第六章 新しい風と、泥這う者たち
半年後。
「おはようございます」
「おはようございます」
健太は小さく頭を下げた。
以前なら、自分から挨拶することなどなかった相手だった。
かつて副社長だった男の机は、今では一般社員たちと並んでいる。
個室もない。
秘書もいない。
専用車もない。
副社長時代。
健太は多くの仕事を部下へ投げていた。
自分は承認するだけ。
会議では他人の企画を批判するだけ。
それでも、肩書きが自分を守ってくれた。
今は違う。
「高橋さん」
若い課長が健太を呼ぶ。
「はい」
「昨日お願いした資料、数字が合ってません」
「え?」
「ここ。売上予測」
「でも、経理から来た数字をそのまま――」
「確認するのがあなたの仕事でしょう」
健太の顔が赤くなる。
以前なら怒鳴っていた。
――誰に向かって口を利いている。
そう言えば済んだ。
しかし今は言えない。
「……すみません」
「午前中に直してください」
「はい」
若い課長が去っていく。
健太は奥歯を噛んだ。
窓の外には青い空。
だが健太には、それを見る余裕もなかった。
別のフロア。
「高橋さん!」
「はい!」
梨奈が走ってくる。
「コピーじゃなくて、この資料三十部、製本までお願いしたんだけど」
先輩社員に言われ、梨奈は青ざめる。
「えっ、製本もですか?」
「メールに書きましたよ」
「すみません!」
「十五時から会議だから、それまでに」
「はい!」
梨奈はコピー機へ走った。
入社初日。
梨奈は一週間で辞めると言っていた。
「こんな雑用するために大学出たんじゃない」
そう泣きながら美咲に電話してきた。
美咲は答えた。
「じゃあ辞めれば?」
梨奈は絶句した。
「でも生活費は自分で稼いでね」
電話は切れた。
梨奈は辞めなかった。
初任給の日。
初めて自分の給料だけで一か月暮らす難しさを知った。
二か月目。
仕事で失敗して先輩に謝った。
三か月目。
同期が残業しているのを見て、自分から手伝うと言った。
四か月目。
帰宅したあと、美咲へ短いメッセージを送った。
――お母さん。
少し間を置いて。
――今まで家のこと全部やってくれてたの、当たり前だと思ってた。
さらに。
――ごめんなさい。
美咲はすぐには返信しなかった。
十分ほどして。
――今度、ご飯でも食べましょう。
それだけ送った。
梨奈はスマートフォンを見ながら泣いた。
一方。
健太はまだ変われずにいた。
離婚は成立した。
家も出た。
副社長として受け取っていた高額な報酬もない。
以前と同じ生活はできなかった。
「俺は本来こんな仕事をする人間じゃない」
居酒屋で昔の知人に愚痴をこぼす。
だが。
「じゃあ辞めれば?」
返ってくるのは、それだけだった。
肩書きを失った健太から、少しずつ人が離れていった。
その頃。
美咲は京都にいた。
一人旅だった。
十年間、一度もできなかった。
朝。
静かな旅館の縁側に座り、庭を眺める。
湯気の立つお茶を一口。
誰も呼ばない。
「美咲!」
と怒鳴る声もない。
「ご飯まだ?」
と催促する声もない。
夜中に起きる必要もない。
ただ静かな時間だけが流れている。
美咲は寂しくなかった。
不思議なほど。
むしろ。
ようやく自分の人生が戻ってきた気がした。
バッグから一枚の写真を取り出す。
和子との写真だった。
病気になる前。
二人で近所の公園へ桜を見に行ったときのもの。
和子が笑っている。
美咲も笑っている。
「お義母さん」
写真へ話しかける。
「京都、来たかったんでしょう?」
和子は生前よく言っていた。
身体がよくなったら京都へ行きたい。
紅葉が見たい。
湯豆腐が食べたい。
結局、その願いは叶わなかった。
「一緒に来ましたよ」
美咲は写真を庭へ向けた。
風が吹く。
木々が揺れる。
「私ね」
美咲は微笑んだ。
「最初は、健太を全部失業させてやろうかと思ったんです」
和子なら何と言うだろう。
きっと困った顔をする。
「でも、やめました」
健太には働いてもらう。
今まで見下してきた普通の社員と同じ場所で。
自分の力だけで。
それが一番いいと思った。
梨奈にも同じだった。
罰したかったわけではない。
知ってほしかった。
人に何かをしてもらえることが、当たり前ではないことを。
誰かの時間を奪って生きるなら。
いつか、その代償を払う日が来ることを。
スマートフォンが鳴った。
梨奈からだった。
――お母さん、京都どう?
美咲は庭の写真を撮った。
――最高よ。
すぐ返信が来る。
――いいなー。
続いて。
――私も自分でお金貯めたら行きたい。
美咲は少し笑った。
以前なら。
――連れてって。
そう言っていただろう。
美咲は返信する。
――そのときは一緒に行きましょう。
――ほんと?
――ええ。
少し考えてから付け足した。
――あなたのおごりで。
すぐに。
――えええええ!
と返ってきた。
美咲は声を出して笑った。
その日の夕方。
佐藤から電話があった。
『旅行中にすみません』
「大丈夫ですよ」
『会社のことで一つだけ確認を』
簡単な報告を聞く。
「お任せします」
『承知しました』
電話を切る直前。
佐藤が言った。
『そういえば健太君ですが』
美咲は少し黙った。
「はい」
『今日、初めて自分から残業を申し出ました』
「……そうですか」
『仕事が終わらなかったから、ですが』
美咲は笑った。
「それでも一歩でしょう」
『そうかもしれません』
電話を切る。
夕暮れの空を見上げる。
和子を失った悲しみは消えない。
十年間が戻ってくるわけでもない。
けれど。
失った時間ばかり数える人生は、もうやめようと思った。
これから先。
自分のために使える時間を数えていけばいい。
美咲はゆっくり立ち上がった。
夕食の時間だった。
今日は誰かに急かされる必要もない。
食べたいものを。
食べたい時間に食べる。
それだけのことが。
こんなにも嬉しい。
同じ頃。
会社では健太が一人、パソコンの画面とにらみ合っていた。
数字が合わない。
何度計算しても合わない。
「くそ……」
悪態をつきかけて。
やめた。
隣では若い社員が黙々と仕事をしている。
健太は聞いた。
「あの」
「はい?」
「ここの計算……教えてもらえるか?」
若い社員は少し驚いた顔をした。
そして。
「いいですよ」
椅子を寄せてくる。
健太は小さく頭を下げた。
「……頼む」
それが更生の始まりになるのか。
それとも、ただ今日だけのことなのか。
美咲には分からない。
そしてもう。
知る必要もなかった。
旅館の庭に、夜の風が吹く。
美咲は和子の写真を胸に抱いた。
「人間、吐いた言葉の責任は、自分で取らなきゃいけないものね」
そして少しだけ笑う。
「私も含めて」
――私はこれから、自分の人生を生きる。
そう口にしたのだから。
その言葉に責任を持とう。
四十二歳。
遅すぎるスタートだとは思わなかった。
人生の残り時間を。
誰かの顔色を見るためではなく。
自分が笑うために使う。
空には一番星が光っていた。
美咲は顔を上げる。
その表情にはもう。
誰かに許しを求めるような影はなかった。
ただ晴れやかに。
新しい人生を始める人の笑顔があった。
――完――




