第十一章 最後の大役
「彦五郎殿、お願い致す」
左月斎が発した橋破壊の合図は、はっきりと、確実に彦五郎の耳に届いていた。…しかし…
彦五郎は迷っていた。
もし、合図通りにこの橋を壊してしまったらどうなるのだろう。自分は逃げ帰ることができるかもしれないが、左月様はどうなる。少なくとも左月様が向こう側にいる間は、橋を壊さない方がよいのではないのか?彦五郎の葛藤が続く。
すると左月斎が再び合図を出した。
「彦五郎殿」
もうこれ以上は待てないだろうと思ったその時、彦五郎は、こちら側の岸からじっと戦況を眺めている騎馬武者を発見した。
「あ、あれは綱元様」
その姿を見て彦五郎は安堵した。綱元ならきっと左月斎を連れて帰るはずだと確信したからだ。そして、自分が最後になることも決めたのだった。
そして、左月斎と十郎の勝負は決した。
彦五郎が壊さず残しておいた橋を渡って、綱元は父の元へ行き、その亡骸を馬上に抱えた。そして、義重と十郎に深々と礼をし、やってきた道を戻って行った。その二人の姿を彦五郎はじっと見つめていた。 そして彦五郎は橋の根元に打ち込まれた巨大なくさびの前に立った。――これを抜けば、橋は落ちる。政宗様は助かる…。そのための時間を稼げる…。
自分に言い聞かせるように呟き、槌を握った。
風が吹いた。その風は、まるで「急げ」と背を押すようだった。
五郎は大きく息を吸い込み、一撃目を叩きつけた。
ガンッという鈍い音だけがした。
くさびは微動だにしない。焦りが胸をよぎる。
「嘘だろ?こんな時に…」
二撃目。
今度は更に全身の力を込めて振り下ろした。
ガギッ!!
くさびが、ほんのわずかに動いた。
「動いたが、まだ倒れねえ!」
その時だった。敵兵の怒号が飛ぶ。
「おい、あいつ、橋を壊そうとしとるぞ!」
「止めろ!」
彦五郎が橋を壊そうとしているのを敵兵が見つけて、敵が騒ぎ出した。彦五郎の背筋に冷たいものが走った。
「くそっ、気づかれたか!」
幸いにもすぐ近くには敵兵の姿はなかったので、もう一発叩ける時間があった 。
彦五郎は、これで最後だと槌を振り上げる。全身に最大の力を込め、降り下ろそうとしたその瞬間、敵陣の方から風を切る音が聞こえた。
「なんだ今の音は」
そう思った瞬間、彦五郎の背と肩に強い衝撃が走った。
――矢だ…、くそっ、こんな時に…。
膝が折れかける。視界が揺れる。
「ゲホッ」血が口に上がってくる。
それでも、彦五郎は槌を離さなかった。
「まだだ、まだ終わらん…、ま、政宗様を死なせてた・ま・る・か」
最後の力を振り絞り、全身の筋肉が悲鳴を上げるほど槌を振りかぶる。
「うおおおおおおおおッ!!」
渾身の一撃が、くさびを叩き砕いた。
メリメリ……ッ!
橋が大きく軋み、
次の瞬間、轟音とともに崩れ落ちた。
ドオオオオオオオオッ!!
敵兵の叫びが川の音に飲まれる。
彦五郎は崩れゆく橋を見届けると、その場にゆっくりと膝をついた。
「左月様、約束は果たしました。守るべきお方…、政宗様のため…」
安堵の笑みを浮かべたまま、彦五郎は静かに目を閉じた。
その身体は、風に揺れるように倒れた。
彼の“最後の大役”は、確かに果たされた。




