第18章「轍の先」(2)それでも轍は残る
少し落ち着いた夕方、凪は人気のない廊下の隅に移動し、荒木に電話をかけた。
「荒木さん。……ニュース、見ましたか」
『見た。嬢ちゃんが伝説になったんだと』
荒木の声には笑いも皮肉もなかった。
「なってません。走っただけです」凪は少しだけむきになって言った。
電話の向こうから、短い吐息のようなものが聞こえ、そして、長い沈黙が流れた。
『……源蔵さんも、そう言ってたよ』
不意に落とされたその言葉に、凪は息を呑んだ。
『走っただけの人間が伝説になる。それが、この国の道の歴史だ』
荒木の声は、どこまでも穏やかで、世界の仕組みそのものを語るようだった。
凪は何も返せなかった。自分が引いてきた線が正しかったのか、今もわからない。わからないまま走り、走っただけのことが、もう自分のものではない物語になろうとしている。否定も肯定もできなかった。ただ、祖父に直に触れたようなその言葉の重さを、凪は黙って受け止めた。
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数日後、山間部のコミューンにいる光から、ひと言と写真が届いた。
『視察とか研修の依頼が来始めてる。うちの村長が調子に乗っててヤバい』
写真には、案内所らしく改装された公民館の一角が写っている。
『葛城さんから伝言。"先行事例ってやつか。──悪くない"だってさ』
凪は光のメッセージを読んで、小さく頷いた。孤立し、錆びついていたあの村が、「モデルケース」としてちゃんと自走し始めている。それに対する静かな安堵があった。
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日本海側のコミューンについての情報も、断片的ながら管制センターのネットワークを通じて入ってきていた。
マニフェストを書いた城崎は法的な責任を問われることになったが、最終的に検査と医療の受け入れに同意した事実が考慮され、極端な厳罰化は避けられる見通しだという。
波多野は港の再建委員会の中心となり、近隣の漁業組合と再開に向けた交渉に動き出している。周は宗国との関係を完全に清算し、国内のNPOに籍を移したらしい。
そして、宗国製の通信機器および発電機はすでにすべて米国製への全交換作業が完了し、NERVAインフラへの正式な復帰が急ピッチで進められている。
終わったわけではない。彼らのそれぞれの日常が、再び再開しただけだ。
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凪は管制センターのモニターの前に立ち、画面いっぱいに広がるNERVAのインフラステータスを見つめた。
国内五拠点に分散された新しいアーキテクチャ。各リージョンのグリーンのランプが、安定した鼓動のように点滅している。
画面の隅に、新しい小さなステータス表示が追加されていた。
『viaリージョン拡充:開始予定』
凪はモニターを見つめたまま、小さく呟いた。
「……走っただけなのに」
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窓の外では、今日も自動運転トラックの隊列が滑らかに高速道路を流れている。物流は止まらず、世界は動き続ける。
銀嶺号は秩父で、荒木の家の門の前に、いつもと同じように停まっている。その車体のどこかに、まだ軽油の匂いが染みついている。
走った人間が刻むものはただの溝に過ぎない。その溝が正しい場所に刻まれたのかどうか、走った本人にはわからない。しかし、後から来た誰かがそこに溝を見つけたとき、初めて轍になり、それが道しるべとなる。
正しさも、名前も、走った人間のものにはならない。それでも轍は残る。
こちらで完結とします。
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