第15章「海の向こうの自治」(3)速報と板挟み
翌朝。
凪はコミューンから十キロほど離れた隣市のビジネスホテルで目覚めを迎えた。
端末のバイブレーションが、静かな朝の部屋に響く。
通知元は、この自治体の管下にある保健所だった。「解析速報」というタイトルの暗号化メール。
早い。凪は画面をスワイプした。
前日の午後、凪は厚労省の担当者から暗号化回線で指示を受けていた。波多野にだけ事情を打ち明け、症状の重い若者一人からなんとか同意を得て検体を採取し、保健所に持ち込んでいた。
報告書の文面は簡潔だが、重かった。
『検体から検出されたウイルス遺伝子配列は、宗国国内の特定地域で直近報告されている株と極めて高い相同性を示している。意図的な兵器化を示す特徴は見られない。研究施設または医療現場の管理不備、および情報非共有による偶発的な流出が最も合理的な仮説と思われる』
そして、最後の一文。
『本株は、今年度の任意接種スケジュールに含まれる基礎ワクチン株に近似しているため、接種済みの場合は発症リスクが大幅に低減される』
凪は小さく息をついた。
任意接種。あそこのメンバーは、打っていない。
波多野が「検査を嫌がっている」と言ったときの苦い表情がよぎる。
コミューンでは、「国が推奨するものはすべて管理の道具である」という文脈にワクチンすらも組み込まれ、陰謀論めいた拒絶が内面化してしまっているのだ。城崎が強制したというより、閉鎖的な空間の中でその空気が定着してしまっている。
しかし、と凪は思考を走らせる。
支援した宗国系のNGOも、なぜワクチンを供給しなかった。人道支援を謳うのであれば、食料や燃料と同時に医療物資を提供するのが筋だ。それをしなかったのは、「発覚」を遅らせるためか、あるいは単なる無関心か。
その問いに答えを出す前に、今度は藤原部長から音声通話の着信が入った。
「早瀬。今、大丈夫か」
藤原の声は、普段の冷静さの中にわずかな焦燥を隠し持っていた。
「昨夜、うちに連絡があった。在日米軍の情報系統から、非公式のルートだ」
「米軍……?」
「表向きはあくまで日本の国内問題というスタンスを崩していない。だが、米軍は宗国があのコミューンを通じて日本海側にもろもろの足場を作ることを極度に警戒している」
「それは、地政学的な意味で?」
「そうだ。米軍の本音はこうだ。『日本が自前のインフラを自分で管理できる国だと証明してくれれば、我々も安心して介入を引ける。だが、もし他国に港を明け渡すようなら──』」
藤原は少し間をあけ、言葉を選んだ。
「早瀬、お前がそこで何をするかは、お前自身が現場で決める仕事だ。ただ、見ている人間のレイヤーが増えていることだけは忘れるな」
---
通話を終え、凪はベッドの縁に座ったまま、現状を頭の中で整理した。
三つの要素が絡み合っている。
一つ、感染症。直ちに検疫と隔離が必要だが、国が動けばコミューン側は「弾圧」として暴発する。
二つ、宗国の介入。通信機器のバックドアの懸念があり、止めさせたい。しかし止めれば、コミューンの生命線である食料と電力が絶たれる。
三つ、米軍の監視。日本側が自力でこの問題を解決できなければ、地政学上の新たな火種になる。
山間部では、線を引く相手が国内にいた。葛城の恐怖、三浦の技術、大庭の政治。すべてが一つの制度の中での綱引きだったから、道の手引きができた。あの線が正しかったかを確かめる間もなく、次の線を引かなければならない。──しかも今度は、“線を引く”相手が国内にいない。
---
凪は手元の端末を操作し、連絡先から「三浦真理」を呼び出した。
『はい、三浦です』
電話の向こうから、山間部の静けさが伝わってくるような落ち着いた声が聞こえた。
「三浦さん。技術的な見解を一つ聞きたいんです。宗国製の通信機器について」
凪は前日の倉庫の状態を、端末を開かずに説明した。液晶パネルの配置、メニューの階層、ファームウェアのバージョン番号、そして更新サーバーのIPアドレス。記録には残さなかったが、必要な数字はすべて頭の中にある。
三浦は少しのタイムラグのあと、即答した。
『バックドアの可能性は高いです。ファームウェアが宗国サーバ経由で更新されているなら、回線をパブリックなものに切り替えるだけでは無用です。NERVAの管制通信を将来的にそこに載せる可能性があるなら、機器ごと全交換するしかありません』
「通信の経路を絞るなどして、論理的に遮断することは?」
『いたちごっこです。物理的にアクセス権を持たれている以上、安全の証明ができない。……早瀬さん』
「はい」
『あそこの住民が宗国製の機器を使っているうちは、彼ら自身の日常のデータもすべて向こう側のサーバに回っていることになります。彼らはそのことに、気づいていますか』
「……気づいていない人が、ほとんどだと思います」
『そうか』
三浦はそれだけ言って、通話を切った。
批判でも非難でもない、ただ一つの事象を確認しただけの、三浦らしいひと言だった。
しかし、凪の心には重く響いた。
「そうか」という二文字の中に、三浦は何も押し込まなかった。それが余計に、重かった。
山間部では、住民がシステムを恐れて自分で道を切った。ここでは、住民が気づかないまま自分のデータを外に流している。恐れていたはずの「管理」を、恐れていたはずの「外の力」から受け取っている。──凪は胸の奥に、うまく名前をつけられない感触を見つけた。正義ではない。怒りでもない。ただ、何かがずれている、という感覚だった。
---
その日の夕方。凪はホテルの一室で、端末のテキストエディタに向かっていた。
城崎。周。波多野。
この三人に、同じ言葉は届かない。城崎には理念のロジックで、周には宗国の支援の実態で、波多野には明日の生活の数字で語らなければならない。
画面に打っては消し、消しては打つ。
今の状態では、何を渡しても彼らのフィルターで歪められる。まずは波多野だ。凪は波多野の連絡先を開き、短いメッセージを打ち込んだ。
『明日、もう少しだけ倉庫の中を見せてもらえませんか。通信機器のことで、一つ確認したいことがあります』
送信ボタンを押す。
窓の外を見ると、日本海へ日が沈もうとしていた。
重い雲の隙間から差し込む夕日が、海を鈍色に染めている。その水平線の向こう側が、今日はずいぶんと遠く感じられた。




