第16章「封鎖と交渉」(2)銀嶺号、再び
翌朝、凪は新座から武蔵野線と西武線を乗り継ぎ、秩父へと向かった。公用車の使用は認められているが、この先の足として銀嶺号を使う以上、車は不要だった。
西武秩父駅からさらにローカル線を乗り継ぎ、荒木宅の最寄り駅から歩いていくと、大きな門構えの旧家の前庭に、銀嶺号が停まっていた。
手入れの行き届いたボディ。ステアリングコラムの横に貼られているであろう、色褪せた『銀嶺』のテープ。
大きい。それが、久しぶりに見るこの車の第一印象だった。かつて共に旅をしたはずなのに、日常から離れて再び目の前に現れた銀嶺号は、記憶の中の姿よりもずっと大きく、圧倒的な重さを持って存在していた。
「来たな」
玄関先から、作業着に安全靴を履いた荒木が出てきた。七十三歳になった分、歩き方はあの頃よりもわずかに重くなっているが、その瞳の鋭さはまったく変わっていなかった。
「荷台は積み終わってる。見てみろ」
凪が荷台の後ろに回ると、そこには医薬品が入った保冷ボックス、防護具のケース、簡易検査キットの箱、そして昨日急遽手配した米国製のアウトドア用大型発電機が、ラッシングベルトで整然と固定されていた。
「全部、ここから調達したんですか」
「佐伯さんと、そっちの河野さんが動いてくれた。俺は電話を受けて受け取っただけだ」
そのとき、軽いエンジンの音とともに、一台のセダンが荒木宅の前に滑り込んできた。
車から降りて来たのは、四十代前半の、精悍で寡黙な男。手動運転免許教習所で凪の教官を務めていた、矢島だった。
彼はすでに作業着に着替えており、その手には革手袋が握られている。
凪と矢島の目が合った。
「……早瀬さん」
「……矢島さん」
互いに一拍の間があった。それだけで、お互いが今ここになぜいるかという会話はすべて成立した。
「知り合いか」
荒木が二人を交互に見て、短く訊ねる。
「お世話になっています。教習所で」
矢島は何も言わず、荒木もこれ以上の深入りはしなかった。
荒木は矢島の前に立ち、一拍だけ独特の沈黙を置いた。
「矢島。銀嶺号はお前に任せる」
矢島は荒木の目を見たまま、黙って深く頷いた。
荒木にとって、この車のハンドルを他人に渡すということが何を意味するのか。凪はそれを誰よりも理解していたが、何も口には出さなかった。
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出発の準備が整いかけていたとき、凪の端末に電話がかかってきた。
『早瀬さん。行政からの検疫封鎖区域への緊急車両通行許可、手配が完了しました』
佐伯だった。その手際の良さに、凪はどうしても訊かずにはいられなかった。
「佐伯さん……いつ準備したんですか」
『あのブリーフィングのあとすぐです。こんなこともあろうかと、検疫区域用の書式は作ってありました。あなたが決断したときに間に合うように』
凪は思わず苦笑した。このしたたかな役人の「備え」の射程には、いつも敵わない。
通話を終えた直後、今度はチャットアプリに、ひと言だけのメッセージが届いた。
『日本海側の連中、"道を切った"俺たちとは違う。外に繋いでいる。気をつけろ』
差出人は葛城だった。
凪は返信を打たなかった。静かに端末の画面を落とした。
すぐさま銀嶺号のキャビンへと向かう。助手席のドアを開けた瞬間、あの匂いが戻ってきた。革と油と金属。そして、かすかに──軽油の残り香。記憶が揺れるほどではなかった。ただ、鼻腔の奥で、この匂いが何年も前から待っていたような感覚があった。
矢島が運転席に座り、凪が助手席に乗り込むと、荒木は運転席後方にある仮眠用のベッドスペースへと潜り込んだ。
「前は嬢ちゃんがナビで、俺が手足だった」荒木が薄暗い仮眠スペースから身を起こして言った。「今度は矢島が手足で、俺は口だけか」
凪は正面の道を見据えたまま答えた。
「荒木さんの口は、だいぶ重要な部品です」
背後で、荒木が鼻を鳴らす音がした。
矢島がキーをひねる。太いセルモーターの回転音の直後、ディーゼルエンジンが重低音とともに目覚めた。
──祖父が西へ走った夜があった。荒木と東へ走った夜があった。今度は、北だ。
銀嶺号が、ゆっくりと動き出した。
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関越自動車道のインターチェンジ。
ETCゲートを通過する際、車載機から『ヒューマンバックアップ車両確認』という短い電子音が鳴り響いた。
高速本線へ合流すると、そこにはすでに自動化されたロジスティクスが隊列を組んで流れていた。滑らかでミリ秒単位の完全停止をこなす最新型の自動運転トラックたちの間を、銀嶺号という旧式のディーゼルトラックが、黒い排気ガスをかすかに吐きながら堂々と走っていく。
窓の外から見れば極端な異物だが、彼らは完全な正規の手続きを踏んで走っていた。
矢島の運転は、荒木のような積年の『凄み』はないかもしれない。しかし、速度は恐ろしいほど安定しており、車線変更の判断も迷いがなく、必要なときに必要な操作だけを行う、極めて信頼できる手つきだった。
北陸道へと入り、山深くなるにつれ、外の空気は冷たく、暗くなっていった。
夜の車内には、言葉はほとんどなかった。時折、仮眠スペースの荒木が路面の状況を予測して端的な指示を出し、矢島が余計な相槌を打たずに無言でそれに従う。それで十分だった。
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やがて、夜が最も深く、冷え切った時間帯。燃料計の針は四分の一を切っていた。秩父から三百二十キロ。銀嶺号の航続距離は満タンで約九百キロ──帰路の分は、ある。だが余裕があるとは言えない。
銀嶺号は、日本海に面した港町を包囲するように引かれた封鎖線の手前で、ゆっくりと停止した。
赤色灯を明滅させた警察車両と、防護服を着た保健所の職員たちがバリケードの前に立っている。彼らは、暗闇から現れた巨大な旧式のトラックに戸惑ったように懐中電灯を向けた。
「車両の用途と、搭乗者の確認をお願いします」
マイク越しのくぐもった声が聞こえ、凪は助手席のドアを開けてアスファルトの上に降り立った。
「ヒューマンバックアップ制度に基づく、人道支援物資の緊急輸送車両です」
凪はファイルから書類一式を取り出し、職員へと手渡した。
「通行許可証、および検疫免除申請の写しはこちらに」
職員が厚い防護手袋の中の指で書類をめくり、ライトで照らしながら一枚一枚確認していく。チェックには長い時間がかかっていたが、凪は急かさず、静かに立ったまま待った。
キャビンの中では、荒木が仮眠スペースから身を乗り出し、窓越しに封鎖線の向こう側の闇を見つめていた。バリケードの奥に、申し訳程度の外灯の灯りが数点、弱々しく瞬いている。
「確認しました」
職員が書類一式を凪に返却し、一歩下がった。
「通過の際は、前方の検疫ゲートへお進みください。滞在時の規定については、お渡ししたマニュアルに準じて行動してください」
凪が再び助手席に乗り込み、ドアを閉める。
矢島がハンドブレーキのロックを外し、ギアをセカンドに入れる。
東の空の端が、かすかに白み始めていた。夜が明けようとしている。
銀嶺号のヘッドライトが、封鎖線の向こう側の、錆びた港町を暗闇の中から切り取った。




