第一章 天文の乱
天文十一年。奥州の空はどこかざわついた気配を運んでいた。そして伊達家中は、静かに、しかし確実に裂け始めていた。
――どう見ても、我らの勝ち目は薄いな…。
当年二十九歳の鬼庭良直は、外の陣幕を揺らす冷たい風音を聞きながら、卓上に広げられた勢力図の上の碁石を眺めながら、頭を悩ませていた。
稙宗を黙らせるためには厳しい兵力差であるという事は、誰の目にも明らかであった。
圧倒的な兵力差を前に、良直の脳内では幾通りもの戦術が組み立てられては、瓦解していく。
――伊達家が真っ二つに割れるこの戦、普通にぶつかれば数の少ない晴宗側がすり潰されるのは、誰の目にも明らかだ。さてどうする…。
ギシギシと音を立てる建付けの悪い戸の開閉に難儀しながら、良直の父の鬼庭元実が入ってきた。
「どうじゃ、数の不利を策で覆せそうか、良直」
「あ、父上、すみません、この様な時間に」
良直は居住まいを正し、父に対面した。
「はい、戦闘における策はいくつか試みてみましたが、どれも手詰まりですね」
「やはりな…。稙宗様の見境ない政略結婚や養子縁組が、ここまで問題を大きくしてしまうとはの…」
元実は、広げられた勢力図の上に置かれている碁石を眺めながら、「良直、晴宗様方はどちらじゃ」
「白です」
「ずいぶん少ないのう」と深いため息をついた。
「終わっております。最上も蘆名も皆向こうです」
「そうか…」
「ところで…、父上に一つ訊ねたい事があるのですが、よろしかったでしょうか?」
「遠慮せずに聞くがよい」
「なぜ父上は、圧倒的に不利になると目されていた晴宗様方についたのですか? 私は父上の判断に従うと決めておりました故、何の迷いもありませんでしたが、一度父上の真意を聞きとうございました」
すると元実は笑みを浮かべた。
「大義じゃよ。わしが物事を判断するとき、そこに大義があるか否かで決めておる。此度の戦においては、晴宗様は私利私欲ではなく、稙宗様の暴走を止めるため、乱れを正すためであるので、利ではなく義によって動いておられる。大義の下に動いている方は、強い、そしてぶれぬ。だが利で動いている者たちは、また利によって簡単にぶれて動いてしまう」
元実がそう言った瞬間、良直は破顔し、嬉々とした表情で叫んだ。
「それです父上。 我が方を優位に変える唯一の策がありました。 これで何とかなるやもしれません。まずは、戦闘における策ではなく、兵力の差を埋める策を練らねばならなかったのです」
「風が起きぬのなら、こちらから風を乱して、風向きを変えてやればよいという事じゃな、良直よ」
「その通りです」
「そういうことであれば丁度良かった。それを実行するにふさわしい者を呼んでおった。 黒磁、姿を現すがよい」
良直は周囲を見渡したが、誰も現れない。そして後ろを振り返るとそこには黒ずくめの影が、音もなく姿を現していた。
「黒脛巾組の黒磁と申します。以後お見知りおきを」
良直は背筋が凍った。普通そこに人がいれば、空気は必ず揺らぐ。絶対といっていい。揺らぎが起こらないのは人形と死体くらいである。 しかしこの男はそこにいたのに、良直でさえ気づくことができなかった。
「ほう、良直でも気づかなんだか」
「父上、黒脛巾組とは?」
「伊達家に仕える隠密集団じゃ」
良直は今度は黒磁に聞いた。
「黒磁殿は今の情勢をどの様に捉えておりますか」
黒磁は落ち着いた声で答えた。
「私が見るに、どの大名をとってみても氷上に咲く花のようなものです。本来なら地面に深く根を張るところですが、表面に複雑な姻戚関係が敷き詰められているので、強いつながりを持っているところは少ないと見えます。きっかけさえ与えてやれば、どちら側にでも簡単になびくでしょう」
「なるほど」良直は頷いた。
「では、誰の風向きを変えてやるのが一番良いか、三人でそれぞれこの紙に書いて、同時に開けてみませんか」
「よかろう」
「承知しました」
三人は筆をとって、カギとなる人物の名前を書いた。そしてその紙を裏返しにして目の前に置いた。
