第十章 決着の時
騎馬隊が倒れ、雪原に静寂が戻った。しかし、それは嵐の前の静けさにすぎなかった。佐竹軍の後方で、巨大な影が動いた。
「本隊、前へ!」
鬨の声が雪を震わせ、黒い波のように歩兵の大軍が押し寄せてくる。 三万の兵が一斉に動くと、大地そのものが唸り声を上げているようだった。
「来おったな。これが本番よ。三人一組、風三角を崩すな!」
左月斎の声が響く。この声に応えるかのように、六十人は橋の前に三角形の陣を連ね、まるで動かぬ石垣のように構えた。そこへ佐竹軍の歩兵が雪煙を上げて突っ込んでくる。
「押し潰せぇぇぇい!」
怒号とともに、槍、刀、長巻が一斉に振り下ろされる。一人、また一人と、鬼庭の老兵が雪の上に崩れ落ちていく。倒れた仲間の前に、残った二人が無言で立つ。
「わしらは三人で一つ……一人欠けても、まだ二つ残っとる……!」
「そうじゃ…最後の一人になるまで、三角は崩れん……!」
血で赤く染まった雪の上で、三角形の陣はなおも形を保ち続けようとした。そして左月斎は、倒れていく仲間たちを横目に見ながら静かに呟いた。
「皆、よう戦った。おぬしたちの死は決して無駄にはせぬ」
連合軍がこの橋を渡っていくのを拒むかのように堤防の如く積まれた勇者たちの亡骸は雪原を朱に染めていた。
鬼庭隊六十人の三角陣は、もはや形を保つのがやっとだったが、それでも誰一人として退かなかった。
周囲には、すでに百を超える敵の亡骸が積み重なっていた。
――まだ、風は止まらぬか……。
血に染まった雪原に、残っているのは二人…鬼庭辰兵衛と左月斎だけだった。
「左月の旦那…、楽しかったぜ…じゃあな…」
その辰兵衛も笑みを浮かべながら崩れ落ちていった。
ただ一人立つ左月斎。その凄絶な姿を、じっと見つめている武者がいた。磐城家臣、窪田十郎である。
――あれが、奥州に名を轟かせる鬼庭左月斎か……。御年七十三と聞く。だが、なんだあの気迫は。まるで巨大な山と対峙しているかのようだ…。
十郎は震えていた。恐怖からではない。魂を揺さぶられるような武者震いである。
数多の兵が束になっても一歩も引かず、主君のために命を燃やす老将。このまま雑兵たちの槍に突かれて死なせるには、あまりにも惜しい、真の“武士”であった。
――このまま無様に討たせるわけにはいかない。ならばこの私が、一騎打ちにて名誉ある引導を渡して進ぜよう…。
十郎は、手柄を求める功名心よりも、純粋な敬意に突き動かされ、馬の腹を蹴った。
「道を開けい!」
雪煙を上げて駆けてくる若武者に、連合軍の兵たちが道を譲る。鎧には磐城家の家紋。十郎は左月斎の眼前に歩を進めると、馬を降り、大声で名乗りを上げた。
「拙者、磐城家臣、窪田十郎と申す。鬼庭左月斎殿とお見受けした。その御命、拙者が頂戴仕る。いざ、尋常に勝負!」
十郎の声は、戦場の喧騒を切り裂くように響いた。
(そのころ)
政宗の退却戦は混乱を極めていた。
三万の敵が押し寄せてくる。
風は荒れ、雪は横殴りに吹きつけ、視界は白く煙っている。その中で、綱元は政宗のすぐ後ろに位置し、父の代から続く“鬼庭の役目”として、主君の背を守っていた。
そこへ、血に染まった伝令が馬をよろめかせながら駆けてきた。
「申し上げます。左月斎殿、殿軍として敵を食い止めておられます!」
綱元の胸が締めつけられた。
「父上が……殿軍を……?」
政宗は綱元の表情を見て、すぐに察した。
「綱元、行きたいのだな」
綱元は馬上で深く頭を下げた。
「殿、父上のもとへ参らせてください。加勢できずとも、せめて……その最期を見届けとうございます」
政宗はしばし沈黙した。
風が二人の間を吹き抜け、雪を巻き上げる。
「よい。ただし、絶対に死ぬな。様子を見るだけだ。戻ってこい。鬼庭の名は、おぬしが継ぐのだ」
綱元は拳を握りしめた。
「はっ……必ず戻ります!」
そして馬を返し、人取橋へと駆けた。
綱元が近づくにつれ、風が変わった。
焦げた血の匂い、折れた槍の軋み、呻き声風が全てを運んでくる
やがて視界が開けた、綱元は息を呑んだ、赤黒く染まった川岸、折り重なる亡骸。その中で、まだ動く影が二つ。
ひとりは窪田十郎。
もうひとりは…父、鬼庭左月斎。
今まさに父親と敵将の一騎打ちが繰り広げられようとしていた。
十郎が刀を抜くと、周囲の兵たちも獲物を横取りすまいと前へ出ようとした。だが、その動きを止めたのは敵将、佐竹義重の一声だった。
「待て。これは武を極めた者同士の勝負よ。乱すな」
三万の軍勢が静まり返る。
左月斎はその名を聞き、わずかに目を細めた。
「……磐城の若き血か。ならば、容赦はせぬ」
十郎は雪を蹴り、一気に間合いを詰めた。その動きは若く、鋭く、まるで獣のようだった。
十郎が渾身の太刀を振り下ろす。だが、左月斎の槍は“風”を纏い、十郎の太刀筋を完全に読み切っていた。
金属がぶつかる甲高い音が雪原に響く。
――なんだ、この重さは!
