第12章「山の端のコミューン」(2)手動運転教習所
──凪が村に入る、数日前のこと。
秋の午後の日差しが、アスファルトの駐車場に長い影を落としていた。
首都圏の郊外にあるその教習所は、かつて閉鎖された自動車学校の居抜き物件だった。真新しい看板には「手動運転免許教習所」と銘打たれている。ヒューマンバックアップ制度の導入に伴い、手動運転の技術を再び人間に取り戻すために復活した施設の一つだ。
早瀬凪は、教習車の前で小さく深呼吸をした。
建前としては、日環ロジスティクスの「手動・自動統合運用課」課長として、現場の訓練プログラムを策定するために免許が必要だから、ということになっている。自分が免許を持っていなくては、制度の説得力がない。
だが、本音は少し違った。
あの御母衣の夜、銀嶺号の助手席で感じたあの重さ。そして秩父で初めてハンドルを握ったときの、手のひらにのしかかってきた物理的な重圧。
あれを、もう一度確かめたかった。あの感覚が消えてしまう前に、自分の身体にしっかりと刻み込みたかったのだ。
「乗るぞ」
助手席から声をかけたのは、凪の担当教官である男だった。四十代前半、短い髪と精悍な顔つきをした寡黙な男だ。名簿には矢島とある。必要なこと以外はほとんど口にしない。
「はい」
凪は運転席に乗り込み、シートベルトを引き出した。教習車は旧式のセダンで、マニュアルシフト車だ。
エンジンをかけ、クラッチを踏み込み、ギアをローに入れる。半クラッチの感覚を探りながら、ゆっくりとアクセルを踏んだ。車体がふわりと前に押し出される。
教習所のコースを走り始める。
凪の頭の中には、法規も道路構造も、運転のシミュレーションも完璧に入っていた。座学のペーパーテストなら常に満点だ。どのタイミングでウインカーを出し、どの角度でハンドルを切るべきか、計算はできている。
だが、身体が、どうしてもゼロコンマ五秒遅れる。
カーブの見通し。対向車の存在。歩行者の飛び出しリスク。交差点の手前で、凪は理屈で安全マージンを取りすぎ、ブレーキペダルを踏むタイミングが早くなってしまう。ガクッと車体が前のめりになり、速度が落ちすぎた。
「……」
矢島は補助ブレーキに足を乗せたまま、じっと前を向いている。それから、ぽつりとこぼした。
「あんた、頭で運転しすぎだ」
その言葉に、凪は思わず苦笑した。
「……やはり、そう見えますか」
「シミュレーションとしては百点だ。だが、車は理屈じゃ走らん。道には凹凸があり、タイヤには摩擦があり、車体には重さがある。頭が先に動いて、身体が遅れてる」
それは、秩父の路地で荒木に言われた言葉と、まったく同じ構造だった。『知識はいい。足で覚えろ』
凪はハンドルを握り直す。自分はまだ、「知っているだけ」の側にいるのだと痛感させられる。
実技教習が終わり、ロビーに戻ると、矢島は教習簿にハンコを押し、事務的に告げた。
「座学は文句なしだ。卒検も問題ないだろう。だが、免許を取ってからが本番だ」
「距離を乗る、ということですか」
「そうだ。本免を取ったら、まず千キロ。それで手が覚える。二千キロ乗れば、身体が忘れなくなる。頭じゃなく、身体の距離だ」
凪は頷いた。千キロ。二千キロ。それは知識から身体への長い距離だった。
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教習所を出て、駅へと向かう帰り道。秋の夕暮れが街をオレンジ色に染めていた。
ポケットの中で端末が振動した。画面を見ると「佐伯信吾」とある。
「はい。早瀬です」
「早瀬さん。お疲れ様です。お休み中にすみませんね」
「いえ。教習の帰りですから……。佐伯さんこそのんびりしていいはずでは?」
「荘川オフサイト拠点の管理人に正式就任しましてね。こんなこともあろうかと、今度は自分の就職先を備えておいたようなものです」
凪は声を出して笑った。佐伯のそのユーモアに、少しだけ心が和む。
「佐伯さんらしいですね。テープの様子は?」
「万全ですよ。ただ……それはそうと、少し困った話がありまして」
佐伯の声のトーンが、スッと一段下がった。
凪は足を止め、端末を耳に押し当てた。冷たい風が頬をかすめていく。
「……何があったんですか?」
「あなたの助けが必要な場所があるんです。理屈ではなく、重さの答えを探している場所が」




