第17章「凪の夜明け」(1)幌を外して
検疫ゲートの前に立つ職員は、ヘッドライトの光の中から現れた旧式のディーゼルトラックに防護服越しの警戒感を隠さなかった。しかし、同時にその巨大な車体が運んできた物資という明らかな解決策に対して、安堵の息を漏らしてもいた。
「責任者の方ですね。改めて、条件の確認をお願いします」
検疫責任者は、バインダーに挟まれた書類を凪に差し出した。
「今回の進入は人道支援物資の緊急搬送に限定された特例です。滞在時間は最低限にとどめ、防護装備を持続着用すること。そして何より、内部の感染者リストを持ち帰ること」
「リストは持ち帰ります」
凪は声を荒げることもなく、淡々と答えた。
「ただし、使用目的は医療機関での引き継ぎと治療方針の策定に限定されます。そのための確認書も、こちらで用意しました」
凪は自分のクリップボードから一枚の書類を抜き出し、責任者に差し出した。官僚的な手続きは退屈で非効率に思えるかもしれないが、ここではその退屈さこそが双方の興奮状態を凪がせ、結果的に扉を開く鍵になる。
書類の束に三か所のサインを済ませると、凪は渡された防護マスクを受け取った。
条件を積み上げれば、ゲートは開く。それだけのことだ。凪の胸中に、特別な感慨はなかった。
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検疫ゲートを通過した直後、コミューン本体の入口手前の空き地で銀嶺号を停車させた。
凪が助手席から降りると、夜明け前の冷気の中にディーゼルの排気が混じっていた。あの旅の始まりと同じ匂いだった。運転席から降りてきた矢島とともに、荷台の幌を留めていたロープを解き始めた。固定具を外し、重い幌を前へと捲り上げる。
暗がりの中に、真新しい発電機や山と積まれた薬品の箱、水缶といった物資がむき出しになった。かつて、御母衣の林道で銀嶺号の荷台を外から見たときと同じ光景。だが、今の凪はそんな感傷に浸ることもなく、次の行動に移った。
物理バリケードが横にずれ、幌を外した銀嶺号が広場のような場所にゆっくりと入っていく。
周囲の建物の影から、コミューンの住民たちが十数人、距離を置いてこちらをうかがっていた。
見知らぬ巨大なトラックに対する不信と警戒。しかし、むき出しになった荷台の上の「物資」が目に入ると、張り詰めていた彼らの人垣がかすかに揺らいだ。
「待て」
人垣の中から前に出ようとした若者を、波多野が手で制した。
矢島は降車すると、誰に話しかけることもなく、荷台のアオリを下ろして黙々と荷降ろしを始めた。荒木はキャビン後方の仮眠スペースから降りようとせず、窓越しにその光景を見ているだけだった。長旅の疲労が七十三歳の身体を蝕んでいるはずだが、その鳶色の目は澄み切っている。
「あんたたち、何者だ」
波多野の仲間の男が、警戒を解ききれないまま声をかけた。
「トラックの運転手です」
矢島は箱を下ろしながら、一言だけ答えた。
その直後、キャビンの窓から荒木が身を乗り出し、低く枯れた声で、ひと言だけ付け加えた。
「俺は、元・運転手だ」
荒木の口角がわずかに上がっている。珍しいことだった。
凪は波多野に小さく会釈し、「案内をお願いします」と言って歩き出した。
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波多野のあとに続いてコミューン内を視察した凪の観察は、短く、的確なものだった。
発症者十二名。うち重症二名。持ち込んだ解熱剤と抗ウイルス薬は七日分。医療チームの到着予定は最短で四十八時間後。数字の間に、命が挟まっている。
通信機器は完全にシャットダウンされており、Wi-Fiの電波はまったく飛んでいない。宗国製の発電機は一つだけ稼働していたが、燃料の限界が近いのだろう。電力は集会所である公民館と、それに付随する医療スペースだけに集中して回されていた。日中にもかかわらず、建物の奥は薄暗い。
簡易隔離スペースとして使われている大広間には、咳き込む人々の声が響いていた。薬の匂いと、汗と、消毒液が混ざり合った特有の重い空気が漂っている。
地元でたった一人、対応に当たっている開業医の疲労しきった顔を見た凪は、何も言わずに持参した薬品と物資のリストを取り出し、そのまま手渡した。
山間部コミューンは、道だけを切った。だから電気と通信はしばらく持った。凪は薄暗い廊下を歩きながら、冷静に現状を整理した。ここは違う。宗国が手を引いた瞬間に全部が落ちた。「外に預けた」ツケが、一度に来ている。
公民館のさらに奥。事務所として使われている部屋から、城崎が姿を現した。以前会ったときの毅然とした態度は、もはや形ばかりの虚勢としてしか残っていないように見えた。
「これ見たことか、と言いに来たのか」
城崎の口から突いて出たのは、そんな防御的な言葉だった。
「言いに来たんじゃなくて、薬と発電機を持ってきました」
凪は一拍も置かずに答えた。
城崎は息を詰まらせ、返す言葉を失った。凪はその沈黙を待つことすらせず、視線を手元のクリップボードに落として次の確認事項に移った。
離れた場所に、周が立っていた。
怒りや悲しみというより、ただ処理しきれない現実の前で呆然としている顔だった。
「彼らは……本当に行ってしまったんだ」
凪が近づくと、周が誰に当てるともなく力なく呟いた。
「米国製の機器に全交換するための技術者なら、手配できます」凪は事実だけを述べた。「ただし、検疫の検査と情報共有に同意してもらう必要があります」
周は何も答えなかった。だが、その背中が凪の言葉を確かに受け止めているのがわかった。
「早瀬さん」
凪をそう呼んだのは、波多野だった。城崎でも周でもなく、一番現実を直視している彼が先に動いた。
「条件を聞こう。あれだけのものを持ち込むには、タダってわけにはいかねえんだろう」
「このあと、全員の前でまとめて説明します」凪は真っ直ぐに波多野の目を見た。「今日中に決めてほしいんです。時間がありません」
波多野は力強くうなずいた。そこに絶望や諦めはない。現実的な人間が、生存のための現実的な選択肢に向けた顔だった。
凪はその表情を見て、手元の無線機を手に取った。
『こちら検疫ゲート』
「早瀬です。医療チームの追加派遣を要請します。交渉は、今夜中に終わります」
明確な勝算があった。波多野が動けば、ここは動く。




