の庭でクレアに声をかけた。
彼女は鍛錬を終えたところだった。額には汗が滲み、肩で息をしている。それでも僕に気づくと、すぐに背筋を伸ばした。
「見ていたのですか」
「少しだけ」
「覗き見は褒められた行いではありません」
「ごめん」
「いえ。怒っているわけではありません」
そう言う声が、少しだけ掠れていた。
僕は庭の端に置かれた木剣を見る。何度も握られているのだろう。柄の部分だけ色が変わっていた。
「毎日やってるの?」
「できる日は」
「どうして?」
「必要だからです」
「何に?」
クレアは少しだけ黙った。
夕方の光が、古い屋敷の壁を赤く染めている。蔦の影が窓にかかり、割れた石畳の隙間から細い草が伸びていた。
「守るためです」
彼女は言った。
「何を?」
「まだ残っているものを」
その答えは、前にも聞いた言葉と似ていた。
立っているものを、立っていないことにはできない。そう言った彼女の横顔を、僕は思い出した。
「でも、無理してない?」
僕が聞くと、クレアは少しだけ笑った。ただ、それは笑顔というには硬かった。
「無理ではありません。私が、そうすると決めているだけです」
「決めたら、無理じゃなくなるの?」
「少なくとも、誰かに強いられたものではなくなります」
難しかった。でも、なんとなく、彼女らしい答えだと思った。
クレアは木剣を拾い、布で丁寧に拭いた。まるで、それが本物の剣であるかのように。
「私の家は、多くのものを失いました」
彼女は静かに言った。
「領地も、財も、人の信頼も。父と母が守ろうとしたものの多くは、今はもうありません」
木剣の先に付いた土が、布に移る。
「それでも、全部がなくなったわけではありません。ここで暮らす人がいます。文字を覚えようとする子どもがいます。明日の食事を売る人がいます。壊れた屋敷があります」
「屋敷も?」
「あれも、まだ立っています」
クレアは屋敷を見上げた。
「立っているものを、立っていないことにはできません」
その言葉は、不思議だった。でも、何となく分かる気もした。
僕も、自分の力をなかったことにされてきた。父さんは僕を守るために隠した。アイリスも隠してくれた。それはありがたいことだった。けれど、なかったことにされるのは、時々少しだけ寂しかった。
―立っているものを、立っていないことにはできない。
クレアの言葉は、僕の胸のどこかに静かに刺さった。
―――
その夜、僕は父さんに聞いた。
「助けてって言わない人は、助けなくていいのかな」
父さんは宿の窓辺で、古い地図を畳んでいた。僕の問いに、すぐには答えなかった。
窓の外では、丘の上の屋敷が夜に沈んでいる。
「難しいな」
「父さんでも?」
「私でもだ」
「珍しい」
「私を何だと思っている」
「嘘が下手な人」
「間違ってはいない」
父さんは少し笑ったあと、静かに言った。
「助けを求めない理由には、いくつかある。本当に助けがいらない時。助けが必要だと気づいていない時。助けを求めることが、本人にとって何かを失うことになる時」
「何かって?」
「誇りだ」
昼間見たクレアの背中が浮かんだ。
重い箱を抱え、助けはいらないと言った背中。木剣を振り、まだ残っているものを守ると言った横顔。
「じゃあ、どうすればいいの?」
「相手が立っている場所を、勝手に奪わないことだ」
「難しい」
「そうだな」
父さんは、窓の外を見た。
「だが、倒れそうになった時に手を伸ばす準備くらいはしておけ」
僕は布袋を握った。
迷わない石は、今日も何も言わない。ただ、手の中で少しだけ温かかった。
クレアは助けてとは言わない。たぶん、これからも簡単には言わない。
でも、もしあの背中が本当に折れそうになった時、僕は何をすればいいのだろう。




