第18章「轍の先」(1)伝説の独り歩き
封鎖線の検問ゲートが、バックミラーの中でゆっくりと遠ざかっていく。
銀嶺号の車内は、行きに比べて明らかに空気が緩んでいた。任務を終え、張り詰めていたものが落ちたあとの、独特の静けさがあった。
矢島はハンドルを握ったまま、一言も発しない。ただ時折、ルームミラーで仮眠スペースの荒木の様子を確認するだけだった。
後方で身を起こした荒木が、ふと口を開いた。
その声は低く、変な感慨や感傷を交えない、ただの確認のようだった。
「源蔵さんのときと同じだ」
祖父の名前が出たことに、凪は少しだけ目を見開いた。
「走って行って、降ろして、帰ってきた。それだけだ」
「……」
凪は正面の道を見たまま、間を置かずに返した。
「それだけです」
「……それが一番難しいんだがな」
荒木がぽつりと言い、矢島がわずかにハンドルを握り直す気配がした。
窓の外を流れる国道の景色に、特別なものは何もない。自動運転トラックが数台、規則正しく走っているだけの、見慣れた道だ。
凪は、自分が何か途方もないことを成し遂げたという感覚を持てずにいた。足りていたものを、足りていなかった場所へと運んだ。ただ、それだけだ。
その平坦な感触だけが凪の中に残っていた。
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新座拠点に戻る道中、凪の端末に藤原部長から短い通話が入った。
『日本海側の件、きれいに片付けたらしいな』
労いの言葉というよりは、別の意味を含んだ口調だった。
「必要な物資を置き、合意を取っただけです」
『そう言うだろうと思った。さっき、米軍の情報担当からうちに非公式の接触があった。「宗国の"人道支援"が撤退し、日本が自力で処理した。これはワシントンにとっても意味がある」だとさ』
藤原のその言葉に、凪はひと呼吸の間を置いた。
「……わかりました」
通話を切ったあと、凪は窓の外を見た。景色は相変わらず単調だった。
ワシントンにとっての意味。外交的な含意。それがどれほど重いものなのか知識としては理解しているが、自分が感じている「ただ走った」という事実とのあいだには、あまりに埋め難い強烈なギャップがあった。自分がそんな「意味」のために動いたわけではないことだけは、凪の中で確信としてあった。
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新座の管制センターに戻ると、河野が廊下で待ち構えていた。いつもの気怠げな口調だったが、その目は何かを含んで面白がっているように見えた。
「おかえり。……ニュース見た?」
「何の」
「あんたのこと、『第二の銀嶺号事件』って呼んでるメディアがあるよ」
「……事件って」凪は眉をひそめた。「薬と発電機を運んだだけなのに」
デスクの奥から宮田が立ち上がり、興奮気味にタブレットの画面を向けてきた。
「早瀬さん、SNSで『銀嶺号』がトレンド入りしてます! ほら、このトラックの写真、検問所の職員が撮ったみたいで」
画面には、夜明け前の封鎖線の前で青白い照明に照らされた銀嶺号の姿が映っていた。逆光気味に撮られたその旧式トラックのシルエットは、妙に雄々しく、物語めいた雰囲気を纏ってしまっている。
ただのトラックだ。凪はため息をつきたくなった。
視線を自分の端末に戻すと、さらに大きなニュースの速報プッシュ通知が入っていた。
『via、日本国内リージョンの大規模拡充計画を発表』
東京・名古屋に加え、大阪・福岡・札幌にフルスペックのAIインフラリージョンを展開するという。添えられたviaのCEOのコメントが、間接引用として記されていた。
『日本はNERVA崩壊という前例のない危機を、自国の技術で乗り越えた。我々は、自分で立てる国にこそ投資する』
凪はその文字を見つめた。
viaの戦略転換は、日米欧の折衝、政府の交渉、米軍の思惑、そうした無数の要因の積み重なりによるものだ。自分がたった一回トラックを走らせたくらいで、それが直接動いたなどとは到底思えない。
ただ、ふと思った。
祖父も、こんなふうに"伝説"にされたのかもしれない。あのとき、祖父はただ足りない場所へ足りるものを運びに行っただけだった。本心はそこにあったはずなのに。
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伝説化は、凪の意志を無視してひとり歩きし始めていた。
業界メディアのウェブサイトには、『"銀嶺号の課長"──コミューン危機を走って解いた女』という見出しが躍っている。
SNSではその写真とともに、事実と伝聞が入り混じり、「彼女が一人ですべてを交渉した」「強引に検問を突破して物資を届けた」等と、都合のいい尾ひれがつき始めている。
「薬と発電機を運んだだけです」
凪は周囲の喧騒に対してそう繰り返したが、誰もまともに聞いてはくれない。
「早瀬さん、取材依頼がすでに三件来てます。どうします?」
宮田がどこか嬉しそうに報告してくる。有名人のマネージャーにでもなった気分なのだろう。河野は横で肩を揺らして笑っている。
「全部断って。私は忙しいの」
凪は即答した。
外側で勝手に膨れ上がっていく物語に抗議する気にもなれず、かといって受け入れる気にもなれない。凪はただ、画面の中のステータスに視線を戻した。




