第七話「朽ちた屋敷は、誇りだけは捨てなかった。」
それから、いくつもの村を通り過ぎた。
山のふもとの村。川沿いの町。麦畑ばかりが広がる土地。冬になると扉の隙間から雪が入り込む家。夏になると、夜でも石畳が熱を持ったまま眠らない町。僕と父さんは、そういう場所をいくつも移った。
別れは、少しずつ上手くなった。
荷物のまとめ方も、知らない土地で最初に井戸の場所を探すことも、宿屋の主人に怪しまれない程度の挨拶をすることも、父さんが「明日生きていたら話す」と言った話の続きを本当に話さないことにも、だんだん慣れていった。けれど、上手くなることと、平気になることは違う。
時々、僕は小さな布袋を握った。中には、丸い石が一つ入っている。
『迷わない石』
もちろん、そんなものが本当にあるとは思っていない。石は迷わない。石は考えない。石はただ、手を離れた方向へ飛んでいく。そしてたまに、風につつかれる。それでも、その石を握ると、少しだけ思い出せた。
遠くからでも見張っている、と言ったあの少女の顔を。
そうして僕は、できるだけ普通に歩いた。
―――
その町に着いたのは、雨上がりの午後だった。
町の名は、エルノート。王都へ続く街道から少し外れた、古い石壁に囲まれた町だった。昔は栄えていたのだろう。門は大きく、広場には噴水があり、石畳も立派だった。けれど、どこも少しずつ疲れていた。
門の飾りは欠け、噴水の水は細く、屋根の色は雨でくすんでいる。人々の声にも、どこか節約されたような響きがあった。笑い声はある。市場も開いている。けれど、誰もが少しだけ肩を狭くして歩いていた。
「昔は、もう少し豊かな町だった」
父さんが言った。
「来たことあるの?」
「あるような、ないような」
「どっち?」
「昔の話だ」
「便利だね」
「便利だからな」
父さんはそう言って、町の奥を見た。
視線の先に、小高い丘があった。そこには古い屋敷が建っている。白い壁はところどころ灰色に汚れ、蔦が窓枠まで這い上がっていた。門扉には紋章が残っている。剣と月桂樹を組み合わせたような印だったが、鉄は錆びて、形が少し曖昧になっていた。
「あれは?」
「この町の領主館だったものだ」
「だった?」
父さんは「ああ」と短く答え、それ以上は言わなかった。
僕は、その屋敷を見上げた。
朽ちている、と思った。けれど、不思議とみすぼらしくはなかった。壊れかけた門も、色褪せた壁も、蔦に覆われた窓も、どこか背筋を伸ばしているように見えた。
古くなったのではない。耐えている。そんな感じがした。
―――
少し歩くと、市場の隅で騒ぎが起きていた。大きなものではない。子どもたちの笑い声と、大人たちの困ったような視線が少し集まっているだけの、小さな騒ぎだった。
その中心に、一人の少女がいた。僕と同じくらいの年頃だろうか。薄いブロンズの長い髪をハーフアップにして、古いけれどきちんと手入れされた服を着ている。布地は上等そうなのに、袖口は少し擦り切れていた。靴も磨かれているが、底は薄い。
彼女は、落ちた林檎を拾っていた。市場の荷台から転がったものらしい。子どもたちがそれを面白がって足で転がし、彼女は一つずつ拾い集めていた。
「お嬢様が林檎拾ってる」
「貴族なのに?」
「もう貴族じゃないんだろ」
子どもたちは悪気半分、面白さ半分で笑っている。
少女は何も言わなかった。ただ、林檎についた泥を布で拭き、店主の籠へ戻していく。その手つきは丁寧だった。まるで、ただの落ちた林檎ではなく、誰かに預かった大事なものを扱っているみたいに。
最後の一つを戻すと、彼女は子どもたちの方を向いた。
「食べ物を蹴ってはいけません」
声は大きくなかった。
けれど、不思議と広場の端まで届いた。
「それは、作った人にも、売る人にも、食べる人にも失礼です」
子どもたちは少し黙った。
一人が照れ隠しのように笑う。
「なんだよ。偉そうに」
少女は表情を変えなかった。
「偉そうではありません。正しいことを言っているのです」
その言い方が、あまりにまっすぐだったので、今度は僕が少し黙ってしまった。
強い子だと思った。力が強いという感じではない。たぶん、立ち方が強いのだ。泥のついた林檎を抱え、擦り切れた袖で、笑われても背筋を曲げない、そんな強さ。
店主が困ったように「クレア様、もういいですよ。いつもすみませんね」と笑った。
「様は不要です」
少女は少しだけ眉を寄せた。
「今の私は、ただのクレアです」
「ですがねえ」
「それに、落ちたものを拾っただけですから」
彼女はそう言うと、籠の位置を整えた。
子どもたちはもう興味を失ったのか、広場の反対側へ走っていく。残されたのは、店主と少女と、なぜかそこから目を離せない僕だけだった。
「気になるのか」
父さんが言った。
「別に」
「嘘が下手だな」
「父さんほどじゃない」
「それはそうだ」
…認めるんだ。
僕はもう一度、少女を見た。
―クレア
店主はそう呼んでいた。
彼女は市場の人たちに軽く頭を下げると、小さな包みを抱えて歩き出した。向かう先は、丘の上の古い屋敷だった。錆びた紋章のある、あの屋敷。
「没落貴族、というやつだ」
父さんが言った。
「没落?」
「家名は残っている。金はない。誇りは、たぶん捨てていない」
「捨てた方が楽なの?」
「楽な時もある」
父さんは少しだけ目を細めた。
「だが、捨てたら立っていられなくなるものもある」
僕はその言葉の意味を、すぐには飲み込めなかった。ただ、丘を上っていくクレアの背中を見ていると、少しだけ分かる気もした。
彼女は荷物を抱えていた。何か重そうなもの。けれど、誰にも持ってくれとは言わなかった。その背中が、古い屋敷によく似ていた。
傷んでいて、古びていて、それでも倒れることだけは拒んでいるようなところが。
―――
その夜、僕たちは町外れの安い宿に泊まった。部屋は狭く、窓からは例の屋敷が見えた。夜になると、丘の上は暗い。町の灯りが届かないせいで、屋敷は黒い影の塊みたいに見える。
僕は布袋の中の石を指で転がしながら、昼間の少女のことを思い出していた。
「父さん」
「何だ」
「誇りって、重いの?」
父さんは荷物を解く手を止めた。
「重いな」
「持たない方が楽?」
「楽だ」
「じゃあ、どうして持つの?」
父さんは少し考えた。
それから、いつものように少しだけ困った顔をした。
「手放すと、自分がどこに立っていたのか分からなくなるからだ」
「難しい」
「そのうち分かる」
「明日生きてたら?」
「いや」
父さんは窓の外を見た。
丘の上の屋敷は、夜の中に沈んでいる。
「近いうちに、嫌でも分かるかもしれない」
その言い方が、少しだけ引っかかった。
僕は父さんを見た。
「この町でも、何かあるの?」
「何もない町などない」
「また便利なこと言ってる」
「便利だからな」
父さんはそう言って、灯りを落とした。部屋が暗くなる。
窓の外には、古い屋敷の影だけが残っている。
僕は布袋を握った。迷わない石は、何も言わない。けれど、その沈黙の中で、僕は昼間の少女の背中を思い出していた。
落ちた林檎を拾い、笑われても背筋を伸ばしていた少女。
―クレア
その名前だけが、夜の屋敷の影みたいに、しばらく胸の奥に残っていた。




