第15章「海の向こうの自治」(2)錆びた港の三者
北陸新幹線で最寄りの駅まで移動し、そこから自動運転の公用車に乗り換えた。公用車はコミューンの手前数キロの駐車場で停まった。「国の車」で乗り込むことの刺激を避けるためだ。
そこから先は、港に向かって吹き下ろす海風の中を歩いた。
空は重い曇天で、風がべったりとした塩の匂いを含んでいる。山間部のコミューンが閉ざされた谷底のような静寂を持っていたのに対し、ここは物理的な視界としてはどこまでも開かれていた。
しかし、町は死にかけていた。
入江に面したコンクリートの岸壁はあちこちが赤茶色に錆びつき、漁協の小さな荷揚げデリックは傾いたまま錆に覆われている。かつては大小の漁船がひしめき合っていたはずの係留場所には、ペンキの剥げた数艘が寂しくロープで繋がれているだけだった。
港から町へと続く商店街跡に入り、凪は足を止めた。
シャッターが降りきった店舗のアーケードに、巨大な布製の横断幕が掲げられている。
『自治・連帯・共有』
それは手書きではなく、業務用の大型プリンターで出力されたような、整いすぎたフォントだった。山間部で見た「通行禁止」のベニヤ板の切実な殴り書きとは全く違う。
──開放的に見えて、海の向こうから何かが入り込んでいる。
「で、何を持ってきてくれたんだ」
アーケードの柱の影から、不意に声がかかった。
凪が振り返ると、日焼けした顔の初老の男が立っていた。作業着を着崩し、太い腕を組んでいる。元漁師だろうか、長年太陽と潮風に晒されてきた男特有の鋭い目をしている。だが、その目に明確な敵意はなかった。純粋な値踏みの目だ。
「あなたは?」
「波多野だ」
凪は相手の目を逸らさずに答えた。
「まだ何も持ってきていません。まず、皆さんがどういう状態かを見せてもらえますか」
波多野は数秒だけ凪を見つめ、それから「ふん」と鼻を鳴らした。
「……正直なやつだな。ついてきな」
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波多野に案内されたのは、コミューンの集会所として使われている旧公民館の二階だった。
長テーブルの奥──上座にあたる位置に、細身の男が座っていた。銀縁の眼鏡の奥の目は理知的で、着ているジャケットもよれてはいるが質のいいものだ。城崎。マニフェストの執筆者であり、このコミューンの実質的なリーダー。
その右隣には、周という四十代後半の男が座っていた。元貿易商らしく、くたびれた中にも几帳面さを残している。
「遠路はるばる、ご苦労様です」
城崎の第一声は、拍子抜けするほど丁寧だった。だが、そこに歓迎の温度はない。
「お越しいただいたところ恐縮ですが、私どもはいかなる国家機関の監督下にも入るつもりはありません。対話そのものは否定しませんが……今日の目的を確認させていただけますか」
「現状の確認と、可能性の模索です」凪は立ったまま応じた。「結論を持ってきたわけではありません」
「それは、山間部のときと同じ文句ですか」
凪は一瞬だけ口をつぐみ、城崎を見た。
「あちらの件をご存知なんですね」
「耳には入っています。ただ、あそこは国内の古い制度との摩擦でした。私どもの問題は……」
城崎はそこまで言いかけ、ふいに言葉を止めた。凪はその瞬間を見逃さなかった。言葉の多い人間が言葉を途切れさせるとき、そこには必ず自己正当化への微かな躊躇がある。
代わりに口を開いたのは、隣に座る周だった。
「国は私どもを見捨てたんです」周の声は真剣だった。「誰も助けてくれなかったときに、宗国系のNGOが手を差し伸べてくれた。それだけのことです。苦しいときに助けてくれた人を信頼することの、何が問題ですか」
周の目に濁りはなかった。彼は芝居をしているわけではない。本気で宗国の「支援」を善意だと信じているのだ。
凪はこの場では反論しなかった。
「その支援の経緯、詳しく聞かせていただけますか。例えば、具体的に何を搬入しているのか」
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城崎は公民館の一室から出ることを拒んだため、凪は再び波多野の案内で、岸壁沿いの元漁協倉庫へと向かった。
薄暗い倉庫の中に踏み入った凪は、思わず息を呑んだ。
整然と並ぶ、真新しい宗国製の発電機。パレットに積まれたソーラーパネル。そして通信用のラックサーバーと衛星アンテナの機材一式。すべてにあの特徴的な漢字とアルファベットの企業ロゴが入っている。
一部の発電機は稼働しており、低く安定した羽音を立てていた。
凪は無言のまま発電機の一つに近づき、機体横の銘板を覗き込んだ。製造は三年前。新品ではないが、オーバーホール済みの良品だ。
次に通信機器のラックへ向かう。コントロールパネルの液晶が明滅している。凪は素早く画面のメニューを操作し、システムログの画面を呼び出した。
ファームウェアの最終更新は一週間前。更新サーバーのアドレスを追う。凪は表示された数字の羅列を、一度だけ目に入れた。それで十分だった。番号は網膜の奥で静止し、いつでも呼び出せる形で収まっている。間違いない。完全に宗国本国のサーバーだ。
ふと天井を見上げる。倉庫の死角を消すように、二箇所に真新しい監視カメラが設置されていた。録画データだけでなく、映像そのものがどこへ流れているのか、ここからでは確認できない。
「これが今、俺たちが動いている理由のほとんどだ」
背後で波多野が重い声で言った。
「食料、燃料、電気。これなしでは、ここはもう一日も動かない。そう、動けなくなっちまったんだよ」
凪はコントロールパネルから手を離し、波多野を振り返った。
「この通信機器の更新データが、どこのサーバーから来ているか知っていますか?」
「知らん。そういう難しいことは周に訊いたほうがいい」
波多野は自嘲気味に笑った。凪はそれ以上問い詰めなかった。
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倉庫を出て、潮風に吹かれながら歩き出したときだった。
「ゲホッ、ゴホッ……」
前方から荷車を引いて歩いてきた若い男が、激しく咳き込んだ。口元をタオルで押さえているが、その咳は深く、湿っていた。
凪は男の後ろ姿を目で追った。
「……ここ最近、咳が出てる奴が多い」
波多野がぽつりと言った。
「海沿いだから乾燥のせいだとか、埃のせいだとか言ってる奴もいるけどな」
「何人くらいですか」
「全員で言ったら三十人近いかもな。熱を出して寝込んでいるのもいる。ただ、みんな検査を嫌がっててな」
「検査を嫌がる理由はなんですか?」
波多野は立ち止まり、錆びた海をしばらく見つめた。
「城崎さんが……」そう言いかけて、首を振る。「まあ、いろいろだ。国にデータを渡せば、それを口実に弾圧されるって信じてる連中もいる」
いろいろ、という言葉の重み。波多野は城崎の決定に完全に同意しているわけではない。
「……」
凪は振り返り、曇り空の下で沈黙する港町を見た。
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公民館に戻った凪は、誰もいない部屋で端末を開いた。メモアプリに今日の所見を打ち始めるが、途中で手が止まる。
画面には一行だけが残った。
「支援、か」
窓の外に、水平線が見えた。




