第14章「先行事例」(2)先行事例
合意が形成され、集会所から人が散っていく。
三浦はすぐに具体的な手配のために端末へ向かい、大庭は行政への連絡のために固定電話を握っていた。
杉本夫妻が隣室から子どもを連れて帰ろうとしたとき、淳が振り返り、凪に向かって無言で深く頭を下げた。凪も軽く会釈を返す。
光が壁際から離れ、外へ出ていくのが見えた。凪もつられるようにして、公民館の縁側のような廊下へと出る。
外の空気は冷たく、頭を冷やすにはちょうどよかった。
---
廊下の端で、葛城が紙巻きの煙草を吸っていた。この時代、自動運転車両の車内では電子煙草すら禁止されているが、この山間部ではまだ古い習慣が生き残っている。
凪が近づいて隣に立つと、葛城はちらりと横目で見ただけで、何も言わなかった。二人は並んで、遠くの山を眺めた。
やがて葛城が紫煙を細く吐き出し、ぽつりと言った。
「道に筋肉を戻した、ってやつか」
自分の言葉を拾われたことに少し驚きながら、凪は間を置いて答えた。
「まだ半分だけです」
葛城がかすかに鼻で笑う。嘲笑ではなく、探るような、確認するような響きだった。
「残り半分は?」
「使えるようになったとき、それがきちんと筋肉として使われることだと思います。スイッチは、押すべきときに押せなければ意味がない」
葛城はもう一度深く煙を吸い込んだ。そして、足元で煙草を揉み消し、ゆっくりと立ち上がった。
彼は何も言わずに、背を向けて建物の中へと戻っていった。
否定はされなかった。それで十分だった。彼のような男が「理解した」などと口にするはずがない。行動と態度がすべてだ。
ただ、凪が言った言葉と、葛城が受け取ったものが同じかどうかは、わからなかった。
---
旧校舎の脇まで歩くと、光が壁にもたれかかっていた。校舎の中からは、まだ残っている子どもたちの声が響いている。
「なんか……決まったんですね」
光が呟くように言った。
「とりあえずの方向は、ね」
光は校舎の窓を見上げた。昨日までの皮肉めいた色は抜け、代わりにもう少し透明な何かが宿っているように見えた。
「ここが、『逃げ込む場所』じゃなく『学びに来る場所』になったら、俺は案内役くらいにはなれる」
独り言に近い声だった。凪に向けられた言葉なのか、自分自身への宣言なのかもわからない。
凪は何と答えればいいか迷い、結局何も言わなかった。光もそれ以上は言葉を継がず、二人は少しの間、子どもたちの声をただ聞いていた。
---
昼過ぎ、凪は村の入口のバリケード前で大庭の軽トラックから降りた。
そこには、新座を出発したときに乗ってきた自動運転の公用車が待機している。
大庭に対し、凪は短く挨拶をして公用車へと乗り込んだ。
車載AIが起動し、モーターとインバーターのハム音が響く。昨日とは違い、この車は今度上がってくるときには、バリケードで止められることなく村の中まで入れるはずだ。
山道を下る滑らかな自動運転の中で、凪はタブレット端末を開き、報告書の草稿に向かった。
ヘッダーのタイトル欄に文字を打ち込む。
『先行事例:山間部コミューン(仮称)』
最初は『モデルケース』と打とうとしたが、思い直して削除し、『先行事例』とした。
モデルと呼ぶにはまだ早い。これが他の地域でそのまま再現できるかどうかもわからない。だが『先行事例』なら嘘ではない。次に来る誰かが道に迷ったとき、一つの地図にはなるはずだ。
タイトル欄の文字を見つめながら、凪は指先がわずかにこわばっているのに気づいた。自分はたった今、一本の線を引いた。あの村を「先行事例」と呼ぶという線を。それが正しい線かどうかは、まだわからない。ただ、嘘ではないという一点だけを頼りに、凪はその文字を確定した。
---
報告書の骨組みを打ち終え、肩を回して息をついた後、凪はルーティンで情報端末のニュースフィードを流し見した。
プッシュ通知で流れてきた一つの特集記事に目が止まる。
『日本海側コミューン、自治体・漁協との軋轢深まる』
見出しをタップする。国の支援条件を完全に拒絶し、独自運営を続ける独立コミューンが、近隣の住民や漁業組合と激しい摩擦を起こしているという内容だった。農作物の流通ルートを巡るトラブルや、排他的な運営方針への批判が並んでいる。
また別のコミューンか。凪は疲労混じりの息を吐いた。山間部の問題を一つ解きほぐしたばかりだというのに、問題は形を変えてそこかしこで噴出している。
記事を閉じようとした指が、本文の最後の一行で止まった。
『──沿岸部特有の物流依存と人口流動の激しさが、閉鎖的な山間部とは根本的に異なる摩擦を生み出している』
「山間部とは違う……」
凪は記事を閉じず、もう一度最初から最後まで目を通した。
記事の内容はあくまで表面的なものだった。ただの地域間トラブルのように見える。
だが、凪は膝の上に端末を置き、窓の外で遠ざかっていく山並みを見つめた。
山の問題は、「道」を開ければ動き出す。電気も通信も後からついてくる。
だが、海は? そもそも、海に向かって開かれた港町で、何がどのように「閉じて」いるというのか。
答えは出なかった。ただ、今までとは全く質の違う、厄介な火種が燻っているという予感だけが、凪の胸の奥で静かにうごめいていた。
公用車が山間部を抜け、平野部へと出る。バックミラーの中で、村のあった山が小さく縮んでいった。