「父上、黒磁殿、よろしいですか。では同時に開きましょう。三、二、一、…」
「……蘆名盛氏」
三人とも同じ人物の名前を書いていた。
元実の目が細くなる。良直は自分が持っている情報を語る。
「蘆名盛氏は、稙宗殿の強引な政略に不信を抱いています。時宗丸の養子の件も、蘆名にとっては他人事ではありません。あれは、奥州の均衡を乱します。姻戚関係の絡みから早い段階で稙宗殿支持を表明した格好になってしまいましたが、実のところ後悔しているような話が聞こえてまいります」
「わしも同じように聞いておる」
元実は目を閉じたまま腕組みをして、頭を大きく上下に振りながら 良直の話に同意した。
「近隣の大名たちも、稙宗様を指示したというより蘆名盛氏についていったと言った方が正しいので、もし盛氏が寝返るような事があれば、他の多くの大名たちも同調して、最終的には形勢が全く逆になることも考えられます」
黒磁が声を発した。
「蘆名家中では、稙宗殿が姻戚を増やしすぎたことに、家臣たちは不満を抱いております。更に今、仙道をめぐって田村と蘆名の間で領土問題が起きつつあり、この両者に不和が生じているので、蘆名を少し焚きつければ、稙宗様側から離反するのは確実かと思われます…」
元実は黒磁を見つめて
「蘆名が動けば、奥州の風は変わります。だが、どう動かすか」
黒磁は静かに答えた。
「揺らぎは既に始まっており、誰かが背中を押すだけです」
元実が立ち上がった。
「わしが蘆名盛氏と会おう。晴宗殿の覚悟を伝え、稙宗殿の暴走を止めるための道を示す」
良直も立ち上がって
「ならば、私は晴宗様の軍略を整え、備えておきます」
黒磁は深く頭を下げた。
「私は蘆名家中に風を流し、稙宗殿の不信を、さらに大きく」
三人は、静かに頷き合った。
その夜、奥州の風はわずかに向きを変えた。
(蘆名盛氏の居館)
冬の風が障子を揺らし、かすかな音を立てていた。元実は静かに茶を置き、盛氏を見つめた。
「盛氏殿。風向きが変わりつつあること、感じませんか?」
盛氏は眉をひそめた。
「……風向き、とな」
元実は頷く。
「左様、稙宗殿は、姻戚を増やしすぎました。その網の目は、もはや“結び”ではなく“縛り”となっております。時宗丸様の件も、蘆名にとっては決して他人事ではありますまい」
盛氏の目がわずかに揺れた。
「……確かに、あれは行き過ぎだ」
「それに、田村とは、仙道(中通り)の領地の件で衝突していると耳にしておりますが、稙宗様はあまり力添えになってくれないのではありませんか?」
盛氏は眉間にしわを寄せながら
「我らの話も聞いてはもらえぬ…」と嘆いた。
「田村に加えて佐竹との衝突も長きに渡っているため、戦費の方も苦しいのではと推察いたしますが…」
元実はさらに一歩踏み込んだ。
「このまま稙宗殿に従えば、蘆名は“奥州の均衡を乱す側”と見られます。しかし、晴宗殿につけば 蘆名は“奥州を正す側”として名を残しましょう」
盛氏は黙したまま、風の音に耳を澄ませた。
その時、障子の外で風が強く吹き、庭の木々が揺れた。
盛氏はその揺らぎに、何かを悟ったように目を閉じた。
「……元実殿。この風は、稙宗殿の側には吹いておらぬようだ」
元実は深く頭を下げた。
「蘆名が動けば、奥州の風は変わります」
盛氏は静かに立ち上がった。
「よかろう。蘆名は晴宗殿に与する」
その瞬間、奥州の風は確かに向きを変えた
そして数ヶ月後、蘆名盛氏が晴宗側に寝返る。その知らせが届いた瞬間、周辺の大名たちは雪崩を打つように晴宗側へと転じた。
稙宗側の勢力は一気に崩れ、天文十七年、時の将軍、足利義輝の仲裁により、稙宗は隠居し晴宗に家督を譲るという条件付きで、父子は和睦。晴宗が家督を継ぐこととなった。
ここにきてようやく六年の長きに渡る父子の争いに終止符が打たれたのであった。
鬼庭父子は、蘆名盛氏を寝返らせた功績が晴宗から大きく評価され、伊達家内での地位や発言力も大きくなっていった。




