第15章「海の向こうの自治」(1)事例の重さ
新座の管制センターの朝は、静かなルーティンから始まる。
無数のモニターが並ぶフロアの隅で、凪は自身のデスクの端末を開き、NERVA各拠点のステータスを流し見した。
国内の五拠点に分散再構築されたシステムは、今日もなめらかに稼働している。物流の動脈は日々修復され、かつての効率を取り戻しつつあった。
個人フォルダの奥で、一件の進捗レポートが点滅している。
『山間部コミューン:道路開通。変圧器の一次点検完了。厚労省主導の医療チームによるワクチン接種ラウンド開始』
凪が現地で合意をとりつけてから数週間。実装は、驚くほど順調に進んでいた。葛城の渋面も、大庭の安堵の息も、沙耶の切実な声も、今ではただの『進捗』としてこの画面に収まっている。
レポートのヘッダーに踊る『先行事例』の文字を見つめる。あのとき引いた線は、今のところ嘘にはなっていない。正しかったのかどうかは、今もわからない。ただ、モデルケースと書かなくてよかったとは思った。
モデルケースと呼ぶには、あの解決策は条件が揃いすぎていた。山間部という閉じた地理、国内制度という単一の摩擦面、そして何より、現場に葛城や三浦のような当事者意識のある人間がいたからこそ解けたパズルだ。それは美談ではなく、幸運な条件の重なりにすぎない。
端末の通知欄がポップアップした。
部下の宮田や河野からではなく、個人的なつながりからのシェアだった。
投稿者は、光。
あの山間部の休校舎の横に立っていた、皮肉屋の青年のアカウントだ。写真には、村の入口付近──かつてバリケードがあった場所──の前に立つ光と、視察に訪れたらしい背広姿の数人が写っている。
『案内役始めました。先行事例から学びたい方、ぜひ。』
短いテキストを読んで、凪は口角をかすかに上げた。声には出さない、忍び笑いだった。
案内役、か。あの子らしい。自分が報告書に書いた『先行事例』という無機質な言葉が、こうして誰かの行動の旗印になっている。凪が引いた線を、光は光なりの手つきでなぞり直し、まったく別の形にしてしまった。それは確かに何かが動いている証拠だった。──ただ、動いているものが自分の手の中にある感触は、もうなかった。
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「早瀬。少しいいか」
凪がデスクから立ち上がってコーヒーを取りに行こうとしたとき、廊下で藤原部長に呼び止められた。
藤原の表情は、いつもの業務連絡のときとは少し違っていた。固く、少しだけ重い。
「はい。なんでしょうか」
「日本海側の件だ」藤原は周りに人がいないことを確認し、声を落とした。「正式に支援の要請が来た。"先行事例"の一件で、上がお前をご指名だ」
「日本海側──日本海側コミューンですか」
凪は先日、公用車の中で目にした特集記事を思い出していた。
自治体や漁業組合と軋轢を起こしているという、沿岸部の独立コミューンの話。
「詳しい資料は午後のブリーフィングで出す。省庁側の人間も来る。準備しておけ」
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午後。新座拠点の一角にある小さな会議室。
プロジェクターに投影されたスライドを囲むように、凪、藤原、そして国交省、外務省、厚労省から派遣された担当者が一名ずつ座っていた。
「対象となるのは、日本海側の古い港町です。現在の居住人口は三百から四百人程度」
国交省の担当者がスライドを進めた。
「NERVA崩壊後の社会不安の中で、彼らは『独立コミューン』を宣言しました。掲げている理念は『脱国家・脱資本・新しい共同体』。当初は地元住民の一部も支持しましたが、自活は早々に破綻しました。高齢化で漁業は縮小し、農地もない。燃料も食料も外部に依存せざるを得ない構造だからです」
スライドが変わり、政府とコミューンの交渉記録が箇条書きで示された。
「国庫からの支援条件として、法令遵守、監査、そして検疫の受け入れを提示しましたが、彼らは『国家の管理下に入る』としてこれを全面拒否。交渉は決裂しました」
「検疫の問題も深刻です」
厚労省の担当者が引き継いだ。
「コミューン内部で、原因不明の呼吸器症状が集中して報告されています。しかし彼らは、国によるデータ収集だとして検査への協力を完全拒否している状態です」
呼吸器症状。
その単語に、凪の視線がわずかに鋭くなった。だが、まだ何も言わず記録に徹する。
「問題は、彼らがどうやって生き延びているかです」
外務省の担当者が立ち上がり、スライドの次ページを開いた。
そこには、沖合に停泊する小型貨物船と、その船腹から漁船へ物資を積み替えている写真が映し出されていた。岸壁ではなく海上で荷を渡す、いわゆる瀬取りだ。段ボールには見慣れない宗国文字が印刷されている。
「宗国系のNGO、およびフロント企業による『人道支援』です」
外務省の男の声が、会議室の空気を一段冷やした。
「食料、ディーゼル燃料、そして通信機器一式。彼らは『国家に見捨てられた人々を助ける』という名目でコミューンに介入しています。みなさんご存知の通り、NERVA崩壊以降、我が国と宗国、そして米国の間の緊張状態は表向き沈静化していますが、覇権争いはサイバー空間から現実の地政学へと形を変えて継続しています」
宗国は、周辺国への「人道支援」を名目に草の根の影響圏を拡大している。対する米国は、viaなどの巨大クラウド事業者を通じて日本のデジタル基盤のアライアンス再構築を急いでいるが、かつてNERVAの中枢を宗国リージョンに握られていたというトラウマ的過去が足枷になっていた。
「コミューンは地理的に、宗国にとって非常に都合のいい足場になりえます。日本海側コミューンは今のところ小さな話です。ただ、その背景は小さくない」
「小さな話」という言葉が、凪の耳に居心地悪く引っかかった。
山間部も最初は小さな話だった。しかし、あそこは摩擦の向く先が行政と住民という「国内」の制度だったのだ。
会議室を出た後、凪は誰もいない廊下で一人立ち止まった。
手元の資料を閉じ、頭の中で比較する。
山間部コミューンは制度への不信から自分たちを隔離したが、外の力には頼らなかった。
日本海側コミューンは国内を拒絶し、国外の力に依存している。
どちらも"自治"だ。だがベクトルは正反対だった。
今回は「道だけ」の問題ではない。
「早瀬」
背後から藤原が声をかけてきた。
「山間部の件と同じようにはいかないぞ。向こう側の話が、外に繋がっている」
「……わかっています」
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その日の夕方。凪は自席で出発の手配を進めていた。
端末の検索履歴には、対象となる港町の地図、地元の漁協のニュース記事、そして宗国系NGOの名前が並んでいる。
画面を閉じる直前、港の写真が一瞬だけ表示された。
錆びた岸壁と、ペンキの剥げた漁船が数艘だけ繋がれた係留場所。
山間部は道で閉じていた。ここは海で開いている。──それが、どういうことか。
凪は端末を閉じ、深い息を吐いた。




