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凪の轍 〜リビルド〜  作者: 黒犬


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第16章「封鎖と交渉」(1)封鎖線


 あれから、一度新座に帰ってきた。報告と、次の一手を考えるために。


 今は自席にいるが、凪の意識は完全に別の場所へと飛んでいた。


 画面上のスケジュールや定型業務のタスクはすべてバックグラウンドに押しやられ、凪はただ、手元の端末の暗号化通信アプリに送られてきた短い音声データに向き合っていた。


『重症者が出た』


 波多野の声は、以前聞いたときよりもずっと低く、乾いていた。


『若い女で、子どもがいる。検査を受けさせて医者に診せたいが、城崎が止める』


 音声はそれだけだった。感染者の総数や感染経路といったマクロな「数字」の問題ではない。若い女。子ども。顔のない数字に具体的な顔が張り付いた瞬間、凪の中で時間軸の進み方が変わった。


 急がなければならない。凪はすぐに波多野の端末へ折り返しの通話をかけた。コール音が数回鳴った後、重い息遣いとともに通話が繋がる。


「波多野さん」


『ああ』


「さっきの録音の件です。城崎さんとは直接話しましたか」


『さっきやり合った。だが、あいつは引かない』波多野の声には明らかな疲労が滲んでいた。『データを国に渡せば、それを弾圧の口実にされる。検査は国家介入の第一歩だと言って聞かない』


「……」


『もう限界だ。城崎さんが言っていることの理屈はわかるが、理念で子どもの熱は下がらない』


 城崎の懸念は、彼の生きている論理の中では正しいのだろうと凪も思う。だが、重症者が待てないこともまた、厳然たる事実だ。


「待ってください。なんとかします」


 波多野との通話を切った直後、今度は省庁の担当者から緊急の連絡が入った。


『日本海側のコミューンですが、先ほど宗国系NGOおよび企業の現地担当者が、一時撤退を通告してきました』


「撤退……? 早すぎませんか」


『本国の指示だそうです。表向きは「一時」という言葉を使っていますが、機器のシャットダウンが先行しています。彼らの中央サーバからの強制切断です』


 担当者の言葉を裏付けるように、凪の別端末にコミューンの内側にいる周から直接メッセージが届いた。


『見捨てられるのか。彼らが行ったら、電気も通信もない』


 周の深刻な動揺が文面から伝わってくる。今まで信じていた「支援者」が、危機になった途端に全てを切り捨てて引き上げてしまったのだ。


 凪はその事実をただの事象として受け止め、感情に引きずられることなく、簡潔に返信を打った。


『わかった。手を打つ』


 省庁側の担当者が声を固くして告げる。


『早瀬さん。厚労省の判断で、コミューン周辺に検疫封鎖線を引くことが決定しました』


 保健所、警察、そして自治体職員による物理的な封鎖体制。物資の搬入は厳重な管理下で継続されるが、人の出入りは完全に制限される。


 封鎖線が引かれた。正規ルートで入れる窓口は、一つに絞られた。封鎖線そのものは問題ではない。問題は、その封鎖線の内側へ『医療チーム』と『機材』、そして『薬』を運ぶための時間だ。通常のインフラ復旧プロセスの中での機材搬入では遅すぎる。


 インフラの全交換と設定、テストまでを待っていては、重症の人間は死ぬ。


 ヒューマンバックアップ制度に基づく緊急輸送以外に方法はない。


 凪の中で、結論が静かに固まった。


---


 手元の端末のアドレス帳を開き、「荒木健三」の文字をタップする。


 呼び出し音が三回鳴り、通話が繋がった。


『……嬢ちゃん、また無茶を言うのか』


 荒木は着信者名を見ただけで、すでに何かを察しているようだった。


「無茶じゃありません。制度の中で走ります」凪は真っ直ぐに言った。「ヒューマンバックアップ車両として、人道支援物資の緊急輸送です。書類上は完全に正規の指示です」


 電話の向こうで、沈黙が落ちた。それは凪の予想通りの間だった。


『……源蔵さんと同じことをするつもりか』


 かすれた、しかし重い荒木の声。祖父の死。あれからずっと凪を規定し続けてきた出来事。


「祖父は休まなかった。私は休みます」


 凪は言葉を区切り、はっきりと続けた。


「──でも、走らないわけにはいかない場面があります」


 言いながら、凪は自分の声が思ったより静かだったことに気づいた。

 山間部へ向かう前夜は、どうだったか。──あのときは「行かなければならない理由」を整理してから動いた。今は、理由より先に身体が動いている。


 長い沈黙が流れた。凪は急かさず、端末を耳に押し当てたまま待った。自分の覚悟が試されている時間がそこにあった。


『秩父で待ってる。銀嶺号は動くぞ』


 荒木のごくりと唾を呑み込む音が聞こえた。


『──俺はもう歳でな。ハンドルは握れん。だが、一人いる』


「一人……?」


『矢島だ。俺の弟子だ』


 その名前に、凪の呼吸が小さく止まった。矢島。どこかで──。


「……あの、教習所の矢島さんですか」


『横には、座れる』


 荒木はそれだけ言って通話を切った。


 凪はゆっくりと立ち上がり、管制センターの窓の外を見た。遠くの高速道路を、夕日を浴びた自動運転トラックの光点が見事な等間隔で流れていく。


 教習所で「頭で運転しすぎだ」と言った男が、荒木の弟子だった。凪はそれ以上の感情の言語化を止め、手元の端末で「通行許可申請」の電子フォームを開いた。


 明朝、秩父に向かう。


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