十郎は驚愕した。甲冑も着けず、綿帽子に陣羽織という出で立ちだというのに、太刀を受ける手が痺れる。
――これが、伊達を背負ってきた男の凄みか!
十郎の刀が左月斎の肩をかすめ、左月斎の槍が十郎の脇腹を裂いた。互いに血を流しながらも、二人は一歩も退かない。痛みよりも、十郎の胸を占めていたのは強烈な高揚感と、眼前の老将への畏怖だった。
周囲の兵たちは息を呑んだ。
――あれが、鬼庭左月斎…。
――窪田十郎でさえ押されている…。
「風が止む。わしの命も、ここまでか」
左月斎の呟きとともに、十郎が叫び、刀を振り下ろした。左月斎は槍を横に払って受け止めたが、限界を超えたその腕を、十郎の刃が深く裂いた。 槍が雪の上に落ちる。十郎は息を荒げながら叫んだ。
「鬼庭左月斎、覚悟」
左月斎は、落ちた槍を拾おうとはしなかった。ゆっくりと背筋を伸ばし、十郎を真正面から見据える。
「よい。見事な太刀筋よ。その腕、伊達の世を脅かすほどに育てよ」
十郎が一瞬、その温かい言葉に動きを止めた。その隙に、左月斎は最後の力で拳を握り、十郎の胸に渾身の一撃を叩き込んだ。
「ぐっ!」 素手の一撃を食らい、大きく後ろへ吹き飛ばされた十郎は、雪の上を転がった。
――馬鹿な、死に体のはずの老人が、素手で私を弾き飛ばしただと?十郎はうめき声を上げ、必死に身体を起こそうとした。だが、左月斎は追撃してこなかった。
左月斎は感じていた。
――風が止んだか…。そろそろ頃合いかな…。
左月斎は正面を見据えたまま大きな声で叫んだ。
「彦五郎殿、お願い致す」
左月斎の、低く、たくましく、そしてどこか凛とした声が、周囲に風の渦を作り、それが天に舞い上がって行くようだった。
だが彦五郎の返しの言葉が無い。
「彦五郎殿!」左月斎はもう一度呼んだが、何も起こらない。
「我が風は吹かなんだか……、是非もない…」
左月斎はそう呟き、彦五郎が無事生きて逃げ延びてくれていることを祈った。
十郎は驚きの表情を浮かべた。
「なんと言うお方だ……素手でこの私を突き飛ばすとは……。
鬼庭左月斎殿、あなたの武勇は決して忘れませぬ」
そして十郎は最後に言った。
「鬼庭左月斎良直、命頂戴仕る。覚悟!」
刀が振り下ろされた。
左月斎の身体が、崩れ落ちた。
意識が薄れ、今まさに命が尽きようとしている時、倒れている左月斎の眼前に、黄色い花が一本だけ咲いているのが目に入った。
「あ、あれは…石蕗…て、輝宗様」
「もうよい、良直。今まで本当によくやってくれた。もうそろそろゆっくり休め。其方が家臣で本当に良かった」
それは輝宗の声だった。そして血に染まった地面に手をつき、最後の力で顔を上げた。
「輝宗様…、政宗様の背は息子の綱元に託しました。どうか…ご安心…くだされ…」
そのまま、静かに息を引き取った。
その時、突然馬に乗った一人の武将が対岸から現れた。
鬼庭家当主であり、左月斎の嫡子の鬼庭綱元だった。
「拙者は鬼庭家当主、鬼庭綱元と申す。わが父との勝負、しかと見届け申した。十郎殿、父の亡骸をわが手で故郷まで運ぶこと、お許し願いたい」
「綱元殿でおられますか。今の話、この窪田十郎、しかと承りました。ご安心なされよ」
佐竹義重は、この二人のやり取りを聞いて、すぐさま全軍に号令を出した。
「左月斎の亡骸は、礼をもって綱元に渡すこと。そして、この二人を決して追わぬこと」という内容のものであった。
綱元は父親を馬上に乗せ、そして深々と頭を下げて礼をし、北へ帰っていった。
連合軍は、その姿を眺めるだけで、二人を追いかける者は誰もいなかった。




